第33話 異空間

 異空間の扉を開いたゴットフリーが、闇の城へ続く長い階段に足を踏み入れた時、突然、目前に白い光が浮かび上がった。


「おかえりなさい。ゴットフリー」


 真正面に現れた百合の花のような乙女の静謐さに目を細め、差し出された白い腕に思わず心魅かれる。


 吸い込まれそうな青の瞳。


 柔らかに微笑む姿は、彼へ近づくにつれ神々しい女神の姿に様を変えた。闇の中に浮かび上がるオーロラを思わせる高貴な姿に、ゴットフリーはしばし見入ってしまう。


「アイアリス……」


 毒毒しい紅の花が醸し出す空気を一掃するかのような清涼感が胸に広がった。さらに居城の奥に広がる深い闇が焦燥する心を落ち着かせた。だが、白い腕が彼の腕に伸びてきた時、彼はそれを拒絶するように身を翻した。


「ゴットフリー!」


 アイアリスが声を荒らげ、きつい視線を彼に向ける。闇の向こうに消えた星々を吸い寄せてしまいそうな蠱惑的な青。けれども、見返すゴットフリーの灰色の瞳は冷え切っていた。


「女神アイアリス、もう茶番は終わったんだ。この異世界から現世に出て来い。そこで、俺はこの理不尽な戦いに決着をつけてやる」


 いとも簡単に破られた異世界の幻惑に白の女神は唇をかみしめる。すると、闇の城が城門を開き、己の主 ― 闇の王 ― を玉座に呼び込もうと、巻き付くような強い風を仕向けてきたのだ。

 その風に巻き込まれてはならない。

 ゴットフリーは城門の階段に身を伏せて抵抗した。


「逆らっても無駄よ。城の中に入ってしまえば、心はまた闇側へ戻ってる。”闇”は、あなたにとっては”癒し”と同義。”闇の王”は決して、私を拒んだりしないわ。闇の中の光は私だけで十分なのよ。どう足掻いても、あなたの本質は”悪”。ガルフ島で初めて私があなたの前に姿を現した時、そう言ったことを忘れたわけではないのでしょう」


「俺は今、その城には入るわけにはゆかない! たとえ、堕ちてゆく先が”闇”と運命づけられていたとしても」


 目を眩ますような蒼の光が、闇の居城の陰影をかき消したのはその瞬間だった。


 眩い蒼の光は、アイアリスが纏った白の光をも粉々に吹き飛ばした。

 憤った女神が振り返ると、闇とはまるで相容れない少年がそこに立っていた。


「ジャン! レインボーヘブンの欠片”大地”! お前は、欠片の分際でなぜ、守護神の私を侮るような真似をする!」


「そんな言葉に聞く耳など持つものか! 邪心に染まったお前をもう僕たちは女神とは認めない。これ以上はゴットフリーに手をだすな! ガルフ島で闇に引き込まれてゆくゴットフリーの心を、大地の力で光の側に繋ぎとめておけと僕に命じたのは、お前。その啓示を僕は決して忘れないぞ!」


「何を今更、小賢しい!」


 差し出された白い腕から迸った白銀の光と、日に焼けた手から放たれた蒼の光が、闇の中でぶつかり合う。

 頭上で炸裂した光と光が作り出した旋風を手で遮りながら、ゴットフリーは、射抜くような眼差しを白い女神に向けた。だが、


 アイアリスの光輝がジャンの光に押されて、消えてゆく?

