第9話 特訓

 夕食前の一時間くらい…それから毎日、私は学校の人気者の剣士朗を独り占めして自転車の後ろを押してもらった。自転車に乗れるようになりたいなんて思ったこともなかったけど、剣士とさつきが楽しそうに乗っている姿は何時見ても羨ましい光景だった。

「もう少し勢いつけてこぐんだ。行くぞ」

 背中から剣士の声がかかる。私は思いっきりペダルをこいで走った。スッと自転車が軽くなって前に進んだ。自転車がグラッと揺れたとき、

「ブレーキ、ブレーキ、両足でしっかり支えて立てよ!」

 剣士の大声が聞こえた。自転車を止めて振り返るとずいぶん離れた所に剣士が立っている。

「やったな、乗れた、乗れた」

 と言って嬉しそうに手を振って走ってきた。

「オイ!わかった?乗れた感じ」

「うん、スーと軽くなって進んだ。ほんとに私、乗れたの?」

 と息を弾ませて聞くと、

「あそこからここまでちゃんと乗ったって」

 さっきまで自分の立っていたところを指さした。

「もう一回やってみよう」

「うん」

 と私は答えてペダルを踏んだ。自転車が今までより軽く感じた。

「よかったな。乗れるようになって」

「うん」

「どっかサイクリングでもいく予定だったのか?」

「ううん、そんな予定はないよ」

「え、じゃあ何で練習始めたの?」

「なんでって、私もみんなみたいに楽しそうに自転車に乗ってみたいなって思っただけ」

「そっか……俺、そろそろバイト始めようかと思って。家の親小遣いくれないし、少しは買いたいものもあるから。落ち着いたらバイトしようって思ってたんだ」

「バイト……」

 剣士はいつも色んなことを考えている。次から次ぎへ私の何歩も前を歩いている。そして、今度はバイトかと驚いた。

「お前小笠原行く前の俺のこと覚えてる?」

「え?」

 これって何も思い出せない。存在すら忘れててアルバム引きずり出して確認したくらいだから……

「俺ひみこのこと結構覚えてて向こうに行ってからも寂しかったよ。お前気が強かっただろう、気に入らないとすぐ泣くし、俺のもの何でも取り上げていっちゃうし、そういうのがみんな無くなってまいったよな」

 そう言って懐かしそうに笑った。

「私のこと覚えてたの?」

「そりゃあ覚えてたさ。変わった奴だったし刺激的な毎日だったよ。お前のいない毎日なんて星空の無い小笠原みたいに寂しかったな」

 またあって吹き出した。その頃の私に会ってみたいな。もうすっかり忘れてる。私はどんな子だったんだろう。

「私変わってた?」

 と剣士に聞くと、

「変わってたよ。昔の感じとずいぶん違った。もっと我が儘な訳のわからない奴だったけど落ち着いて、女らしくなって、驚いたな。ひみこ…昔はもっとおしゃべりだったぞ。いつもしゃべりっぱなしで俺の出る幕なかったよ。怒ってばっかりで低気圧だったし」

「うそ~そんなの信じられない!」

 確認するのも恐ろしい…やっぱり私は母さん似だったんだ。

「でも、見た感じは変わってなかったよ」

 と一瞬立ち止まって、また歩き出した。

 おかしいね。剣士といるともう忘れちゃった昔のことが甦ってくる。置き忘れた色んなものを取りに帰れるんだなって思った。

「剣士が覚えててくれてよかったな。あんまり極端なイメージの違いはちょっと困ってるけど」

 二人でたどる思い出はおぼろげながら形になっていくけど、一人で甦らそうとする思い出は虫食いだらけでなにも形にならない。

「思い出って思い返してみないとだんだん薄れていくものなんだね」

「お前……」

少し言うのをためらって思い切ったように。

「もっと我が儘にならないといつまでも片思いで終わるぞ」

そう言って剣士は笑った。

 自転車を引っ張って歩く公園の向こうに真っ赤な夕焼けが広がっていた。

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