第2話 ラピスの診療所

「じゃ、ラピス、また来るわねっ」

「また、来られてもなぁ。出した薬、飲んでれば直る風邪」

「なら、次は時間外にね♡」


 なるったけの愛想をふりながら島の娘が、診療所を出て行く。


 今風に立ち上げた銀の短髪に、袖まくりの白のシャツ、カーキ色のカーゴパンツ。だが、その瞼は固く閉じられている。

 二年前に突然、黒馬島に乗り込んできた、この青年が、黒馬亭の一階に診療所を開いた時、住民たちの誰もが眉をひそめた。


 目が見えないのに医者? いくらこの島に医者がいないっていったって、それはちょっと……。 

 けれども、それは杞憂に終わる。


 グラン・パープルという島から来たラピス・ラズリという名の青年は、盲目なのに人を診る。それもえらく腕がいい。

 おまけに、妙に女の子に人気があるそうだ。


 そんな噂が、島中にいつの間にか流れてしまっていた。


「あーあ、相変わらず、この診療所には女の子が、やれ擦りむいたとか、頭痛がするとか、たいした用もないのにやってくるのね」


 呆れた様子で、そう言ったのは彼の助手を務めている天喜あまきだった。


「大目に見てやれよ。あの娘たちだって、邪魔にならないように、暇そうな時を見計らってやって来るんだから」


「……暇な時とか、時間外に押しかけられてちゃ、あなたが休む時間がちっともないじゃない」


「う~ん、俺は天喜みたいな美人だったら、何人、押しかけてこられたって、大歓迎なんだけどな」


 そのかたく閉じられた瞼で、容姿の良し悪しが分かるはずがないのだ。それでも、悪い気はしない。甘い声で囁きかけてくる青年に、天喜はくすぐったそうな笑みを浮かべた。


「もうっ、ラピスは、誰にだってそう言うんだから」


 白桃の色合いをした頬。琥珀色の瞳。その薄い褐色の巻毛が背中で揺れる度、辺りの空気を華やかな香りに染めてゆく。


 ラピスは小さく頭を横に振った。見えなくたって心で感じる。天喜は他とは全く違う。


 レインボーヘブンの欠片“空”


 この娘からは、その血を二つに分けて受け継いだ夜明けの清廉な光が溢れてる。


 ……と、その時、診療所の扉が大きく開かれ、頬に傷のある男が入ってきた。彼は若い医者と、その助手をじろりと見すえると、


「おぃ、そこ! この忙しい時に二人でいい雰囲気になってるんじゃねぇ。それじゃなくても、ラピスには、新しく作った弓部隊の訓練に、つきあってもらわないといけないのに」


「弓部隊? ラピスってそんなことにも手を貸してるの?」


「当たり前じゃないか、こいつほどの弓の名手は、ちょっとやそっとじゃ見つかりやしないぜ」


 傷の男  ― スカー ― の言葉に盲目の青年はまんざらでもない顔をした。とは言っても、スカーだって、知能にかけては右にでる者がいないほどの切れ者なのだけれど。

 そんな彼がラピスの耳の傍でこそりと囁いてきた。


「お前な、あからさまに天喜といちゃつくのはやめろ。ちっとは、タルクに気を使えよ」

「いちゃつくって……俺が?」

「お前、女の子には不自由してないだろ。人の“想い人”まで取るな」

「馬っ鹿じゃねぇの。取られたくなかったら、もっと、しっかり掴まえておきゃいいんだ。それに、俺は天喜に手を出した覚えはない……」


 診療所の扉がぎぃと開かれたのは、その時だった。


 先ほど診療所を出て行ったばかりの娘が、扉の前に立っていた。けれども、口を噤んだままの彼女に、天喜が不審げに目を向ける。


「どうしたの。忘れ物? それとも、まだ、ラピスに用があるの」


 天喜が娘に歩み寄ってゆく。


「うふっ♡」

 その瞳が紅に輝いた瞬間、ラピスの全身に総毛立つような感覚が走った。


「天喜、退け!!」


 ラピスは、目にも止まらぬ速さで弓矢に手を伸ばす。次の瞬間、銀の糸を弾いたような矢が扉の方向へ飛んで行った。


 ギャアアアァッ!!

