第41話 邪神の誘惑

 タルクの体を乗り越えた瞬間に、天喜あまきは見た。

 黄泉ハデスの持つ盾の中央から飛び出した邪心の女神のおぞましい顔面を。


 盾の縁には、白蛇と同化した銀の髪がうねっていた。

 青の瞳には、無数の紅の血管が浮き出ていた。

 玉のように白い肌は醜い殺意の思いで歪み、かつて豊穣の微笑みをたたえた口元は、毒色の吐息を漏らしながら死に至る呟きを囁いている。


 耳の奥で、体の末端がびしりと軋む音を天喜は聞いた。これがみんなを石に変えてしまった光?! 唇が震え、手が……足が硬くこわばってゆく。


「いいえ! 私は石になどにはならないわ! 私の中の……内なる鼓動が邪を弾く!」


 その直後に天喜の体が、ぱちりと音をたててはじけ飛んだ。とたんに迸った稲妻のような閃光。それが黄泉の黒の甲冑を砕き、アイアリスが宿った盾を激しい勢いで地面にたたきつけた。


 空に一直線に昇っていった発光体。それに引き上げられるように、ふわりと白い羽が浮き上がった。

 

「天喜っ、ココっ、タルクっ!!」


 突然、軽くなった祠の扉を押し開け、外に飛び出したラピスは、

「ココっ、大丈夫かっ」


 きょろきょろと辺りの様子を覗い、祠の入口に倒れている少女の存在に気付いた。目には見えなくても、その位置は分かる。ラピスは慌ててその体を抱き起こす。


 気を失っているが心臓は動いている。だが、ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、祠の外に意識を向けて、ぞっと全身から血の気が引いてしまった。


 空から響てくる大きすぎる鳥の羽音に加え、足元からは仲間たちが残した恐怖の戦慄わななきが頭の中に伝わってくる。


「天喜……どこへ行った?」


 気を集中して探してみても、彼女の気配は全く感じられない。それどころか、祠の外には生きている人間の息遣いさえも聞こえない。ところが、戸惑う盲目の弓使いのはるか上では、天喜の中から溢れだした新たな命が、除々に形を整えだしていたのだ。


 天使のごとくに輝く純白の体。

 だが、その背には悪魔のような漆黒の翼。


 光とも闇とも区別のつかぬ命の鼓動。その生物が醸し出す音が、黒馬島の空に脈々と鳴り響いている。そして、小さな白い鳥が空高く飛び去っていった。


*  *


 畜生っ、いったい、何なんだよ。このおぞましいオーラは。


 ラピスは、ココを祠の中へ運んで床に寝かせると、愛用の弓を握り締め、最大級の警戒をはらいながら梯子を降りて行った。


 妖光を漏らしながら地面に伏せた盾が、そんな彼を待ち構えていた。だが、見えぬことが、この弓使いを石化から免れさせていた。タルクをはじめ海岸に転がる仲間たちは、盾の中身を見た瞬間に汚濁の光に体温を奪われ、死の淵へ招かれてしまったのだから。

 ……が、


「……!」


 ぬらぬらと盾から這いだしてきた白蛇が、突然、腕に絡みつき、ラピスの体を盾の方向に引きずったのだ。

 懸命に足をつっぱって抵抗する彼の耳に、女の声が響く。


 ― ねぇ、あなた、なぜ、目を閉じているの。それじゃあ見えないじゃないの、私の美しい顔が ―


 聞き覚えのある声に、ラピスはぎょっと表情を変えた。

「お前っ、アイアリスかっ、邪心の女神! タルクや仲間たちに何をした!」


 うねる白蛇に縁どられた盾の中から、青の瞳がわらう。


― 彼らの血と肉の温かみは、すべて私が吸い取った。そこにあるのは石と化した残骸。黄泉ハデスが消されてしまったので、魂はまだ死の国へたどり着いてはいないけれど、墓堀りの手間が省けたとは思わない? 己が体が自身の墓石になったのだから ―


「な、何だって?!」


 ラピスは傍にある石像に恐る恐る手を触れてみた。そして、手元に伝わってきた巨漢タルクの残滓に唇を震わせた。


「……くそっ! くそっ、とんでもない奴っ! アイアリスっ、お前がタルクや仲間たちを石に変えやがったのかっ!!」


 邪心の女神は甘酸っぱい囁きで、ラピスを罠に誘う。



― だから、あなたも目を開いて、私を見て。見るのよ。美しい私の顔を ―



「冗談じゃない! 気色の悪い妖力で化粧したお前が美しいはずないだろ!」



 ― ほほほほ、見てもいないくせに。私は類まれもなく美しい……ゴットフリーもそう言ったもの。だから…… ―



  目を開け、開け、開け、開け……

  そして、見て……見て、見て、見て……見て、見て、見て……


 ラピスを誘い続ける呪われた力。その壊れた声の繰り返しが、頭の奥を痺れさせる。じくじくと肌を刺してくる妖光でさえも心地よいと錯覚してしまうほどに。


「騙すのは止めろ! 生憎だが、俺の目は生まれつき閉じて開かないんだよっ!」


 弓に矢を番え、照準を盾の中に定めた弓使い。だが、邪心の女神の負の力の凄まじさに、さすがに、それを射抜く自信が萎えてしまった。


 お願いだ。助けてくれ。俺の弓じゃ、この怪物アイアリスは倒せない。


 自分の内に、レインボーヘブンの欠片”樹林”がいることをラピスは知らない。それでも、無意識のうちに、その存在に懇願し閉じた瞼を開こうとした。


 『駄目だ、ラピス! 目を開いた瞬間に、石に変えられてしまうぞ。もう少し我慢して! そして、怖がらずにその矢を射るんだ!』


 だが、内なる声がラピスの表面に漏れ出した時、盾の中のアイアリスの裂けた唇がにやりと上にめくれあがった。



 ― 見・つ・け・た・わ。私が七つに分けて飛び散らせたレインボーヘブンの欠片。その中でどうしても探せなかった欠片を ―



 レインボーヘブンの欠片”樹林”



 邪神となったアイアリスに、ラピスの中にいることをひた隠しにしていた”樹林”は、しまったと眉をひそめた。

 ラピスは元々は死んで生まれた子供だ。その命は”樹林”が彼の中にいることで支えられている。だが、自分の存在を知られてしまったら、アイアリスは迷いなく、彼をラピスの中から引きずり出してしまうだろう。


― ”レインボーヘブンの欠片”樹林”。

 いくら探しても、見つからない筈ね。その弓使いの閉じられた瞼でお前は自分を封印していたのか。だが、もう目を開きなさい。私はレインボーヘブンの豊穣の女神。あなたの守護神であり、崇拝する創造主の。お前は、私を敬い、私に従い、私を追随し、私の僕となり、私を未来永劫、神として崇め…… ―


 女神と呼ぶには余りにもおぞましく、邪心の紅に汚濁された精神こころ

 彼女は彼女のしもべに冷酷に命を下した。



 ― そして、私のためにのみ存在しろ…… ―


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