 どんなに堕ちたとはいえ、レインボーヘブンの女神がそんなにたやすく、力を失うとは思えない。とすれば……

 

「ジャン、本気を出すな! この女神は実体じゃない!」


 暗い笑みをアイアリスが浮かべた瞬間、紅の花園がどくりと鈍い音をたてだした。まるで病んだ心臓から流れ出たどろどろの静脈血。その澱んだ色と同色の紅の花びらが、次々と吹きあがってくる。

 紅の花がジャンに襲いかかる。うみ鬼灯ほおずきの化身であるその花にジャンは反撃ができなかった。


 白の女神がせせら笑う。

「皮肉なものね。レインボーヘブンの大地としての慈しみの心は、決して海の鬼灯を攻撃することはできない。ならば、もっと思いだすがいいわ。断末魔の声をあげながら海に沈んでいった彼らの悲哀を、恨みを、焦躁を!」

 しかし、


「笑わせてくれる。その断末魔の声に心を弄ばれているのは、ジャンではなく、アイアリス、お前の方だろう」


 ゴットフリーが身を伏せていた階段からむくりと立ち上がり、女神の傍へ近づいていったのだ。


 白の女神の光輝は濁りながらも、闇の中ではまだ光を保っていた。黒衣の男は、長い五指を彼女の胸の上へさし伸ばした。困惑に揺れた青の瞳と、研ぎ澄まされた灰色の瞳が向かい合った時、彼は胸のすくような笑みを浮かべた。


「聞こえないか。闇の中を駆けてくる黒馬の蹄の音が。あの馬は俺の乗馬であると同時に闇馬刀の化身でもある。闇馬刀は闇の中から沸き上がってくる諸刃の剣、たとえ柔らかな女の中であったとしても、そこに闇があるならば……」


 その直後に、アイアリスは青の瞳を大きく見開き、白い手を自分の胸にあてがった。

 体の中を何かが駆けてくる……闇に染まった己の中に馬の蹄の音が響き渡る。黒馬は闇の道を駆ける馬、そして、闇馬刀の漆黒の刃は……。


 まさか、ありえない。これは、ゴットフリーの言霊の暗示よ。


 恐怖を含んだ焦躁感がアイアリスの脳裏を駆け抜けていった。黒衣の男は女神の怯えを感じ取ると、くすりと口元を綻ばし重低音な声で呟いた。


闇馬刀やみばとう


 その瞬間に、アイアリスの白い胸を斬り裂き、その体の中から漆黒の刃が飛び出してきた。


「ぐぁぁあああ!!!」


 女の絶叫が辺りに木霊した。

 紅の花はその声に呼応するように激しく空に乱舞した。


 ゴットフリーは残酷な笑みを浮かべると、アイアリスの背中を貫いた愛刀  ―  闇馬刀  ―  の柄に手をかけた。


「闇に堕ちろ」


 それを握りしめ、一気に下から上へアイアリスの体を引き裂く。とたんに白の光が炸裂した。

 二つに切り裂かれた顔面から、彼をねめつける瞳は青ではなく燃えるような邪心の紅。

 ゴットフリーは陶酔した笑いを浮かべて、それを見つめ返した。

 ……が、


「ゴットフリー、闇に心を向けるんじゃない!」


 彼の元へ駆けよってきた少年の声に、彼はっと表情を変えた。


「心配するな。そう度々、自分を見失ってたまるものか」

「良かった……僕はまたお前が闇の世界に行ってしまったのかと思った」


 ジャンはほっと息をつき、泣きだしそうな心の内を吐きだした。


 闇馬刀で引き裂かれたアイアリスが、闇と紅の空気の中に溶け込むように消えてゆく。それと同時に異空間が縮みだした。


「ジャン、この異空間を早く壊せ! そうしないと、俺たちまで空間の縮みに巻き込まれてしまうぞ」


 こくりと強く頷く。けれども、ジャンは、アイアリスが消えうせた後に、花園の上でさ迷う紅の灯の姿に心が痛くなってしまった。


「ごめん、ゴットフリー。でも、僕はやっぱり、あの海の鬼灯を見捨てることなんてできない」


 ジャンは掌の中に蒼の光を蓄え出した。徐々にそれに力を加えてゆく。


「ゴットフリー、目を閉じていて。そして、僕の後ろから決して離れないで!」

 そう言って、ジャンは、


「蒼の光よ! 光の巫女に守られし大地の力よ! この邪念の空間を浄化し、閉じられし扉を現世へ開け!」


 手の中の蒼の光をありったけの力を込めて、異空間の壁に投げつけたのだ。

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