第89話 生命の萌芽 ~ 純白の心

 黄金きんの光の乱舞。

 ラピスを探して黒馬亭の外に出たゴットフリーは、かつて彼の心を癒してくれた光景に唖然と立ち尽くした。


 サライ村……その入り口は、一面の蓮の花。

 そこに咲く蓮の花は、眩い黄金きんの花粉を空に舞い上げていた。


 なぜ、サライ村の蓮池がここに現れるんだ? あの村があったガルフ島は……俺の故郷の島は、とうの昔に崩壊している。

 

 その時、

「ゴットフリー! 戻ってきたんだね!」


 伐折羅ばさらとココを乗せた黒馬が、こちらに向かって駆けてきたのだ。タルクは一瞬、黒馬を見てたじろいだが、


「タルク、慌てるな! あれは闇の黒馬シャドゥじゃない」


 その馬が闇のオーラを纏っていないことは、ゴットフリーには一目瞭然だった。


「お前たち、ラピスをどこへ連れて行った!?」

「ラピス? ラピスは家の中に……」


 腑に落ちない様子の二人をタルクが叱った。


「馬鹿野郎! お前たちがちゃんと付いていなかったから、ラピスがいなくなっちまった。きっと、誰かが奴の亡骸を盗んでいったに違いない」


「ええっ」


「おまけにこの蓮の花は何だよ! 伐折羅っ、元”夜叉王”で盗賊団の頭! お前が一番、怪しい。その黒馬でココを連れ出した隙に、手下を使ったんじゃないだろうな」


「失礼だな。僕らは西の海岸の様子を見に行っていただけだよ」

「西の海岸?」


 その時、黒馬から下りたココが、血相を変えて進み出てきた。


「伐折羅を疑うなんて、タルク、あんたって最低っ! ラピスの行方は知らないけど、サライ村の蓮池は、もともとはレインボーへブンにあったものなのっ! だ・か・ら、蘇ったレインボーへブンに同じ池があったって、ちっとも怪しくなんかないんだからっ」


 それは、ゴットフリーが初めて聞く事実だった。


「あの蓮池がレインボーヘブンと同じ? それはお前が村の誰かから拾ってきた噂話か?」

「ああっ、ゴットフリーまで疑ってる。これは私がジャンから直接に聞いたんだから、確かな話! 」

「ジャンからだって」

 

 ジャン・アスラン……レインボーヘブンの欠片”大地”

 今はもう人の姿を失い、元の姿に還った、この地のいしずえ


 その時だった。

「ああっ、ゴットフリー、あれを見ろ!」


 タルクが空を指さして声をあげた。夜空に輝くペルセウス座。その方向から矢のような光がこちらに向かってくる。


「みんな、伏せろ!!」


 その光を受けて、蓮池の中央にあった一輪の蓮が、見る見るうちに巨大に成長していった。

 それが、ゆっくりと薄桃色の蕾を開いてゆく。大きく息を吐くように淡い光が空に舞い上がる。そして、ぴりりと引き締まった清廉な香りが辺りに広がった。


「これは……」


 夢のような光景。この花は明らかにレインボーヘブンの欠片”樹林”の残した生命いのちの萌芽だ。


「ラピスっ、そこにいるのかっ!!」


 皆が止める前にゴットフリーはもう黄金きんの蓮池に向かって駆け出していた。水面を覆う星座の光は、彼が巨大な蓮の花の下へたどり着くのを拒みはしない。水の上にできた光の道を一心不乱に駆ける黒衣の男。


「あいつ……水の上を駆けて行っちまいやがった……」


 あの男には、いまだにレインボーヘブンの女神の加護がある。


「俺らが行っても、池の中に沈むだけだな」


 タルク、ココ、伐折羅は祈るような気持ちでゴットフリーの後ろ姿を見送るしかなかった。

 


*  *


 巨大な蓮の花の中は、淡い桃色の光で満ち溢れていた。足をかけただけで、花びらの上の光が下に零れ落ちてしまいそうだ。ゴットフリーはゆっくりと四つんばいになり、花の中央へ入っていった。


 瑞々しい香りが流れてくる。そして、中央の黄金色に輝く花托かたくの上に横たわっている青年。


「ラピス!」

  

