鍵の武具姫④

「月影宮……?」


「東西南北の離宮とは別に、王宮の裏手にあるんだ。昔からお化けが出るだの、処刑された人の恨み声が聞こえるだの、いわくつきの宮さ。小さい頃に兄貴と忍びこもうとして、こっぴどく叱られた覚えがある」


 オウリムが遠い目をして微かに笑う。兄貴と呼ぶ声には揺るぎない愛情がこもっていて、ほんの少しだけ淋しい響きがする。わたしでは埋めてあげられない気持ちに、ただ黙るしかなかった。


「華? お化けが怖い?」


「全然平気です! わたし、基本的に見えるものしか見えない人間なので!」


 笑ったオウリムがわたしの髪をくしゃくしゃに撫でる。そのまま立ち上がり、碁盤を片づけた丸机に鎮座している資料をあさる。紙の山が右に揺れ左に揺れ、見ているこちらがはらはらしてしまう。

 オウリムが地図と数冊の資料本を手に取り、長椅子へ戻ってくる。地図には金の花のマークが浮かんでいて、一つだけ王宮の裏手をうろうろ動いていた。ケイケイだ。


「これも昔からもっぱらの噂なんだが──月影宮は動き、そして消える。再度現れたら位置が違うなんてことは、ざらにあるんだ。ケイケイに位置を追ってもらっているが、やっぱり消えたり動いたりしているらしい。二人目の鍵の武具姫の仕業だろうな」


 鍵をかけている建物が動く、消える。

 なんのために? 見せたくないものがあるから?

 見せたくないもの──皇帝陛下とお姉様。表舞台から姿を消し、そのまま月影宮に囚われているとしたら。


「皇帝陛下とお姉様がいらっしゃるかもしれません!」


「十中八九そうだろうな。この三年間で調べられていないのはそこだけだ」


 わたしとオウリムはお互いの手をあわせて打ち鳴らす。ぱん、と良い音が鳴り、沈んでいた東の離宮の空気が払拭される気がした。


「この鍵は俺が預かっておく。華、それでいいか?」


「もちろんです」


 わたしはこくこくと首を縦に振る。オウリム様が持っていてくれるなら一安心だ。わたしだったら、二個も三個も大事な鍵は持ち歩けないし、最悪ドンファン将軍のように落としてしまうかもしれない。それは困る。

 ドンファン将軍は鍵を落としたことに気づいて、槍のお姉さんを怒っているのだろうか。あれだけひどいことをしておいて、さらにひどいことをしていたら。今度会ったら一発ぐらい殴るかもしれない。

 わたしがふぅぅぅぅと静かに怒りをおさめている横で、オウリムが資料本をめくり、該当の箇所を指で示した。


「二人が反逆罪に問われたのが、この清流清蘭せいりゅうせいらんの儀式。皇后が行ってきた慈善事業を褒めるために開催された。大勢の人間が見ている中で、皇太后から記念碑と記念杯が皇后に下賜され、最後にグラスで乾杯して終わる。流れ的にはたったこれだけなんだ。

 けれどもあの日は違った。まず皇后から記念杯を受け取った女官が真っ青な顔をして記念杯を放り投げ、その場で嘔吐した。記念碑を受け取った女官も真っ青な顔をして震えて立っていた。そして最後のグラス交換──中身のワインを準備したのは俺なんだが、皇后が震える唇で乾杯を拒否した。笑いながら飲んだ皇太后は血を吐いて倒れた。記念碑が割れる音がして、もうここからはしっちゃかめっちゃかさ。

 後日話を聞いたところ、皇后と女官二人は虫が見えていたらしい。記念杯には百足が、記念碑には大きな蜘蛛が、そして乾杯を拒否したグラスには大量のミミズが詰まっていたそうだ。逆に皇太后のグラスは、少量の毒が入っていた以外はまるっきり普通で虫なんかいなかったらしい。結果的には、見えない虫騒ぎは皇后の虚言とされ、兄貴の部屋から毒が見つかったことも含めて、俺と皇后は兄貴に協力して皇太后を毒殺しようとした。これで皇太后に対する反逆罪が確定し、今に至るってわけさ」


 わたしはオウリムが語る言葉を一言でも漏らすまいと、全神経を集中して話を聞いていた。

 見えない虫ってなんだろう。お姉様と女官二人にだけ見えた虫。産毛が逆立つ感じがする虫だらけ。嘔吐したくなる気持ちも分からなくはない。

 次は毒。皇帝陛下の部屋から見つかったというけれども、そんな簡単に分かるところに置くだろうか。まるで誰かが、皇帝陛下が犯人です!と言えるように準備しておいたみたい。


「毒をお飲みになられた皇太后様は大丈夫だったのですか?」


 わたしの質問にオウリムは一瞬だけ嫌そうな顔をした。「ぴんぴんしてるよ」との言葉に、微かな嫌悪感を感じる。

 そういえば、オウリム様はお兄様の話は好んでされるけれども、皇太后──自分の母親についての話はほとんどされない。先代の皇帝陛下は亡くなられているから話をしないのだとしても、まだ存命の母親の話をしないのは何か妙だ。言いにくいことでもあるのだろうか。

 わたしは思いきって聞いてみることにした。


「オウリム様はお母様が苦手なのですか?」


「……苦手といえば、苦手」


 オウリムが沈んだ息を吐き出し、言葉を選ぶようにして先を続けた。


「親父が死んでから、変な魔術に傾倒するようになったんだ。亡者が生き返るだの、災いが起きないようにするだの、俺たち兄弟が不死になるだの。何を言っているのかもよく分からないようなやつまで色々と。俺には見えなかった虫も、変な魔術で三人にだけ幻覚を見せたのではと疑っている。

 親父が死んで寂しいんだろうな、とは思う。けれども俺は、兄貴と義姉を反逆罪で訴えたことを許しはしないし、俺を呼び出しては『早く玉座につけ』と言われるのも嫌だ。兄貴達はまだ生きているんだ。俺は玉座につく気はさらさらない」

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