第125話 黒馬島

 静寂が戻ってきた海岸の上に広がる冬の空は高く澄み渡っていた。


 広がる青は美しかったが、女神アイアリスの冷め切った瞳の色を思いおこさせて、人々の心に厚い雲を蔓延らせた。おまけに、王女リリーが絶大な信頼を寄せていたゴットフリーまでが捕らえられてしまったのだ。

 そんな心許ない住民たちの頭上に、明るい光が差し込んできたのは、陽光に映えて輝く水晶の山の頂からだった。


 ソード・リリー

 グラン・パープルを救うため、自ら水晶の棺に入り守護神となった王女。


「そうだよ……王女はいつだって、どんな時だって、グラン・パープルを守っていてくれてる。それに報いるためにも僕らはレインボーへブンを蘇らさなければならないんだ。泣き言を言ってる暇なんかないんだよ」


 自分自身にそう言いきかせながら、ジャンは、煙に包まれたような顔つきのココの手を取り、タルクやスカーがいる海岸に戻ってきた。


*  *


「お、おい……ジャン、ゴットフリーをアイアリスに獲られて……俺たちはどうすりゃいいだ!」


 顔面を蒼白にしたタルクが駆け寄ってくる。すると、スカーが、レイピアを握り締めたココを訝しげに見やり、


「それに、浅瀬の中でお前たちは、あいつと何を話してた? ”レインボーへブンの王”がサライ村の泥棒娘を庇い、しかも、王女から預かった大切な宝剣を渡しちまうって一体、どういうことなんだ!」


 ジャンはその質問に答えあぐねる。すると、

「ねぇ、ゴットフリーが言ってた”妹”って……?」 

「しっ、ココ! 今は、それに触れちゃいけない」


 そのことについては、ジャンもまだ分からないことが多すぎるのだ。慌ててココを制止した時、突然、西の方向に灰色の雲が湧き上がった。薄墨のような雲が流れ、西から東へと空が不自然に暗に色を変えてゆく。


「な、何だ、今度は何が来るっていうんだ?」 


 徐々に上空が灰色から漆黒に色を変えてゆく。住民たちは、ぎくりと身を震わせた。


「こ、これは……!?」

「ま、まさか……」


 巨大な影の下。冬晴れの青は急速に翳り出し、すべての光を遮ぎらんかとする勢いで暗黒の靄が増殖しはじめた。


 漆黒の闇。


 これと同じ光景を以前に見た誰も彼もが、背中に冷たいモノが流れてゆくのを止めることができなかった。この闇がグランパス王国を崩壊させたのだ! あの紅の灯と相まみえて。


「闇の戦士!?」 


 人々が声をあげた時、空を覆う影の間を縫うように巨大な羽を広げた黒い鳥が飛翔してきた。


「あれは……伐折羅ばさらの黒い鳥!」


 ジャンは、滑空してくる黒い鳥に唖然と目を向ける。

 その背の上で一人の少年が冷ややかな視線を地上に落としていた。

 

 夜が化身したかと思うほどの漆黒の髪、静かな夜の湖底のように寂しく美しい同色の瞳。


 「”夜叉王” 伐折羅ばさら!!」 


 我知らず声を荒らげたジャンをちらりと見据えて、少年は羽ばたく黒い翼の隙間から冷涼な透き通った笑みを浮かべた。


「ジャン、そんな風に呆気にとられて空を見上げてる場合じゃないだろ? もう、みんながレインボーへブンに向けて集結し始めているんだ。もたもたしていると、ゴットフリーを見失ってしまうよ」


「お前、まさか、実体なのか! 伐折羅の本体は黒馬島にいるはずなんじゃ……」


 エターナル城が崩壊寸前の時に現れた伐折羅は、レインボーへブンの欠片”夜風” ― 霧花きりか ― の体を仮宿にした精神体だった。ジャンは、はたとその時の彼の言葉を思い出す。


 時をおかず黒馬島もゴットフリーの元に現れるだろうと……。


「霧花は、”闇の戦士”の先発隊を率いてとっくに目的地に向かっているよ。こんな所で無駄な時間を使ってる暇はないんだ。じゃあね、僕はゴットフリーを追ってゆくから」


 少年は、背中から吹きつけてくる冷たい風に漆黒の髪をなびかせると、ジャンたちの頭上に低空飛行させていた黒い鳥を一気に上昇させ、東の方向に翼を向けさせた。すると、空を占拠していた黒い影 - 闇の戦士- が、一斉にその後を追い出したのだ。