 青白い顔。かたく閉じた瞳。……冷たい体。


 ゴットフリーは深いため息を吐いた。息をしていない遺体ラピス。わずかな希望がすべて消えていった。


「ここをラピスの墓所にしろということか」

 

 あの星座の一閃の光は、それだけのことだった……のか。

 悔恨の想いが胸に広がってゆく。


 レインボーへブンと引き換えに俺は失ってしまった。この命を。助けると口にしたというのに。


「ラピス、赦してくれ。俺は……」


 巨大な蓮の花は徐々に閉じようとしていた。半透明な花びらが天井のように覆いかぶさってくる。外に出なければ、ゴットフリーまで中に取り込まれてしまう。……がその時、


「させるか! こんな夢まがいの入れ物に、ラピスを取られてたまるものか」


 ラピスが生きた証を残すのは現実の世界。こいつの亡骸は、俺たちが取り戻したレインボーヘブンの土に埋める。


「消えろ! こんな墓場は目障りだ!」


 ゴットフリーが叫んだ瞬間、蓮の花々は呼吸を止め、ぴたりと黄金きんの光を舞い上げるのを止めた。窒息したように茎を萎えさせ、それと同時に蓮池全体も姿を失いだした。


 消えた蓮池の跡に残されたのは麦色の大地。

 

「ゴットフリー! ラピスは?」


 真っ先に彼らへ走り寄って行ったのはタルクだった。その後に伐折羅が続く。

 ……が、ラピスの横に跪いたまま、こちらに視線を向けたゴットフリーの様子がおかしい。彼の灰色の瞳が鋭く彼らの後ろを見据えていたからだ。


「ゴットフリー、どうかしたのか?」


 振り返ったタルクは、そこに立つ少女ココの姿に眉をひそめた。

 輝いていたのだ。その体が……水晶のごとく。

 驚いて声が出せない。だが、頭の中では理解ができていた。優美に微笑む少女が醸し出すオーラは、ココのモノではなく、生粋の王族。それが、古より受け継がれた高貴の血の証であることを。


「これが水晶の女神としての最後の顕現けんげん。私は人に戻り、あなたの元へいずれは馳せ参じる」


 きりりとよく通るその声は、喜びと感謝の想いに満ち溢れていた。

 背筋を伸ばし、タルクと伐折羅の横を過ぎて、颯爽とゴットフリーに歩み寄ってゆく少女。

 黒衣の男は食いしばっていた口元をようやく緩めた。


「ソード・リリー、戻ってきたか……こちらの世界に」


 彼女は満面の笑みを浮かべて答えを返した。


「感謝します、ゴットフリー・フェルト。あなたは約束通り、レインボーヘブンの復活させて、私を水晶の棺から解放してくれた。私の本体は今、侍女たちと一緒にグランパス王国の仮の王宮にいます。けれども、レインボーヘブンが、グランパス王国からどんなに遠く離れていても、虹の道標が私を導いてくれる。いつか、私は必ずあなたに会いに行く」


 その言葉がゴットフリーの心に一筋の光を灯した。すべてが無駄ではなかったのだ。王女の生還によって、グランパス王国は活気づき、その国に生きる者たちの希望は大きく膨らみ、未来へと引き継がれてゆくだろう。


 ゴットフリーの肩を軽くたたいて、タルクが言った。


「お前も元気出せよ。悲しいことばかりじゃなくて、報われることもあるってことだ。良かった、本当に良かったなぁ! 邪神に成り下がったアイアリスに水晶の棺に閉じ込められたお姫さんが、王宮に戻れたなんて、俺も心底嬉しいよ」


「王宮といっても、たいした建物ではないの。でもね、国民たちは、元の豊かな国を取り戻すために頑張るって言ってくれてる」


 その時、


「……?!」


 ゴットフリーは自分の膝元に目を向けた。上着の裾を掴まれたことに気づいたのだ。そこに横たえていた青年から。


「……あ……れ?」


 当惑した灰色の瞳と、緑青色の瞳が見つめあう。人は、こんな瞬間はかえって無感情になるものなのだろうか。純白の心……何も考えられなかった。黒衣のゴットフリーは放心したまま、その名を呼んだ。


「ラピス」


 二度と生きては戻らないと覚悟を決めていた青年の名を。


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