第68話 水蓮と霧花


 目を見張るほどの青と紺碧が広がっていた。


 レインボーヘブンの欠片、”空”と”紺碧の海”が、異空間に描き出したこの世で一番美しい”空と海”


 重なった青と紺碧は境目が分からぬほどに溶け合っている。

 足元に寄せる水の感触で、どうにか自分の居る場所が海だと知ることができるほどだ。

 現実と非現実……、ここが現実の世界だと錯覚しそうになり、ゴットフリーは、首を横に強く振った。吸い込んだ息を意識的にゆっくりと吐き出す。


 混乱するな! これは、アイアリスがレインボーヘブンの欠片たちから漏れ出した力を使って、異空間に作り出した幻想にすぎない。


 ……が、差し込んできた陽光が、目前に立った乙女を照らし出した時、ゴットフリーは、言葉を失った。

 その姿は、彼が生涯をかけて想い続け、そして、永遠に失ってしまったはずの人だったのだから。


 水蓮すいれん


 なぜ、心が折れかけた時に限って、お前は俺の前に現れる?

 

 銀色の波飛沫が、乙女が手に持つ黄金きんの天秤を眩しく照らし出している。かつては、彼の心を癒してくれた柔らかな微笑みとともに。

 だが、今は……


「お前が黒白こくびゃくの天使の代わりに、俺の魂の審判をしようというのか」


 波間の乙女は微笑みながらこくりと頷いた。


「この天秤の秤は、9歳のゴットフリーの魂の重みで、すでに右 ― 闇側 ― に傾いています。でも、今、あなたは青年になり、その魂を秤にかけなければ、最後の審判は結審したとはいえない。ゴットフリー、至福の島、レインボーヘブンを探す旅の中で、あなたが抱えてきた苦悩、哀しみ、憤り、全世界への絶望……その心のすべてが私は愛しい。私には分かる。あなたの心は、光の世界など求めてはいない! その暗い想いで、黄金の天秤を闇側に傾けて! あなたはそこで王になるの。私という最高の伴侶を得、すべての哀しみを暗黒で消し去った場所、”至福の島、レインボーヘブン”の ― 闇の王― に」


 水蓮……


 これが、幼く未熟だった俺を制し、正しい道へと導びこうとした同じ乙女の言葉なのだろうか。


”もともと、この世界を善にするか悪にするかは人の心次第。その心を正しい方向へ導くことこそが、上に立つ者……ゴットフリー、あなたの役目。それなのに、なぜ、運命を自分に託した人々を捨てて、あなたは闇に心を向ける?”


 その言葉とは裏腹に、闇側へ秤を向けろと誘ってくる乙女。

 憤りを覚えながらも、ゴットフリーは、その手に手を重ねたい衝動を抑えられなかった。

 狂おしいほどの矛盾に満ちた想いが、胸に込み上げてくる。だが、黄金の秤に手を伸ばそうとした時、


― 駄目よ! ゴットフリー、騙されないで! その水蓮は、邪神になり果てた女神アイアリスの代弁者。そんな者をあなたが愛するはずがない。あなたの意思は暗い場所など求めてはいない! ―


 凛とした声の主の姿は見えない。だが、伸ばした手元に絡みついてきた風の感触で、ゴットフリーにはその正体がすぐに分かった。


霧花きりか! レインボーヘブンの欠片”夜風”!」


 すでに、人型をとることができなくなってしまっているのか、月影のように美しい風の乙女は、姿を現すことはなかった。

 自らをゴットフリーのしもべと称し、全身全霊をかけて彼を守り抜く覚悟の夜風は、波間に立つ水蓮に向けて疾風を巻き起こした。


― させない! そんな汚れた天秤の上にゴットフリーの魂を乗せることなど! ―


 だが、波間の乙女はそれを軽くかわすと、


「霧花、私が植えつけた偽の記憶に騙されて、自分のことを水蓮だと、ずっと思いこんでいた間抜けな女。何度、教えてやったら理解するの? ゴットフリーが生涯のうちでたった一人だけ愛した”水蓮”は、あなたではなく、この”わ・た・し”、レインボーヘブンの豊穣の女神アイアリスなのだと! 私はゴットフリーの母であり、愛人であり、守護神でもある。その縁は未来永劫、誰にも切ることはできない固い絆で結ばれている。だから、もう、彼に纏わりつくのはお止めなさい。どんなに媚を売っても、ゴットフリーにとっては、お前は、足元にかしづくだけのただの影。だから、さっさと闇の中に消えておしまい」


