第22話 逃げない

 私は重たい心に引きづられてその日遅くまで学校にいた。私が今逃げ込めるところは部室しかない……その部室も色々知っている高良先輩がいるから本当は行きづらいはずなのに、私はぼんやりと窓の外を眺めて夕日が落ちていくのを見つめていた。部屋に差し込む西日の朱さが心の中の甘酸っぱい感傷と重なり合って一緒に溶けていってしまいたいような気持ちだった。

「さて、帰ろう」

 鞄に手をかけると、どこからかかすかに、かすかに聞いたことのあるメロディが流れてきた。『碧の、バラード……』私は部屋を飛び出して音のするほうへ向かった。

「軽音部の部屋から…?」

 いや違う、この先は……音楽室だ。音が近づくに連れて心臓が高鳴る。息が早くなる。私は扉の前で立ち止まった。開けようか、どうしようか迷っている。いつもこんな風に私は煮え切らない。これじゃあどうにもならない。私は目をつむり大きな音をたてて扉を開けた。ピアノを弾いていたさつきが驚いて顔を上げた。

「やっぱり、まだ学校に残ってた?」

 さつきは静かに笑ってピアノを弾き続けた。

「作伽祢に聞いたの、今日のこと。巻邨さんが凄い顔してたって」

「えっ……」

「この曲やっぱり巻邨さんのために作った曲だったんだよね。私初めてあなたと遠野君見た時にそう思ったの。

 でも、二人ともつき合うとかそんな風にならないから……」

 さつきの弾くメロディーは一層もの悲しいバラードになって私の心を締め付けた。

「つき合うって、私達…従兄弟同志だし、うまく行かないの」

 さつきには素直になりたいと思った。さつきも剣士のことが好きなんだから。いいかげんなことは言わないって。

「巻邨さんは……遠野君のこと好きなの?」

「え!」

 そうちゃんと答えなくちゃ。

「ええ…」

 さつきは意外な顔をして

「なんだ。そうなんだ」

 とピアノを弾くのを止めた。私は力が抜けて机に尻餅を着いた。

「巻邨さん。遠野君が何を思ってるのか私にはわからない。私達色んな意味で頑張ってきたの。みんな遠野君に引っ張られて夢中でやってきた。でもこの頃、遠野君は抜け殻みたいになってしまって……私見ていて辛い。もちろん簡単なことじゃないと思うの。人を好きになることや、そのことを大切にすること、簡単なことじゃないってわかってる。

 だから、あなたにどうして欲しいなんて言えないの。

 私も遠野君が好き。あなた達がうまく行きそうに無いって知って、少しホッとしたの。私にもチャンスあるかもって、でもわたしじゃ駄目みたい。駄目ってわかってるけど、一緒にやっていきたい。そういう愛情もあると思う。どっちかって言うと友情に近いけど……私のはね……」

 さつきはそう言った。

「…………」

 自分の思っていることこんな風に言えるさつきが羨ましい。私の中には言いたいこといっぱいあるけど何一つ言葉にならない。何も言えずにいる私の横を通り抜けてさつきは音楽室から出ていった。

 さつきの言葉は私のことを私のことを責めているのでもなんでもなかったけど、私の心に深く刺さって、私と剣士、二人のことと思っていたことがもっと違う大切なことのように思えた。

 自分のことと思っていたからそこから一歩も抜け出せなかったんだ。私と剣士が幸せになっていくことがもっと違う意味があるんだって思ったら、自分の中に覚悟が出来て目の前の霧が少しづつ晴れていくような気がした。


 家に帰ると母さんが慌てていた。

「なに?」

 玄関に見知らぬ人の大きな靴がそろって並んでいて、

「あ……お客さん……忘れてた」

 と母さんに謝った。

「まったく、なんで家の人はそう何でも忘れちゃうのよ。父さんも今帰ってきたところ母さん一人でハラハラしどうしだったわよ」

 剣士のことがあって以来、母さんは前より心配性になった。私達がそんなことくらいと思うようなことでもそわそわして、今では普通のそこら辺に居るお母さんになってしまった。

