第80話 夢が叶う夢を見た

 ― 闇の王”が”妻”にと望むなら、その黒馬を先導して、私がアイアリスをお連れします。”闇の女神”の後ならば、うみ鬼灯ほおずきたちも後を着いてくることでしょう ―


 黒馬島の空から響いてきた凜とした声。姿は見えない。けれども、人の心を落ち着かせる美しく低い声だった。ジャンは、タルクとラピスに言う。


「そうか。アイアリスが闇の中の唯一の光になるならば、それに海の鬼灯が魅せられないわけがない。闇の癒しを一番求めているのは、間違いなく彼らなのだから」


 無言でうなづくと、リュカの姿のアイアリスを抱き上げて黒馬の背に乗せるゴッドフリー。

 ……がその時、自分の服の裾を強くつかむ者がいることに気づき、苦い笑いを浮かべた。


「おい、何の真似だ」


「何の真似かって? ゴットフリーがそれ以上、その黒馬に近づくのはダメって……私が許さないって態度で示してんの!」


 それは妹のココだった。 


 黒馬は闇の道をこの世に向かって駆けてくる馬だ。その逆もしかり、油断していると、また、ゴットフリーを闇の国に連れてゆきかねない。


「ふん、それは、レインボーヘブンの”統治者”としての命令か? ならば、聞いてやらないでもないが」

「あっ、まだ、そんなバカげたこと、言ってるし!」

「俺はいたって正気だが」


 そんな兄妹のやり取りを、黒馬の馬上からアイアリスが空しい目をして眺めていた。


「行きましょう。ここは私の世界ではない……私のできることは何もない」


 口元を歪め、空にいる”夜風”に向かって言う。けれども、傍に風を感じた時、


「別れの挨拶くらいは、顔を合わせてお言いなさい」


 アイアリスはそう言ったかと思うと、くるりとゴットフリーたちに背を向け、黒馬のたずなを海の方向へ向けた。

 すると、黒馬島に差していた陽光が一斉に暗く翳ったではないか。間をおかず、空に現れる幻のような影。影は見る見るうちに静謐なオーラを放つ美しい乙女の姿に変化してゆく。


 そのたおやかな姿態の足元で漆黒のドレスの裾が風に揺れていた。


 霧花きりか……レインボーヘブンの欠片”夜風”


「ああ……ああ……これは、闇の女神アイアリスの御力。私に人としての姿をもう一度、与えてくれた。」


 風の乙女の漆黒の瞳から溢れる涙は月の雫のよう。その美しさに息を飲む人々とゴットフリーを空から見下ろし、霧花は言った。


「皆に再び会えて良かった。サライ村のレストランで働いたことも、レインボーヘブンを取り戻すためにともに戦ったことも、今となっては、私にとっては忘れがたい思い出です。人としてあなたたちと過ごした日々はまるで宝石のよう。今日を最後に人の姿で会うことはもうないけれど、静かな夜に風が吹いた時は、空を眺めてみて。私のいつもそこにあるのですから」


 空を見上げる人々。その中に、かつて夜叉王と呼ばれた少年を見つけて霧花は優しく微笑んだ。


伐折羅ばさら天喜あまきと仲良くね。お母さんのことは安心して。私たちレインボーへブンの欠片の仲間として、共に幸せの島を支えてゆくから」


 その瞬間だった。海岸の上空に控えていた伐折羅と天喜の母が天使の羽を広げたのは。


 ― 天喜、伐折羅、幸せに ―


「いや、お母さん、行かないで!! もう少しだけ、一緒にいさせて!」


 追いすがろうとする天喜を太い腕で制したのはタルクだった。その後ろで伐折羅は、自分たちの運命を引き受けてくれた母に心の中で礼を言い、薄れてゆく霧花の姿に見入っていた。かつて、共に闇の住民であることを嘆きあった美しく優しい夜の乙女の姿に。


 完全に姿が消える前に霧花は、ゴットフリーに向かって言った。


「最後に告白させて下さい。私は”霧花”夜の住民。それなのに、光の側のあなたに恋をした。”水蓮”という嘘の乙女になれるかと叶わぬ夢をずっと見ていた。それでも、あなたと一緒に過ごせた日々があったことに感謝します。私は幸せでした。そして、あなたの幸せを永遠に祈り続けます。これから何があろうとしても」


 霧花の想いにゴットフリーは胸の奥が熱くなった。霧花が風となり海の中へ歩を進める黒馬の後を追っていった時、彼はその後ろ姿に向けて言った。


「俺も夢を見ていた。俺の夢が叶う夢を」



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