 

 軋んだ叫び声。敵を玉砕した弓矢が扉に深く突き刺さる。すると、娘の体が、突然、形を崩したのだ。濁った紅の光の束が天喜に襲いかかる。


「えっ!!」


 鋭い刃で切られたような痛みに顔をしかめたとたん、細い首筋から鮮血が飛び散った。


 首を切られた? あんな一瞬に?

 

 唖然と光の方向を見上げた天喜の真正面に、斬撃が振り下ろされたのは、その瞬間だった。

 一瞬にして飛散した紅の灯。それが紅の眼を持つ鼠に姿を変えて、床と壁の隙間に逃げ込んでゆく。



「おいっ、大丈夫か?!」


 天喜は、近づいてきた巨大な影に、びくりっと体を震わせ、前を見上げる。

 だが、


「タルク……あ、ジャンも」


 目の前に立った巨漢と、その後ろにいる、とび色の瞳の少年の姿を目にした時、天喜は安堵で涙ぐんでしまった。


「くそっ、うみ鬼灯ほおずきか、しかも、鼠の姿に変わったってことは、この黒馬島にも奴らが蔓延はびこってるってことなんだな。あいつら、まったく油断がならねぇ!」


 そう言ったタルクやゴットフリーの故郷 ― ガルフ島 ― が崩壊する前にも、海の鬼灯は鼠の姿で島の大部分を浸食していたのだ。


 おまけに、あの紅の灯は、鎌鼬かまいたちみたいに人を切り刻むんだ。


 タルクは、天喜の細い首筋から流れ落ちた鮮血を見て顔をしかめた。慌てて、駆け寄ってきたジャンが、そこに手をやってから、ほっと息をついた。


「良かった。傷はかすった程度で済んだみたいだ。ちょっと、じっとしてて」


 その手先から迸る蒼の光。一見、普通に見えるこの少年には大地の癒しの力が宿っている。みるみるうちに消えてゆく痛みと傷に、天喜はその力を知りながらも驚かずにいられない。


 だが、床に落ちた血の滴を見て、スカーは畜生と頬の傷を歪めた。


「寸でのところで、ラピスの矢とタルクの長剣に救われたが、これは、ついに敵が動き出したってことか……しっかし、に化けてを襲うなんて、どこまで根性が腐ってんだ。こんな風に住民が襲われたら診療所がいくつあっても足りやしねぇ。これからは、ここは天喜に任せて、ラピスには弓部隊の訓練に専念してもらおうとしていた矢先なのに」


 ぎろりと、やぶ睨みの目で見据えると、


「……どんなに”島の女の子”が文句を言ったとしてもな」


 皮肉っぽく言ったスカーに、ラピスは知らぬふりをきめこむ。


 その時、天喜が、はっと顔を上げ、

「ねぇ、タルク、ココはどこ!? あなたと一緒に海岸に行ってたはずじゃなかったの」


 巨漢の男は焦り、図体に似合わぬ態度で、もごもごと顎ひげを動かした。


「いや…あの娘は伐折羅ばさらの黒い鳥を追って行っちまった……」


 ……と、案の定、


「冗談じゃないわ! 海の鬼灯がどこから襲ってくるかも分からないし、何でタルクがついてて、こんな物騒な時に女の子を一人にするのよ! 一刻も早くあの娘を連れ戻して! 伐折羅の黒い鳥を追っていったなら、あの子の行った先は、西の山に決ってる」


 それはタルクも重々承知していたが、あんな風に言い出したココを止めることなど出来るはずがないのだ。とはいえ、天喜の言うことは的を射ていた。

 

「西の山へ行って……」

 だが、タルクが、その言葉を言い終わらぬうちに、ジャンが彼を手で制した。


「駄目だ、僕が行く! タルクは夜目だってきかないし、あの娘ココは、ゴットフリー以外の言うことなんか聞きやしない。僕が力づくでも引っ張ってこなきゃ」


 そして、ジャンはあっという間に、診療所を飛び出していってしまったのだ。

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