 ”夜叉王”伐折羅に率いられた闇の軍。その巨大な黒い帯が、暗い河のように西から東へ空を流れてゆく。

 グラン・パープルの住民たちは、それらが空の彼方へ消えてゆく様を畏れ慄いた表情で、見送るばかりだった。


*  *


「ジャン、俺たちもゴットフリーの後を追おう! お前には、あいつの居場所が分るんだろ? なら、早く!」


 タルクが焦ってジャンの元に詰め寄ってくる。けれども、ジャンは困り果てた顔をした。


「……僕とゴットフリーが同調シンクロしていると言っても、それはレーダーみたいに的確なものではないんだ。奴の気持ちが不意に僕の頭に浮かび上がるだけで……」


 そうこうしているうちに、グラン・パープルの空に太陽の明るい日差しが戻ってきた。……が、無意識に海岸に集まった人たちが光の方向へ目を向けた瞬間、


「……!!」


 突然、足元に大きな揺れが起こったのだ。

 立っていられない程の大地の震え。そして、轟音。それと共にグラン・パープル島の周囲に黒い塊がせり上がってきた。徐々に高く伸び上がり、島は黒い岩石でできた厚い壁に取り囲まれた。


「な、何だ?」


 住民たちは大きく目を見開く。


 島の周囲を黒い地層が覆っていた……その表面には砂岩と泥岩の筋が波のように続いている。だが、礫も砂もすべてが炭化した鉱物であるかのように光を吸収し、その地を黒に染めていた。


「こ、これは……?!」


 ジャンはタルクと顔を見合わせ、同時に叫んだ。


「黒馬島か!!」


 彼らが驚くのも無理はなかった。黒馬島は、女神アイアリスに宿命づけられ、自分の意思とは裏腹に移動を繰り返している流浪の大地だ。ゴットフリー、ジャン、タルク、リュカの4人は、消えゆこうとする黒馬島から寸での所で脱出し、このグラン・パープル島へやって来たのだから。


「な、何で、黒馬島がグラン・パープルに?!」


 その時、空気が急に密になり海岸が鉄色に輝き出した。寄せてくる波頭を悉く押さえつけてしまいそうな銀色よりも重くのしかかる光。それが一瞬にして縦に伸び上がった。

 砂煙が舞い、その隙間を抜けた光彩が徐々に人の形をとりだしてゆく。そして……


 光の中に、日に焼けた少年が立っていた。


 浅黒い肌。短い髪。”夜叉王”伐折羅の漆黒の瞳とは、全く対照的な活気に満ちて聞かん気な黒い瞳。


「クロちゃん!!」


 なぜ、この場所に、このタイミングでクロが現れる? この少年は実体ではないのだ。クロの正体は、”黒馬島そのもの”だ。それは、レインボーヘブンの欠片“黒馬島”が自分の心に、少年の形を付けているだけの存在なのだから。


「ジャン、また会ったねなんて、悠長なことを言ってる暇はないんだ。アイアリスがゴットフリーを連れて行ったのは、至福の島が蘇る場所に決ってる。だから、行こう! 僕たちも、彼の後を追って!」


 ジャンはその言葉に唇を噛む。


「……でも、今の僕には、あいつがどこにいるかが分らないんだ……」


「まったく、情けのない話だな。ジャンはレインボーヘブンのいしずえなんだろ? それが、自分が帰る場所が分らないなんて。ならば、僕がみんなを連れてゆく。お前はまだ思い出さないのか? 黒馬島はドーナツのような型をしていて、はるか昔、丸く空いた中心にレインボーへブンを抱えていたってことを」


 その言葉にジャンは絶句する。


「まぁ、思い出すのは後でもいいが……ここにきて、何かしらの強い力が僕の体を呼び寄せようとしているんだ。多分、その力の出所がレインボーへブンが元々あった場所なんだ。僕は、またすぐに、移動を始めるぞ。だから、ジャンたちは、グラン・パープル島から黒馬島に移って。それも、なるべく早く!」


 クロの姿がおぼろげに薄れてゆく。それと同時に、足元に大地の震えが小刻みに伝わってきた。焦る気持ちを抑えきれず、ジャンは、


「タルク、スカー、サライ村の住民を集めて黒馬島に移動するんだ!! 黒馬島が消えてしまっては、僕らはゴットフリーの行方を見失ってしまう」


 どんなに唐突な事態でも、こんな時は考えるより行動するに限る。


「分かった!」


 タルクに迷いはなかった。……が、

「ちょっと待てよ! 移動するったって、ここから見えるのは、黒馬島の切り立った岩肌ばかりだ。闇雲に黒馬島を目指して走って行っても、断崖絶壁につきあたるだけだぞ!」


 声を荒らげたスカーに、確かに……と、強く顔をしかめた。

 クロが言ったように黒馬島がドーナツ型をしているのなら、今、グラン・パープルは、その中央の空いた場所にすっぽりと入り込んでいるに違いない。その時、


「タルクーーっ!!」


 海岸の向こうから彼を呼ぶ声が聞こえてきたのだ。


「えっ……?」


 一人の少女が、手を大きく振りながらこちらへ駆けてくる。


天喜あまき!? 天喜なのか!!」


 タルクは瞼がちぎれそうな勢いで目を瞬かせて、海岸に視線を向けた。


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