そんな溺愛はいらない――「その紫の煙はなんだ!」「スパダリ育成薬です」「スパダリ育成薬⁉」

カフェ千世子

お香には癒し効果や鎮静効果があります

 アメリは悩んでいた。だが、その悩みを人に言えばぜいたくな悩みだと言われて相手にされないだろう。誰にも理解されないと思って、アメリはただ落ち込んでいた。

「浮かない顔だな。どうした? 何を悩んでいる?」

 夫が顔を覗き込んでくる。アメリはその顔から視線を逸らしつつ、首を振る。

「なんでもないわ」

「なんでもないことないだろう」

「本当になにもないのよ……煩わせてしまって、ごめんなさい」

「煩わしいなどとは思っていない。君の憂いはなんでも取り除いてあげたいんだ……ほら、今日の子羊のソテーは中々の絶品だ」

 口元に肉片が運ばれる。アメリはゆっくりと口を開いた。口中に肉片が入れられる。口を傷つけないようにと、フォークから肉をとる。

 しっかりと咀嚼する。ゆっくりと噛みたいが、そんな余裕もない。急いであごを動かす。


「美味しいか?」

 すぐに次の肉が口の前に用意される。まだ口の中の肉は飲めていない。慌てて喉奥に押し込む。飲み込んだのを確認されると、すぐに次の一口がやってくる。



 味がしないわ。



 アメリは、ため息を吐きたい。だが、そんな余裕はない。落ち着いて、ゆっくりと、自分のペースで食事をしたい。そうすれば、肉を味わう余裕もできるだろう。しかし、それが許されない。



 夫は、アメリを膝に乗せて食事を食べさせてくる。新婚当初からずっとこうである。

 最初に、自分で食べられると自分で食べると主張したのだ。だが、遠慮はするなと聞き入れてもらえず。

 抵抗する気力は次第に削がれた。夫の膝の上も座り心地がいいわけではない。とにかく落ち着かない。


 アメリにとって、夫は親同士が決めた結婚相手である。彼のことはまだ好きになってはいないと思う。もちろん、互いに歩み寄れればとは思っている。

 だが、とても疲れている。

 彼のことがわからない。わからないのに、こんなことをされても、落ち着かない。



 アメリは外出を制限されている。夫は外は危険だと言う。買い物は商人を家に呼べと言われる。別に買いたいものがあるわけでもない。気晴らしをしたいが、家の中でできることも限られている。

 もう見飽きた素晴らしい庭園。いや、花も移り変わるので見飽きることはないのだろうが、ずっと心が浮き立つこともなく過ごしていると、庭園を楽しむ余裕も萎えてくる。



 アメリは、刺繍も読書もそれなりには嗜むが、大好きというわけでもないし、ずっとそればかりも疲れてしまう。

 何か他のことがしたい。

 アメリは、元々暇をしていれば外に出て、観劇や絵画鑑賞、商店を覗いたりなどをする方であった。


 外に出たい。




「気鬱ですね」

 どうにも元気が出なくて呼ばれた医師は簡単に診断を下した。

「気鬱……!」

 夫はアメリの肩を抱きながら、悲壮な声を出す。まるで我がことのように衝撃を受けている。


「どうして打ち明けてくれないんだ! 君の悩みはすべて取り除きたいと言ってるのに!」

「打ち明けられるわけないでしょう」

 声を大きくする夫に、医師はこれまた簡単に言い切った。


「打ち明けられるわけないとはどういう意味だ」

「新婚の奥さんでしょ。生家を離れていらっしゃるんですよ。それだけで気は沈んで当たり前ですよ。しかも、新たにできた家族には嫌われないようにしようと気を遣うもの。そんな当たり前のこと、普通は言わなくたってわかるものなんですよ。それをわざわざ打ち明けろなんて言われれば、より一層気を遣うものじゃないですか」