 その言葉に霧花は、夜嵐のようなうねりをあげながら、どこかへ飛び去ってしまった。


霧花きりか!! 行くな、戻ってこい!」


 女神の冷笑が異空間の空に響き渡る。


「おほほ……馬鹿な女、あんな女は闇の中に消えてしまうのが身分相応!」


「言うな! たとえ、霧花が”水蓮”でなくても、志は”水蓮”そのものだった。闇の住民でありながら、身を呈して俺を光の中に留めようとしてくれたのは、偽りのない”風の乙女の意思”だった!」


「あら、ならば、問う。ゴットフリー・フェルト! レインボーヘブンの王であると同時に、闇の王として女神に認められたあなたが、”水蓮”として”霧花”を愛することができるの?」


 ゴットフリーは沈黙した。口に出すべき言葉が見つからない。


 

 霧花の志は”水蓮そのもの”

 その言葉に偽りはなかった。……が、

 

 ”霧花”の本質は夜。湖面に揺れる美しい月影。

 ”水蓮”は、早朝に窓辺に差す柔らかな光。


 アイアリスの言うように、ゴットフリーの心の中で、”霧花”と”水蓮”が一つになることは、決してなかったのだ。彼が、姉のように、母のように、恋人のように慕った面影は、いつも光の中から微笑みかけてくる人だったのだから。


 それが、邪神アイアリスの化身だったと知った今でも。


その憂いが辺りを暗く翳らせた。

 光を浴びて紅に色を変えていたゴットフリーの髪が再び漆黒に戻る。すると、これまで青に輝いていた海の色までが藍色に色を変え出した。


 まだ、辺りに微かに残る黄昏のような弱い光の中に、寂寥たる一筋の風が吹いていた。

 沈黙したまま、きつい眼差しを自分の方へ向けた黒衣の男。その前に立った邪心の女神は勝ち誇った笑みを浮かべ、― 水蓮 ― の姿のまま、手にした黄金の天秤を前に差し出した。


「さあ、ゴットフリー、その手でこの天秤を右に傾けて。私と共に闇の世界に行きましょう」


 その時、ゴットフリーの靴底で蒼の光が鈍く瞬いた。


 くそっ、……せっかく、光が差しこんできたと思ったのに。


 それは、蒼の光に戻って様子を覗っていたジャンだった。


 これはまずいぞ……ゴットフリーの心の一番繊細な部分を|あの女《アイアリス)は、よく知ってやがる。


だが、 徐々に空間が歪み、黒光りした粒がゴットフリーのの手の中に溢れだした時、ジャンは驚き、


 ”ゴットフリー、止めろ!”闇馬刀”で、” 水蓮”を斬るんじゃない! そんなことをしてしまったら、お前の心が砕けてしまうぞ!”


 ……がその時、異空間の空から凛と響く声が聞こえてきたのだ。


― いいえ、その姿は幻にすぎない! 光の意志は、人々を正しい方向に導く道標と共にある!―


  そう、私の意思は”水蓮”そのもの。


 あなたは私に、どう人を愛するかを教えてくれた。私は、どう生きるかを伝えた。


  私の願いはただ一つ。

  この世界が闇であっても、光であっても、

 

  ゴットフリー

  あなたの幸せを願っています ー



  その声が耳元に届いた瞬間だった。


 「消えろ!! 幻では俺の心は動かせない!!」


 ゴットフリーが漆黒の刃を振り上げ、”光の乙女”を一刀両断に切り裂いたのは。

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