「ねえ誰が来てるの?」

「お姉ちゃんの旦那様になる人だって」

「えっ……」

 母さんは忙しく手を動かしながら私の質問にだけ応えた。私は予想もしてなかった言葉にまたしても言葉をなくした。姉さん…結婚するの?……

 チラッとリビングを見ると靴の通り大きな人が座っていた。小さくない父さんがいつもより小さく見える。

「母さん、あの人?」

「日本人とフランス人のハーフなんだって。画家らしいの。フランスでは有名な人らしい」

「フランス人ってこと?」

「さあそれは聞いてないけど…」

 母さんは忙しそうに夕食の準備をしていた。私にあれしろ、これしろとかなりあわてて混乱しているようだった。

「ねえ前から話しがあったの?」

 母さんは激しく首を左右に振って、

「連れてきてからそう言ったの、フランスでもずっと一緒に暮らしてたって」

「えー!」

「ひみこ大きな声出さないの」

 そんな、私は心臓がバクバクした。今日は朝から動悸が激しい。なんか悪夢のような一日で目が回りそうだった。

 だけど…姉さんずっと幸せだったんだろうな。そうじゃなきゃ私が泣きついたとき好きな人がいる方が幸せだって言えないよね。私はこっそりリビングをのぞいて姉さんの大切な人を眺めて見た。

 夕食の時、私のことも父さんから紹介してもらった。彼は日本語もフランス語もわかるらしく、時々不思議な言葉の混ざる日本語を話していた。結婚を申し込みに来た割には結婚式の話しも出ない。いったい大人は何を考えているのだろうと思いながらも頭の中は剣士のことでいっぱいだった。

 剣士と話しをしよう。私、口下手だけど、うまく言えないかも知れないけれどやっぱり話さなきゃ。剣士に自分の心を伝えよう。下手くそだって良い。そう覚悟を決めていた。

「ひみこ、私達の結婚式、小笠原で挙げようかって話してるんだけど」

「え?」

 そんないきなり突拍子もなく……

「結婚式って父さんOKしたの?」

 父さんはきょとんとした顔をして、

「姉さんが見つけてきた人なら大丈夫だよ。ゆっくり話しを聞いてよくわかったしね。さららが幸せになるのが一番なんだ。さららの幸せが私達の幸せだから……」

 父さん、そうだよね。本当、それしかないんだよね。

「姉さん。良かったね」

 姉さんは少し涙目になって父さんの話しを聞いていた。姉さんこんなに優しくなって綺麗になってきっと最高に幸せなんだろうな。

「あ、それで結婚式は小笠原でって話しね。……私も行けるの?」

 姉さんはあきれた顔をして、

「あったり前よ。新婦のたった一人の妹よ」

 小笠原……気味悪いくらいの星空だって泣いた小笠原。剣士が十年暮らしてた小笠原。大人になって物心ついて、ついに足を踏み入れるのか…もう一度、あそこへ行ってみよう。そして……ちゃんと剣士の碧い海を見てこようと思った。

「小笠原となると直ぐには結婚式できないわねえ」

 母さんが心配そうに言った。

「籍だけ入れてあとはゆっくりでいいよ」

「でも、さらら結婚となるとけじめってもんがあるでしょう」

 ほう……けじめ、母さんの口からその言葉が出ると返ってなにか奥深いものを感じてしまうね。

「そうは言っても春まで待ってって訳にいかないだろう。籍を入れるのも立派なけじめだと僕は思うよ」

 父さんがそう言うとこれまた奥深い。私は終始黙ってことの成り行きをうかがっていた。

「私は直ぐにでも家を借りて暮らしたいんだけど」

 姉さんの言葉に絵描きの婚約者も、

「僕も落ち着いて絵の描ける場所が欲しいです」

 と言った。そうだよな、仕事しなくちゃいけないしどっかにいい家はないかと今度はそっちの話しにだんだん話題が移っていった。

「あ!……」

「なによひみこ」

 あの家。剣士が住んでた柿の木の家。

「あるよ、姉さん。良い物件が…前に話してくれた柿の木の家。今空き家になってて誰も住んでないんだよ」

「柿の木の家って?」

 母さんがピンとくるはずないよね。

「母さん、前に麻子おばさん達が住んでた家よ」

「麻子?ああ、バス亭の奥のあそこ、え、あの家が空いてるの?」

 みんなが一斉に私の方を向いた。

「う、うん、この前遊びに行ってきたの。大家のおじさんが借り手がないようなら畑を作ろうって言ってた」

 それよ!ってみんなで手を打ってさっそく明日話しに行って来ようということになった。

 家が決まったと言うことは姉さんはあそこで暮らすと言うことになるんだね。剣士の生まれ育った家が今度は姉さん達の新しい家になるなんて良いよ、良いよ。万事めでたし。めでたし。

 ことの急展開に頭はついて行けてないけど、私は素直に二人に祝福を贈っていた。

 夜遅くなって姉さんのいいなずけも大仕事を終えて帰っていった。

 今回日本に帰ってきたのも、彼の絵画展を日本でやろうという話しが持ち上がって、これを機に日本での本格的な活動に入ろうと言う幕開けなのだそうだった。今月いっぱいやっている彼の個展を私ものぞいてみようと思った。姉さんの旦那さんの絵はどんな絵なんだろう……


 

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