 はあ、やれやれとあからさまにため息交じりに言われて、夫はぐっと黙る。



「……奥様と二人でお話を聞かせていただこうかと思ったんですがね」

「配偶者でもない、身内でもない男と二人きりなど!」

 夫の言葉に医師はあからさまにため息を吐く。

「やはりあなたをどうにかしないといけませんねえ」

「……どういうことだ」

「あなたと二人でお話しさせてください」




 別室に移り、医師と夫は二人きりになった。

「あなたのお名前をお教えください」

「? 何をいまさら」

「これから行うカウンセリングに必要な手順だと思ってください。あなたのお名前をあなたの口からお教えください」

「……クロム・ラドー」

「ラドー卿。あなたはつい先日ご結婚した。そのお相手の名前は?」

「アメリ。アメリ・ラドー。生家はビドル家」

「あなたは奥方アメリ様を愛している」

「当たり前だ」

「一目惚れですか? 婚約期間はとても短いものですよね」

「それに何の問題が?」

「う~~ん。あなたが普通の状態なら、一目惚れにもなんの問題もないのですがね」

 クロムは医師の言葉に反論しようとしたが、黙った。アメリの気鬱の原因が自分ではないか、とさすがに気づきだしたのだ。


「さて、もっといろいろ説明したいところですが、カウンセリングを速やかに済ませるために、少し道具を使わせていただきます」

 医師が自身の鞄から何かを取り出した。何をするのかとじっと見ていれば、それはお香か何かのようだった。


「香を焚くことで精神を落ち着かせるのか?」

「まあ、そんな効果も一応あります」

 お香から、ゆっくりと煙が立ち上がる。花に樹木を混ぜたような香りが辺りに漂い出す。

 悪くない香りだな、とクロムが思っていると立ち上る煙の量が増えだした。


「その紫の煙はなんだ!」

 立ち上る煙になぜか色がついていた。それも毒々しい色をしている。

「スパダリ育成薬です」

「スパダリ育成薬⁉」

 それは一体なんだ⁉ 問いたかったが、クロムはそこから目の前が真っ暗になり、意識が遠のいていった。




 クロムは夢を見ていた。夢だとわかったのは、自分が立っているところから離れたところに、幼少期の自分がそこにいたからだ。

 幼いクロムは母の膝の上にいた。まだ、一人で食事もすることができない、そんな幼い頃の自分。


 幼い自分は母に食事を口に入れてもらいながら、にこにこしている。

 美味しい? と聞かれて、その言葉の意味を分かっているわけではないだろうが、うんうんとうなずく。ぱたぱたと手を動かす。母もにこにこしている。


「何をしている?」

 そこへ厳しい口調で声がかかる。父である。何も詰問することはないと、大人になったクロムは思うが、子供のクロムにはそんなことはわからない。厳しい声と表情にただ怯えている。

「離乳食を食べさせていたのですわ」

「そんなもの、乳母にやらせればよい。なぜ膝に乗せる? そんな甘やかせる必要はない」

 大人になったクロムには、父の主張はよく理解できなかった。こんな乳幼児に甘やかすも何もないと思う。




「……あっ、あれ? ここは……」

「お気づきになられましたか?」

 クロムは目を瞬かせる。目の前には医師。気を失う前と同じく向かい合って座っている。

「あの紫の煙は?」

「まあ、あれは催眠療法に入るための合図であって、あれ自体に大した意味はないです」

「催眠療法?」

「はい。問題の根幹を探るために、あなたの深層心理に問いかけるために催眠をかけさせていただきました」

「……問題の根幹」

「はい。幼少期のラドー卿のお父君の歪んだ教育観に原因があったようです」

「父が……」

「簡単にご説明しましょう」

 医師はメモを片手に解説を始めた。



「……というわけで、ラドー卿はご自分でご自身の育て直しをされたわけなんですが、その際に奥方を巻き込んでしまったんですね」

「私は、妻を子のように扱ってしまっていた、と」

「ええ。いい大人が本人の希望も無しに子供扱いをされるのは、少々辛いものです」

 クロムは目をつむって、悔恨に沈んだ。妻を愛していると思った。そのために、深く愛情表現をしようとしたが、それは間違っていた。


「まあ、そうやって振り返れるなら、いくらでも取り戻せますよ。この後は奥方と、お話ししましょう」

「妻は、私と話してくれるだろうか」

「ええ。そこまで致命的に嫌われるところまではいってませんから」




「アメリ、すまなかった」

「いえ、私もごめんなさい。ちゃんと自分の感じたことを言葉にできていれば良かったのよね」

「これからは……勝手に君を膝に乗せないと誓う」

「膝に乗せられることが嫌なわけではないのです。二人で過ごすときには、たまにはそういうひとときがあってもいいと思います」

「そうだな。そういうのは君といい雰囲気になってから……したいな、と思うんだが」

「はい。焦らずにゆっくりでお願いしますね」

 クロムはアメリと向き合って話した。初めて落ち着いて対等に話をできたのではないか、と思う。

 決して人形のように扱いたいわけではなかった。やはり生き生きとした表情を見れれば安心できる。




「まったく、妻の管理もろくにできないとは情けない!」

「旦那様、そのような言い方はお控えください」

「何を言う。クロムもアメリも精神が薄弱だから、こんなことになるんだろう!」

「……誰だって、つまずくことはありますわ。何も失敗しない人なんていないのです」

「小賢しい口をききおって」

 クロムの父は口さがなく二人をなじり、クロムの母はそれをたしなめる。だが、クロムの父は彼女の言葉を封殺する。クロムの母はぎっとにらまれて、体をすくめる。


「旦那様に、医師の先生とお話ししていただきたいのです」

「ふん。こちらには話すことなどない」

「お願いですから……」

「医師の先生の方からも旦那様とお話をしたいとおっしゃってます」

 控えていた執事が言葉を添える。

「無視なさると外聞も悪くなるかと……」

 執事に言われて、クロムの父は渋々医師と対話することにした。



「はい。じゃあ早速ですが始めますねー」

「なんだその紫の煙は!」

「スパダリ育成薬です」

「スパダリ育成薬⁉」



 数年後。ラドー家には男子が生まれていた。

「ケント、美味しいか?」

「うー!」

 クロムは息子を膝の上に乗せて離乳食を食べさせている。ケントはご機嫌で食べている。

「もう一口いくか?」

「うー」

 機嫌よく答えていたが、ケントは口に含んで噛んだ後ダラダラと口から出した。

「あっ! お腹いっぱいだったか!」

「あらあら」

 クロムとアメリは笑いながら、ケントの口元を拭いてやる。二人は子供の失敗を笑いながら受け入れている。


 その様子を先代ラドー卿夫妻が見守っている。屋敷には穏やかで優しげな空気が満ちていた。

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そんな溺愛はいらない――「その紫の煙はなんだ!」「スパダリ育成薬です」「スパダリ育成薬⁉」 カフェ千世子 @chocolantan

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