第79話 闇の王の妻


「ゴットフリー……」


 刺すような灰色の瞳を向けられた時、アイアリスはびくりと身をこわばらせた。


 女神である私がなぜ、下僕であるはずの男を恐れる?


 一瞬、高慢な想いが脳裏をよぎった。けれども、アイアリスは光の中では力を失ってしまっていた。ゴットフリーの心一つで七色の剣は空から現れる。その気になれば光の刃で彼女を串刺しにすることもできるのだ。

 それにも増して彼女アイアリスは恐れていた。ゴットフリーとの絆を断ち切ることがこの世の終末に繋がるようで。


「愛しい人……助けて……私を」


 ― この恨みと後悔の地獄から ―


 アイアリスは、闇に堕ち、光の中では力を失い、乙女の姿に身を隠して、救いを求めている自分を恥じた。それでも、ゴットフリーに手を伸ばさずにはいられない。


「ゴットフリー、おかしな誘惑に乗るんじゃないぞ! レインボーへブンは、光の中に蘇るんだろ? そうなりゃ、そいつは女神どころか”疫病神”だ。いくら別嬪だってだまされるんじゃない」


「そうよ、リュカの姿になってるのが余計にムカつくし。油断してたら、また、あのおかしな場所いくうかん連れてゆかれて、ハチャメチャにされちゃうんだから!」


 遠巻きに見ていたスカーとココが声をあげた。ラピスは事の成り行きを見守っていたが、弓に番えた矢先はアイアリスの心臓に向けて照準をぴったりと合わせていた。


 海岸にいた他の者たちも次々に怒りの声をあげだした。


「レインボーへブンは光の側に蘇るんだろ。似非えせ女神は、もういらない! そいつがいると、また、うみ鬼灯ほおずきが力を蓄えてしまうぞ」


「そんな女は殺してしまえっ!」


「そうだっ、殺せっ、ゴットフリー、今のあんたなら出来るだろ!」


 ジャンはどうしていいかが分からず、不安げにゴットフリーを見つめていた。


 無表情なまま、彼は海岸の砂浜に座り込む少女の横まで歩み寄っていった。すると彼は、


「顔をあげろ。女神に、そんな暗い顔は似合わない」


 あろうことか、差し出された少女の手を取って自分の方へ引き寄せたのだ。


「ゴットフリー! 何で!?」


 海岸にいた人々から悲鳴に近い落胆の声があがる。誰が闇に堕ちた女神の粛清を切望していたからだ。そんな彼らをぐるりと見渡し、黒衣の男は言った。


「お前たちには、未だに海に浮かんでいるあの紅の灯が見えないのか。ここでアイアリスを滅ぼして最も喜ぶのは誰だ? 女神の悔恨の念は永遠この地に残る。それは、”海の鬼灯”という怪物の一番の好物だ」


「あ……、けどっ、それなら、俺たちに一体、どうしろっていうんだよっ。レインボーヘブンは至福の島じゃなかったのか。 似非女神と海の鬼灯のご機嫌をとりながら、生きてゆくのが俺たちの幸せか!」


「ふざけるな。誰がそんな島の復活を望むものか」


 言いながら、ゴットフリーはリュカの姿をした女神を抱え起こした。この世のものとは思えない澄んだ青の瞳。ただ、その瞳の底にあるのは深淵の闇。黒衣の男は薄く笑みを浮かべた。


「愛しているわ……信じて、ゴットフリー、これだけは嘘ではないの」


 潤んだ唇から漏れる哀愁を帯びた声音。


「分かっている」


 アイアリスの求めをゴットフリーは拒むどころか、臆することもなく白い体を抱きよせる。その様子を見ていたスカーがたまらず声をあげた。


「おいっ、コラァ!! お前ら、ふざけるのも大概にしやがれっ!! ゴットフリーだって、いちゃつくんなら、闇の世界でやれよ」


 言ってしまった後に、スカーは、ジャンやタルクからの痛い視線を受けて、しまったと口をつぐんだ。やっと光の側に戻ってきたゴットフリーだったのに……。


「す、すまん。口が滑った」


 だが、ゴットフリーは小気味よさげな顔で抱き寄せた女神に言った。


「そう。だからお前は闇に行き、そこで”闇の王”の妻になれ」


「えっ」


「光の側の俺はお前を愛せない。けれども、闇の世界には俺の半身がいる。”闇の王”は女神アイアリスを強く求めている。お前は闇の中の光の女神、闇の中でのみ輝く。だから、お前は闇の世界で”闇の王の妻”となれ。闇に堕ちた者たちをその光で癒し続けるために」


 真摯な灰色の瞳が、戸惑う青の瞳から迷いを取り除いてゆく。


「ゴットフリー、私は……」


「お前は女神。たとえ、闇の中であっても未来永劫に」


 その場に居合わせた者たちのうちで、ゴットフリーの言葉を完全に理解できたのは、レインボーヘブンの欠片たちだけだったかもしれない。真っ先に口を開こうとしたジャンを手で制して、ラピスが言った。


「けど、ゴットフリー、あの海岸線に浮かんだ海の鬼灯はどうするんだ。至福の島が復活したとしても、人の負の感情はなくなるものではない。だって、恨んだり悔んだり怒ったりするのも人である証拠だろ。けど、あのまま放っておいたら、あいつらはその負の感情を餌にしてまたこの世を滅ぼそうとするぞ」


 その時だった。空が突然暗く翳り、冷たい風が吹き付けてきたのは。


 ”私が女神アイアリスを闇の世界 ― ”闇の王” ― の元へお連れします。あの海の鬼灯も”闇の王”からの誘いがあれば、私たちの後を着いてくるでしょう”


 ゴットフリーは、頬に受ける風の感触に目を細め、空に向かって声をあげた。


霧花 きりか― レインボーヘブンの欠片”夜風” ― 。礼を言う。お前には最後まで世話になるが」


 ”礼にはおよびません。そして、最後という言葉は使わないで。私はあなたの忠実なしもべ。過去も現在いまもこの未来さきも”


 レインボーヘブンの復活が近づき、霧花は、人としての姿を保っていられなくなっていた。霧花はそれが悲しかった。最後という言葉は相応しくない。けれども、もう一度、人の姿でゴットフリーと言葉を交わしたかったと。けれども、彼女はその気持ちを胸の奥へしまい込んで言った。


 ”女神アイアリス、参りましょう。”闇の世界”へ。”闇の王”が遣わした黒馬がこの一時ひとときだけ、光を蹴破ってやってきます”


 スカーとタルクはぎょっと顔と顔を見交わした。

「また、あいつがやって来るのか!」


 どこかから聞こえてくる鈍い蹄の音と、暗い嘶き。

 それが大きくなった時、


「うわぁぁあ!! 」


 空間の壁を蹴破って、漆黒の巨大な影が光の世界に飛び出してきた。黒馬島の主であり、かつてのゴットフリーを”不吉の王”に変えた黒馬が、


「シャドゥ」


 それは乗馬。”闇の王”の


 久々にその名を呼び、相変わらずの威圧感のある姿を眺めて、ゴットフリーは鮮やかに笑った。

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