第93話 名無しの精霊


「”見える” っていうのは、”見たくないモノ” でも ”見なくちゃいけない”んだよな」


 ラピスは、窓から外を見ているタルクの背中ごしにそう言った。


 ― 黒馬亭 ― 彼らが今いる、この煉瓦造りの古ぼけた宿屋は、幾多の艱難辛苦を乗り越えて、この地に残った黒馬島の遺産だ。その手前にある小道を一組の兄妹が歩いてゆく。


 タルクはようやく窓から離れ、 


「聞き捨てならないことを言う。お前、この三年間にそんなに”見たくないモノ”を見たっていうのか」


「いや、そうじゃなくて、以前の俺は”心の眼”でほぼほぼ、周りを察知することができたんで、そこに逃げてしまっていたってことだよ。でもさ、それじゃ、ダメなんだよな」


「でも、レインボーヘブンは幸福に満ちた島だ。そこまで”見たくないモノ”に出くわすことはレア中のレアじゃねえのか」


 おどけたように言うタルクに、ラピスは小さく頷き、

「そりゃそうだ。けれども、ここにだって生や死はある。だから、俺は誓ったんだ。”祝福された命”であれ、”死”やたとえそれが”暗い生”であっても、目はけっして逸らさないと。それが、俺に命を与えてくれたレインボーへブンの欠片たちへの恩返しだから」


「おお、目が開いたと同時に、ラピス・ラズリは心も開眼したってわけか! なら、真っ先にやるべきは、お前の診療所に押しかけてくる女の子たちをどうにかしてやることだろ」


「茶化すなよ。それにあの女の子たちだって、一応は患者なんだからな」


「一応は……な。なら、グラン・パープル島からの船で、お前を追いかけて来たお嬢さんもその一員か」


「あ~、そこを突くか」


 タルクは困り顔のラピスを豪快に笑って話を続けた。


「まぁ、その話は後でじっくり聞くとして、伐折羅ばさらは西の山の元盗賊たちを従えて、外海からの侵入者を蹴散らしてるみたいだが、ココは上手くやってんのか。あいつら、若さの勢いでくっついちまったんじゃないだろうな」


「どうだろう。天喜あまきは嬉しそうだけど」


 だって、人の輪に決して交わろうとしなかったばさらにコミュ能力最強のココがきたんだからなぁ。おまけにその兄がひそかに憧れていたゴットフリーだっていうんだから。


まぁ、タルクにしちゃ、複雑な気持ちなんだろうけど。


 ラピスはちらりとタルクを見てから、窓の外に視線を移した。先ほどから見えていた兄妹は丘への道を上ってゆく途中だった。


「ココは随分と背が伸びたな。背丈じゃ今は伐折羅と変わらないんじゃないか。しかし、あいつのお腹に”双子”がいるなんて俺は未だに不思議な気分だが」


 タルクは驚きを隠せぬ顔をする。

「双子ぉ! お前、分かるのか」


「うん、分かるよ。ココの腹から鼓動が2つ聞こえるし。ちなみに、大サービスで教えといてやるが、性別は男と女だ」


 花緑青の瞳も涼やかに、きっぱりと言ってのける。何てこったい。レインボーへブンの欠片”樹林”が体から出ていった後でも、こいつは”見えないモノ”を見定める力を持ち続けているらしい。


 うーむと考え込む巨漢。すると、先ほどから、からかわれっ放しラピスが反撃とばかりに


「ところでタルク、俺からお前に是非とも言いたいことがあるんだが」

「何だ? 改まって」

「お前って天喜と一緒に暮らしてるんだろ? もうさ……結婚しちまったら?」

 と、人の悪い笑みを浮かべたのだ。


 けれども、タルクはそれには微妙な表情をした。


「……無理だな」

「何で! もう夫婦同然じゃないか」


 そんなラピスの手前に自分の片手を突き出して、タルクは指と指を強くこすり合わせて見せた。

 

 その指の間から、ぱらぱらと細かい砂粒が床へ落ちた。


「もうこの体は劣化が始まってるんだよ。あと数年もすれば、砂粒になって俺は消える。そんな男が天喜にプロポーズなんてできるわけがないじゃないか」


 ラピスは絶句した。タルクはトレードマークの顎鬚ごしに笑顔を浮かべ、

「ラピス、お前が、今みたいな女たらしじゃなかったら、天喜をお前にもらって欲しいと、俺は本気で考えているんだぜ」


 するとラピスは不本意そうに眉をしかめた。


「俺がよくても、天喜がお断りだってよ。それに、俺は女ったらしじゃない。あっちが勝手に、こっちに寄ってくるだけだ」

 

*  *  *


 爽やかな西風が外海から吹いていた。


 黒馬亭の近くにある丘の上に座り、ゴットフリーは遠くに見える海を眺めていた。

 こうやって、心を平静にしていると、丘の草花が、かさこそと取り留めもない噂話をささやきかけてくる。海も風も緑の大地も気持ちを緩めると、それに乗じて彼を引き込もうとする。それを迷惑だと感じない自分自身が不思議だった。


「……で、俺をこんな場所へ連れてきた理由わけは何だ」


 ゴットフリーは隣に座ったココに問うた。

「あ~、暇だったから」

「……」


 憮然とした兄。


「あっと、ご免、ご免。ほら、今日ってソード・リリーが一年ぶりにやってくる日でしょ。この丘からなら、海の向こうからやって来る船が見えないかなぁって」


「ここで見張っていなくとも、港に船が近づけば、伐折羅が知らせてくる。それより、お前、ちょっとは大人しく家にいたらどうなんだ。スカーが特注で建ててくれた良い家があるんだろう」


「へぇ、心配してくれてるんだ!」


 嬉しそうに顔を覗き込んでくるココ。だが、ゴットフリーはふんと横を向き、


「お前より、その腹の中の”双子”がな」


 その言葉にココは少なからず驚いた。ラピスはゴットフリーはまだ知らないと言っていた。夫の伐折羅が、誰かに話すとは思えない。


 きっと、”名無しの精霊”がゴットフリーに教えたんだ。兄の周りにはいつもいる、あの気配が。


 ”名無しの精霊”


 ココはそう名付けて、それがゴットフリーの心の大半を占めていることに気づいた時から、そっと心の中にしまっておいたのだ。”名無しの精霊”の正体は決して、兄には聞くまいと。


 聞いて答えをゴットフリーが返してきた時には……。


 その先をココは考えたいとは思わなかった。

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