第21話 姉さんの帰郷
二年間音沙汰もなくフランスで暮らしていた姉さんが突然日本に帰ってきたのには考えて見ればそれなりの理由があった。私がかなり落ち込んでいる時でもあったし姉さんに会えた安心ばかりで姉さんが何を考えているのか聞く余裕も無い。
でも……姉さんはただ帰って来ただけじゃなかったんだ。日本に帰って二週間ほど経ったある日、家に姉さんの大切なお客さんが来ることを知らされた。
「ひみこ今日お姉ちゃんの大切なお客さんが来るから、あんた真っ直ぐ学校から帰って来るのよ。わかった」
母さんからそう念を押された時、何かにはじかれるようにようやく姉さんのことが気になってきた。
「お客さんて誰?」
そう聞いても母さんはニヤけるばかりで何も答えない。
「早く行きな!バスに遅れるよ」
横からそう言ったのは姉さんだった。
「あ、もうこんな時間。行かなきゃ。じゃあ早く帰るからね」
私は靴をつっかけて家を飛び出した。姉さんの優しい顔が玄関まで送ってくれた。姉さんて昔からあんなに優しい顔だっけか?確かに私もつっかかったりしなくなったから喧嘩する原因も無いと言えば無いんだけど、この頃話し方も仕草もぐっとお姉さんぽくなったような気がする。母さんに玄関まで送ってもらったことの無い私は、朝のつかの間の安らぎにちょっと感動していた。
「今日はお弁当も姉さんのお手製か……感謝、感謝」
バスに乗り込むと私は本を開いた。読みたかった本。小説にしたくて読みふけっていた日本神話の背景について書かれた本。高良先輩が都立の図書館で見つけてきてくれた本で、裏表紙に納められた図書カードに先輩の名前が書いてある。先輩の名前を見て心が踊った。左利きの私から見たら書きにくそうに感じる右上がりの字が、カタカタと不揃いに並んでいた。
「おはよう!」
「おはよう」
「おはようひみこ!」
毎日変わらない同じ景色の中で、心の張りをなくしたらすっぽりとその中に捕りこまれてしまいそうな危なっかしい自分。
「おはようございます」
いつも通り文芸部に顔を出すと高良先輩がいつになく真剣な顔で近づいてきた。
「ひみこちゃん」
「先輩どうかしたんですか?」
「大ニュース、本当は良い知らせなんだけど、その先がどうもね」
先輩は私を椅子に座らせて小声で話し始めた。
「そんな小声で話さなくてもまだ部室にだれもいないじゃないですか」
「いや、どう話せばいいのかわからないもんだから、自分を落ち着かせるためにトーンを落としてるんだ」
「そ、そうですか……」
先輩の真剣な顔に私はひるみながら腰を下ろした。
「豊と剣士朗君が知り合ったきっかけの音楽雑誌知ってるよね?」
「あ、はい。剣士の部屋で見たことあります」
「あいつ達その雑誌にグループの曲送ってて、あ、毎年コンクールをやっててね。その本のCD審査に合格してその次のスタジオ審査の連絡があったんだ」
それは凄い話だ。
「やったーって感じですね」
そこから先を話し出した先輩の顔が曇った。
「それが残念なことに今回は止めるって剣士朗君が言ってるらしいんだ」
「なんで〜チャンスなのに、どうして剣士が?」
あんなに張り切ってたのに。
「送った曲がね。問題だったらしい。自信作だったんだろうね。剣士朗君にとっては……」
「あ…」
まさか、それ、もう二度と歌わないって決めてる、私の前でもそう言った…
「『碧のバラード』……?」
「そうなんだ。もう豊もがっくりでね。やる気無くしたって荒れに荒れて昨日は大変だったよ」
と言って私を見て口を塞いだ。
「ずいぶん前に応募したんだろうな。こんなことになると思わずにさ」
あ……
「これ、遠野君に渡して欲しいの。彼急いでたから」
「俺ビックになるからな。コンサート見にこいよ」
あれだ……あの時送った曲なんだ。
満天の星空の下に静かに流れる『碧のバラード』剣士の心が両ほうの手のひらからあふれてこぼれていきそうな旋律。
「あ、ひみこちゃん!」
私は先輩の前に座ってなんていられない。走り出してどこに行くのか自分でもわからない。ただもうじっとしてはいられない。教室に入るといつもの顔ぶれが、私の血ばしった顔を見てギョっとした。その視線に一瞬ひるんで少し冷静になった。冷静になったらどうしていいかわからない。勢いをなくして私はフラフラと自分の席に腰掛けて大きなため息をついた。
「どうしたのひみこ?何かあったの血相変えて」
「ううん、何でも……」
私は自分のふがいなさに憤りを感じた。窓際で剣士は静かに外を見ている。
剣士……私声がかけれないんだ。あなたのことこんなに気になってるのに。剣士が窓から離れて身体の向きを変えたとき。唇に傷。……頬が青くなっていた。ガタ!私は立ち上がると剣士に近づいた。近づいた私の顔に剣士が驚いて動きを止めた。
「剣士……その怪我」
触ろうとした私の手を掴んで。
「豊と喧嘩しただけだ。ちょっともめて」
とつぶやくように言った。
「そう……」
それ以上私には聞けない。剣士の掴んだ私の手が剣士の頬を触りたがっている。あったかい剣士の大きな手が私の手の動きを止めてる。
「大丈夫だよ。大したことないから」
剣士の静かな声がよけい悲しくさせた。
私も剣士が……好きなんだ。剣士も私が好き……なのにこんなに私達いつもすれ違い。近づきすぎないように離れていようとする。なんで、なんでそうなんだろう。同じ教室の中にいて、ろくに口もきかない。剣士が辛い思いをしていても声も掛けて上げられない。
私が手の力を抜くと、剣士もようやく手を離した。
姉さん…お弁当の味がよくわからない。私は胸がつぶれて仕舞いそう……
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