第119話 逃げてはならない

 窓のカーテンの隙間から、部屋の中にねじ込むように入ってくる銀の光。

 ゴットフリーが出て行ってしまった家の中で、タルクは強く顔をしかめた。やはりという思いと、避けて通りたかったという思いが錯綜し、じわりと額に汗が滲む。


 畜生! ゴットフリーが心配した通り、邪神の女神が降臨してきやがった。


 がたんと椅子から立ち上がると、壁に立てかけてあった長剣を手に取る。ベッドののラピスに目を向けてから、タルクはスカーに言った。


「レインボーへブンの女神だ! 早く行かないと、ゴットフリーを連れてゆかれる。俺は奴の後を追うが、ここは、スカー、お前に任せたぞ。”樹林”の存在をあの女神に知られるとラピスもヤバいんだ。だから、絶対に……絶対にラピスを外に出すんじゃないぞ!」


 その言葉を残して、タルクは家の外に出ていった。


*  *

 

 上空に舞い上がったレインボーへブンの女神  ― アイアリス ―  の光輝が殺気だった光を岸壁に撒き散らしている。

 異様に煌く銀に色を変えた海の青。その様に怖れをなした海鳥たちが、甲高い声をあげながら、飛び去ってゆく。


 エターナル城が海に沈んだ跡の岸壁で、岩肌に強く弾けとんだ波飛沫。空からは、身と身を寄せ合う王女リリーと侍女をなぶるように、白い女神が残酷な笑みを投げかけてくる。


「”闇の王“とうそぶくわりには、”闇の扉“を完全に開こうともせず……ゴットフリーは、まだまだ、こちらの世界に未練があるようね。恩を仇で返すようなお前たちに情けをかける必要などないのに。私は、この銀の光でグラン・パープル島を全て焼き尽くしてしまいましょう。そうすれば、彼も自分がやっていることの愚かさに気づくだろうから」


「お願いだから、みんなを殺さないで! それだけは止めて!!」


 王女は、銀の光を迸らせたアイアリスに向かって声をあげ、戦慄わななくように身を振るわせた。


 これは、何? 慈愛も温容も憐みも失くし、プライドと力だけを残した……


 天空の女神は、グラン・パープル島を哀れむどころか、その崩壊を夢想し薄笑いさえ浮かべている。



― この国を救いたいのならば、お前が”水晶の棺“に入りなさい。生きた守護神として ―



 アイアリスの言葉が脳裏に浮かんだ時、王女は唇を噛み締めて、天空に紫暗の瞳を向けた。


 逆らえない……。この邪神と化した女神には。


「待って!! 私が”水晶の棺”に入れば、グラン・パープルは救われるのね。ならば……」


「王女さま、止めてください!! 生きたまま棺の中になるなんて、残酷すぎます!!」


 天空に舞い上がったアイアリスの真下にある岸壁の突端。そこに歩いてゆこうとするリリーに侍女がすがりつく。侍女の手を沈痛な表情で払いのけ、自分の足元までやって来た王女に、女神は勝ち誇った笑みを浮かべた。その時、


「……!!」


 突然、体を黒い影が真二つに切裂いたのだ。


 アイアリスは、青い瞳を大きく見開いた。切裂かれたといっても、血もでなければ、痛みも感じない。ただ、白い衣の足元が溶けるように空気の中へ消えていった。天空の女神は悔しげに、黒影を解き放った男の名を呟いた。


「ゴットフリー……」


 陽光がその髪を紅に染めていた。冬の冷気を帯びた灰色の瞳。王女がいる岸壁の少し下の場所に、彼  ―  ゴットフリー  ― は立っていた。黒刀の剣を握り締め、その傍らに至福の島、レインボーへブンのいしずえ  ― ジャン ― を従えて。


「王女、こっちへ来るんだ!」


 血相変えて走り寄ってきたジャンが、王女の手をぐいと引いた。


「ゴットフリー! ジャン! 来てくれたのね!!」


 飛び込むように彼らの傍へ駆け寄っていった王女。けれども、そんな彼女の背中に天空から銀の光が投げかけれられた。


「アイアリス!! なぜ、お前はそこまで堕ちてしまったんだ!」


 王女と銀の光の間に立ちふさがったジャンの手のひらが大きく開く。その瞬間、”銀の光”と、”蒼の光”が岩壁に炸裂した。


*  *


 ぎらついた銀の光が天空に飛び散った時、居住区の人々は一様に顔を見合わせた。


「何だ、あの光は!」


 けれども、その直後に、


「岸壁に急げ!! あの方向には王女が行ってるはずだぞ!」


 誰彼なしに叫ぶと、住民たちは岸壁に向かって駆け出した。これは非常事態だ。それも、とてつもなく不吉な前兆の。

 グラン・パープルの崩壊を目の当たりにしてきた彼らは、知らず知らずのうちに危険を察知する力を身につけていた。それから目をそらすことを止めることも。


  誰もが悟っていた。逃げてはならない。それが、新たな紅の邪気  ―うみ鬼灯ほおずき ― を生み出すのだから。


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