第98話 お前の後を付いてゆく

 黒馬亭の庭先のテーブルに座って、コーネリアスと天喜あまきは”虹の丘”を見つめていた。


 丘の上が薄紫色に染まっているのが見える。今頃はきっと満開のスミレの花で埋まっているのだろう。

 ここ十数年、春が来ても誰にもその姿を見られることもなしに。


「タルクとゴットフリーが姿を消してからもう10年以上が過ぎるのね。グウィンがうるさいのよ。あの石の扉はいつ開くのかって、私からあなたに聞いてくれないかって」

 

 けれども、まだ時期尚早とコーネリアスは、天喜の言葉に首を横に振った。


迦楼羅かるらとグウィンが16歳になるまでは、私はあの石の扉は決して開かないと心に決めたの。これは、伐折羅ばさらにも伝えてあることよ」


「……ココ、あなた、ゴットフリーと何かあったんでしょ。私にも、あの二人が突然消えたしまった理由をまだ、話してはくれないの?」


「……ごめん、天喜。でもね、姿はなくても、タルクとゴットフリーの心はこのレインボーヘブンに息づいてる。それは、天喜も分かっているんでしょ」


 天喜はそうねと、笑みを浮かべた。美しさが溢れるような笑顔だった。


「不思議ね、あの丘への扉が開いた時には、また、タルクに会えるような気がするの」


 コーネリアスはその時、ふと空を仰ぎ見た。

 12年前の光景が脳裏に浮かんできたからだ。


 私が最後にゴットフリーとタルクを見た日にも、虹の丘にはスミレの花が咲いていた。あの日は、迦楼羅とグヴィンがもうすぐ4歳を迎えようとしていた春の日だったと。


* * *


「冗談じゃないわ。私の金のロケットと、ゴットフリーの銀のロケットを双子たちに譲り渡せだなんて!」


「お前は俺が差し出そうとしたイリスソードを受け取ろうとしなかったじゃないか。そのせいであの剣は、いまだにこの”虹の丘”にしまわれたままだ。俺からの申し出をそう何回も断るな」


「そんなこと知るもんですか。ゴットフリーだって、グランパス王国からの申し出をずっと断り続けてるくせに」


「王女とのことか。それとこれとは話が別だ」


 丘の上に座って海を見ていたゴットフリーは苦い笑いを浮かべてそう言うと、自分の胸から銀のロケットを外し、横にいた妹の手に強引にそれを握らせた。


「俺は彼らに残してやりたい。レインボーヘブンの伝説を追う中で、俺たちを結びつけたこのロケットを」

「でもっ、これは私とゴットフリーの兄妹の証なのにっ!」

「ほぉ、そう思っていてくれたのか」


 からかうような笑みで見返してきた兄の灰色の視線。それが、あまりにも柔らかで、ココはロケットを返すタイミングを完全に逸してしまった。


「い、今はまだ渡さないで、預かっとくだけだからっ」


 受け取ってはいけない。受け取れば、この男は絶対にどこかへ行ってしまう。それが分かっているのに……。その時だった。丘の下からこちらに向かってやってくる巨漢タルクの姿が見えてきたのは。


「おーいっ、ココ! いい加減に帰ってやれ。やんちゃな双子が”母ちゃん”がいないと、下で痺れをきらして駄々をこねてる。子守の天喜もテンパりっ放しだ」


「うわっ、ごめんっ、あの子たち、ちっともじっとしてないんだから」


 ココは立ち上がりざまに、念を押すように言った。


「ゴットフリー、絶対に、絶対に、どこへも行っちゃ駄目だよ! ちゃんと家に帰ってきて」


 黒衣の男は胸を梳くような笑みを浮かべた。そして、言った。心の中に染み入るような静謐な声音で。


「心配するな。何があっても、俺はお前の後を付いてゆく」


 不安顔でココが丘を下りだすと、丘へ登ってくるタルクとすれ違った。


「ほらほら、早く行ってやれよ。そうしないと、あいつら、しまいに泣き出してしまうぞ」


 人の好さげな顎鬚の顔が不安な心を癒してくれる。すると、大きく温かなタルクの手がココの頭をぽんぽんと叩いた。


「天喜によろしくな」


 ”うん”と答えて、足を前に出す度に、丘に咲いたスミレの花から薄紫の光が飛び散るような気がした。美しく温かな日差し。爽やかな海風とふわりと足元にかかる黒砂の感触が優しかった。


 丘を下ってゆく。ふと気になり、ココは立ち止まってもう一度、後ろを振り返ってみた。


「くすっ、タルクったら、いつだって、ゴットフリーの背中を守っているんだから」


 ゴットフリーの後ろで仁王立ちになっている巨漢。タルクはあの態勢がもう癖になってしまっているようだった。

 その時、


「えっ、タルク?」


 ココは驚いて目を瞬かせた。ゴットフリーの後ろに立っていた巨漢の影が、見る見るうちに崩れてゆくではないか。やがて、風に吹かれた黒砂が風の中を通り抜けていった。


「タルクが消えた……」


 背筋が冷たくなった。まさか……みんな、消えてしまうの? こんな風に……


「駄目っ、行かないで!! ゴットフリー!!」


 あらん限りの声で、丘の上に向かって声をあげる。その時ココは、夢幻のような景色を見た。


 誰かいる……ゴットフリーの傍に


「あれって……男の子?」


 少年はココに気づくと、くったくのない笑顔で手を振ってきた。


 小麦色の髪。快活で底抜けに明るい笑顔。


 私、あの子を知ってる! でも、それが誰だったかが分からない。ただ懐かしいの……あの笑顔が。

 呆然と見入っていると、ゴットフリーが軽くココに向かって右手を挙げた。


 行け。俺はお前の後を付いてゆく。


 頭の中に響く声。それが強くココの背中を押した。

 レインボーヘブンの大地が揺れている。立ち止まるなと声をあげて。


 そうだ、ここで足を止めてはいられない。

 行かなきゃ、私はこの至福の島の平和をゴットフリーから託された。


 まだ、丘の上には二つの影が見えていた。

 ココはそちらに何度も手を振ってからくるりと背を向け、空を仰ぎ見た。もう後ろは振り向かない。


 一度大きく息を吐き、それから、ココは黒馬亭への道を一気に駆け下りていった。

 

 輝く七色の光が、その後を追って虹の帯を架けてゆく。


 過去を未来に託す虹の道標。


 その鮮やかな弧を空に描きながら。

 

 



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