第8話 異世界 ~紅の花園

 ココが引きずり込まれた場所の少し先で、黒衣の男がうつ伏せで倒れていた。薄く光る紅の花がその周りを取り囲んでいる。


「ゴットフリー! どうして、こんな所に!」


 伐折羅ばさらの黒い鳥の背から見たのと同じ血まみれの姿。胸元の血溜まりの中からも、紅の花が光を放っていた。


 ココは、ぴくりとも動かない男に怖々近づいてゆくと、膝をおって、顔を覗き込んでみた。


 もしかしたら、死んでたりして…… 


 不安な気持ちでそっと頬に触れてみた。肌はほのかに暖かく、額に流れる鮮やかな血の色がまだ息のあることを物語っている。ココはほっと安堵の息を吐いた。 


「ゴットフリー、起きて! こんな場所にいたら駄目。早く黒馬亭に戻って、その怪我をラピスに診てもらおうよ!」


 肩をつかみ、彼を揺り起こそうとした時


― ゴットフリーを起こさないで! ―


 吹きつけてきた風が、ゴットフリーの元からココを引き剥がした。風は、冷気を放ちながら人の姿を取り始める。


 腰まであるストレートの黒髪。夜色の瞳。同色の長いドレスは裾は翳ろい、その先は見えない。


 レインボーヘブンの欠片 “夜風”


 目の前に現れた月影のような乙女に、


霧花きりか!」


 ココは驚くと同時に、怒りを覚えてしまった。


「起すなって? 冗談じゃないわ! 霧花が一緒にいたんなら、なぜ、もっと早くゴットフリーを助けてあげなかったのよ」


 霧花は、沈痛な面持ちで紅の花の中に倒れている男に視線を向ける。


「まだ、彼を目覚めさせるわけには……ゆかない。それに、私の力ではこの場所から彼を出してやることもできない」


「なぜっ! このまま放っておいたら、ゴットフリーが死んじゃう」


「この空間は私やココの世界とは違うの。ここはゴットフリーが見ている夢の中。女神アイアリスは、その夢の中に彼を閉じ込めた。けれども、同時にゴットフリーは、自分の夢の中にアイアリスを縛り付けた。だから、まだ彼を起こしては駄目。彼が夢から目覚めれば、最後の戦いが幕を開けてしまうから」


 ココは、霧花の言葉の意味がさっぱり理解できず、強く顔をしかめた。


 ゴットフリーの夢の中? ここが……?


 空間の一角に新たな裂け目ができ、白い光が差し込んできたのは、その時だった。

 紅の花園が白銀に染まり、辺りは一瞬にして雪景色のように様を変えた。

 とたんに、霧花は身を翻し、溶けるように消えてしまった。


「ココっ、隠れて! 女神アイアリスが降臨してくる。見つかれば八つ裂きにされてしまうわ!」


「アイアリスが?」


 うろたえたココが視線を向けた先に浮かび上がった白い光。眩しさになれ、見つめ続けていると、それが徐々に人の形を成してゆく。


 白い百合が花開いたような純白の衣。

 そこから透けて見え隠れしている虹色の光。白銀の髪は自ら眩い光を放ち、玉のような白い肌の中で、青い瞳だけが唯一色をなしていた。


 人? ……ううん、あの神々しい姿がそうであるはずがない。


 ならば、白い女神? ……けれども、


 どうして、あの女神アイアリスは、あんなに冷たい目をしているの。


 ココは紅の花の中に身を伏せると息を止め、出来うる限りの努力で自分の気配を消そうとした。


 どうか、見つかりませんように。


 今にも泣きだしそうな顔で震えながら。



*  *


 ジャンは暗闇の下山道を全速力で駆け下りていた。そして、登山道の途中ではたと足を止めた。

 麓に見える紅の光と、そちらの方からジャンの耳に木霊のように響き続けるゴットフリーの声。


「やっぱり……あれは、ザールの屋敷のあった場所だ」


 ザールは、この黒馬島で古物商を営んでいた天喜あまき伐折羅ばさらの叔父だ。今でも、ジャンはその名を思い出すだけで、背筋に虫唾が走った。


「今はどこへ行ったかもわからなけれど……あいつ、ろくな奴じゃなかった」


 あの屋敷にあった紅の花園は、ゴットフリーにとっての鬼門の場所。くそっ、また何か悪いことが起きなきゃいいが。


 以前、ザールの屋敷にあった”紅の花園”の罠にかけられたことが引き金になって、ゴットフリーの闇の部分が覚醒してしまったのだ。

 あの時、もう少しで、あいつはタルクの首を手土産に、闇の世界に堕ちていってしまうところだった……。


 ― 闇の王として ―


「あんな身震いするようなゴットフリーには、僕は二度と会いたくないんだ。あの紅の花園は彼の負の部分を再び目覚めさせてしまう。それだけは、絶対に止めなければ」


 空の亀裂を広げて、漏れ出してくる白い光が、余計に不安をかきたてた。ジャンは、再び全速力で駆け出した。


*  *

 

 アイアリスがこっちに来る……。


 全身が凍りついてしまいそうな畏れに慄きながら、ココは紅の花の下に身を伏せていた。

 人の腰の高さほどの花々の下に身を隠し、じっと息をひそませる。

 女神が放つ眩い光で、自分の姿がさらけ出されてしまいそうで、心臓ははどきどきと音を高めていった。

 だが、白い光がココの頭の上をかすめた時、アイアリスは、そこでふと足を止めた。

 

 見つかる! どうしたらいいの。


 万事休すと、ぎゅっと目を閉じる。

 そして、ココは、自分で自分に言い聞かす。


“こんな時は、何も考えちゃ駄目! エターナル城で化物の王妃に勘づかれそうになった時にも、ラピスは言ってたじゃない。と!”


 すると、吹き下ろしてきた風が、むせかえる紅の花の香を、ココの鼻先から吹き飛ばしてくれた。一瞬に緊張感が溶け、ココはどうしようもなく眠くなる。

 風はそんな少女をくるりと漆黒のドレスの裾に包み込んだ。



 頬の横を冷たい風が飛び去っていった時、白い女神は形の良い眉をしかめた。何かがそこにいたような気がする。けれども、今は何の気配もない。

 辺りには自らが醸しだす白銀の光が広がるばかりで、迸る甘い香りだけが、この場に紅の花園があることを示していた。


 無表情な女神アイアリスの青の瞳。


 だが、目を向けた時、アイアリスの青の瞳に悲哀の影が浮かび上がった。

 目の前に倒れている黒装束の男。彼から流れ出る血の色だけが、鮮やかで痛々しい。


「馬鹿なゴットフリー」

 


 何故、光の中のお前は、そこまで女神の私を拒む……

 


 気が狂いそうな焦燥感に苛まれながら、くるりと身を翻すと、アイアリスは目の前の空間に手をかざした。

 すると、紅の花は舞い散り、空間が縦に大きく裂けた。アイアリスは白い光に包まれたまま、その中へ消えてゆくのだった。

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