第1話 暗い嘶き
アイアリスシリーズ
第三章『虚無の王宮 水晶の棺』から二年後の話です。
* *
― その漆黒の馬は、夜ごと夜ごとに天を駆け、邪心の紅が蔓延った混沌の空を、祓いのけてゆくという。
暗い
*
夏の終わり。
黒馬島の中海の海岸。
波打ち際で、絹を束ねたようなレイピアと、鋼鉄の長剣が火花を散らした。
「おい、おい、マジかよ」
長剣の使い手の大男、タルクは、レイピアを目にも止まらぬ早業で繰り出してきた少女に驚き、顔をしかめた。
この嘘みたいな上達ぶりは何なんだよ。この娘のことは、小賢しいだけの泥棒娘と思っていたのに……。
「ま、まぁ、最初よりかは少しはましになったな。それより、お前、幾つになった? 背丈だけはよく伸びたな」
「14歳だよ。背が伸びるのはいいけど、タルク、あんたみたいな大入道になるのはヤだ!」
あははと笑う少女の肩にかかった紅の髪が、夕日を背に、オレンジ色に輝いている。タルクは思わず目を細めた。
サライ村のココ……か。
俺も相当、まいっちまってるのかな。この娘の髪を見る度に、さっぱり行方の知れない、あの男を思い出してしまうなんて。
陽光に
凍てつくような灰色の瞳。
「畜生っ、女神かなんかは知らないが、ゴットフリーが海の向こうに消えてからもう二年が経つ。アイアリスは、奴をどこへ連れて行っちまったんだよ!」
沖を見つめても、視界に入ってくるのは水平線に横一列に並ぶ紅の灯ばかりで、タルクは、その澱みっぷりに、ちっと舌を鳴らした。
それは、すべての者と物を破滅に導く紅の邪気。
ゴットフリーが女神アイアリスと共に消え、黒馬島ごとタルクたちが、この海域へ移動したと同時に……いや、おそらくはそれより前に、海の鬼灯はこの場所をかぎつけて先回りしていたに違いない。
ここは、タルクが、ゴットフリーやジャンらとともにずっと探し続けていた - 至福の島”レインボーヘブン”- が、500年前に存在したはずの場所なのだ。
だが、場所は特定されても、未だ至福の島は復活していない。
復活の条件は、この場所にもともとのレインボーヘブンの住民と、女神アイアリスに七つに分けられたレインボーヘブンの欠片が集結することだ。しかし、七つの欠片がすべて揃ってない上に、それを記したレインボーヘブンの伝説でさえも、信憑性はもう薄い。
この先、何を目標にして前に進めばいいのか……ゴットフリーの行方が知れない今、タルクには、予想も決断もできなかった。おまけに、至福の島を手にいれることが人間たちの望みなら、海の鬼灯の望みはその島を崩壊させることなのだ。
それなのに、この二年間は奇妙な膠着状態が続いている。
「それが、恐ろしく不気味なんだ……」
タルクがぽつりと呟いた時、ココが不思議なことを言い出した。
「ゴットフリーといえば、タルクは島で変な噂があるのを知ってる?」
「噂?」
「黒馬島のご神体の黒馬が現れるんだって。それは、嘶きながら夜な夜な空を駆けてゆくんだって」
「えっ? それ、本当か」
「う・わ・さだってば。でも、それって悪いことが起こる前触れらしいよ」
「悪いことが起こるって? そんなもんは今更、怖くも何ともないぞ。俺たちは、これまでだって、島が沈んだり、大蛇と戦ったり、闇が襲いかかってきたり、女神が降臨してきたかと思えば国が崩壊。話せば切りがないほど散々な目にあってきたんだから。それよりも、黒馬はゴットフリーの乗馬だ。もし、その噂が本当なら、あいつを探す手立てになるんだが」
島で噂の黒馬が姿を現さないものかと、タルクは宵の明星が輝き出した空を、じっと目を凝らして見つめた。だが、空には、渡り鳥たちが作る流線型の隊列が、北へと流れてゆくばかりだった。
* *
「そろそろ日が暮れる。黒馬亭に帰るか。フレアおばさんが夕食を作って待ってくれてるだろうし」
「
「……天喜はラピスの診療所だよ。ふん、最近じゃすっかり、奴の助手気取りだ」
タルクは手にした長剣を背中の鞘に納めると、超不満顔で頬ひげのある口元を歪めた。
「タルクったら、拗ねてるし。ただでも天喜を狙ってる男子は多いのに、ラピスがライバルだと、また、ハードルが高くなっちゃうね」
ココは、からかうように笑みを浮かべると、レイピアを一振りしてからすらりと鞘におさめた。
「おい、おい、何だよ。いくら剣の腕が上達したからって、そんな風にゴットフリーを真似るこたぁないだろ」
「へ? 真似てる……て、私が?」
「何言ってやがる。今のキメ方なんて、そっくり……」
だが、タルクが声を高めた時、西の空が、突然翳ろいだした。
宵の明星は光を奪い取られ、風が運んできた灰色の雲が空全体に広がってゆく。すると、波音までが、しんと成りを潜めてしまったのだ。
光という光、音という音が黒馬島の海岸から消えてしまったかのような……
完全な沈黙。
「な、何……?」
タルクとココは顔を見合わせ、ふと遠くに耳を澄ませた。漆黒の空に流れる灰色の雲が急に早くなる。彼らは、唖然と空の一角に視線を移した。
かすかに響いてくる
「黒馬が……」
黒衣の男を背に乗せた漆黒の馬が、
闇を従え、黒馬島の空を駆け抜けてゆく。
「ゴットフリー!!!」
タルクは空に向かって、素っ頓狂な大声を出してしまった。
冗談じゃない。二年間も姿をくらませといて、久々に現れた姿は、幻か!
灰色の雲の中を疾走してゆく黒馬の姿は、どう考えてみても現実のものとは思えなかった。
そして、二人が空を見上げているうちに、黒馬は闇に溶け込むように姿を消してしまった。……が、その時、
「タ、タルクっ、あれっ、あれ見て!」
ココが指差した先に飛翔する巨大な漆黒の鳥。雲を掃いながら羽ばたく翼の影に、少年の姿が見えた。
「タルクっ、あれって、あれって、
「ああ……」
「なら、鳥の上にいるあの子が、夜叉王!?」
レインボーヘブンの欠片 “空”。
その昼と夜を二つに分けて引き継いだ双子の姉と弟。昼の部分の”天喜”は知っていても、夜の部分の“伐折羅”の姿を目にしたのは、ココにとっては初めてのことだったのだ。
「本当に夜の化身みたいじゃないの。私、あの鳥の跡を追ってみる! 消えた黒馬の跡を追っていったんだもん。あの子、ゴットフリーのことをきっと何か知ってるわ。私、足には自信があるんだ。すぐに追いついてみせるよ。タルクは先に黒馬亭に帰ってて!」
「冗談じゃない! いくら天喜の弟だって、伐折羅は、百億の夜叉を連れた夜叉王なんだ。お前なんざ、会ったとたんに、ぶっ殺されるぞ。危なっかしいことを言い出すのは止めて、さっさと黒馬亭に帰るんだ!」
「大丈夫、伐折羅は私には絶対にそんなことはしないよ」
「……何かいい策でもあるのか」
「ううん、ただの勘!」
「おおいっ、待て!」
止める間もなく、紅の髪をした少女は、全速力で駆けていってしまった。その後姿を目で追いながらタルクは、
「あの娘がゴットフリーに似てるだなんて、ちょっとでも思っちまったことを俺は早々に撤回するよ」
顎鬚の口元を盛大にしかめた。
「無鉄砲なところは、ゴットフリーに似ても似つかないじゃないか」
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