第84話 覚醒

 このまま、何も見ずに逃げていってしまいたい。


 それでも、目の前には血まみれのラピスを食らいこんだ白蛇が、大きく鎌首をもたげている。


 嫌だ……。こんなのは絶対に嫌!


 その気持ちが胸から溢れそうになった時、ココの脳裏に、冷たく、けれども、心を奮い立たせるような低い声音が浮かび上がってきた。


“何だ、今ごろ怖気づいたのか。この城の迷宮で、レイピアを大蛇に突き立てたことのある娘が……”


 ココは、はっと茶色の瞳を見開いた。


 そういえば、……ゴットフリーと私が、この白蛇のつがいに襲われた時……


 ココは、咄嗟に腰に手をまわす。私って何て馬鹿! こんな場所にラピスをおいて、一人で逃げようだなんて。


 王宮に来る前にスカーから手渡されていた短剣。その柄を両手で握り締めるとココは白蛇を睨めつけ、


「白蛇の馬鹿ーっ!! ラピスを離せっ!!」


 大声で叫びながら、形振り構わず白蛇の胴体にその刃を振り下ろした。


 巨大化した白い怪物にとっては、そんなものは蚊にさされたほどの衝撃だった。ところが、

「私がやらなくても、ゴットフリーがお前を退治するんだから! それに、レインボーヘブンの欠片だって、みんな、私の味方なんだよっ!」


 そのココの声に応えるように、白蛇の喉元が小さくきらりと輝いた。その光はくるくると弧を描きながら徐々に大きくなってゆく。


 な、何っ! わ、私の首が……


 身をえぐられる痛みが、喉の奥から込み上げてきた時、白蛇は忘れかけていた“水の輪”のことを思い出した。


 取り出そうにも取り出せず、咽喉に深く食い込んでいたウォーター・リング。

 それは正体を見破られた王妃がエターナル城の礼拝堂から逃げる時……レインボーヘブンの欠片、紺碧の海 -BWブルーウォーター- から投げつけられた物だ。


 高速で回転する水の刃。それが空中へ飛び出したと同時に、

 

 グアアアアアッッッ!!


 白蛇の苦悶の叫びが空に轟いた。


 白い肉片が、どす黒い血飛沫になって宙を飛び散る。

 次の瞬間、白い化け物の首は、大きく刃を広げたウォーター・リングによって胴体から、かき切られた。


 畜生……、あと少しだったのに……あと少しでグランパス王国を手に入れることができたのに……


 呆然と空を見上げるココの上に、白蛇の口元からようやく開放されたラピスの体が落ちてくる。すると、自ら繋がりを解いたウォーター・リングが、水の粒子に姿を変えてラピスの体をゆるりと取り巻き出した。

 薄く張られた水の膜に取り巻かれながら、ラピスが自分の元に降りてきた時、ココは初めて大粒の涙を流した。


「ラピス……しっかりして」


 体に白蛇の毒がまわり、牙に傷つけられたラピスは、手の施しようがないほど血にまみれて弱りきっていた。それでも、わずかに右手を動かし、ココを自分のそばに呼ぶ。

 そして、


「俺は、もう……駄目だ」


 そっとココの頬に手を伸ばした。指先におちてきた少女の涙を感じてか、消え入りそうな声で言う。


「いつも悪態ついてるけど……、タルクが言ってた……ココって可愛い顔してるんだってな。紅の髪に……茶色の瞳……。どうせ死ぬなら、一度は……自分の目で見てみたかったなあ……」


「ラピス、死ぬなんて言っちゃ、だめっ! ジャンが来たらきっと、力を使って直してくれるから、そんなこと言わないで!!」


 乞うように言ったココの時間間隔は、完全に麻痺していた。わからなかったのだ。ジャンを乗せた白い鳥がすでに、王宮から飛び去ってしまったことが。

 それを知ってか知らでか、ラピスは口元に軽く笑みを浮かべた。その笑みが消えると共に、ココが支える体から次第に力が抜けていった。


 ぱたりと自分の頬にかけられた手が下におちてしまった時、


「ラピスっ!! だめ! だめなんだってば!」


 ココは懸命にラピスの名を叫んだ。けれども、返事はもどって来ない。


「嫌だ……こんなのは、嫌!」


 ラピスを抱きしめたまま、ココはわんわんと声をあげて泣いた。何で、ロケットなんか拾いに行ってしまったんだろう。とうに死んでしまっている父の写真なんかより、生きているラピスの方がずっと大切だったのに!


 ラピスの眼になるどころか、私がラピスを死なせてしまったんだ。


 胸からとめどなく溢れてくる後悔の思いにさいなまれ、ココには泣くこと以外に、なす術が見つからなかった。

 けれども、その背後では白蛇の胴体が失った首を探しながら、うねうねとうごめきだしていた。

 白蛇の体には、すでに王妃の意思というものは宿ってはいなかった。だが、その猛烈な憎悪と、グランパス王国への断ち切れぬ執念を引き継いだ白蛇の体は、首を失くした後もその思いを断ち切れずにいた。


 引きちぎれ、叩き潰せ、串刺しにしろ。


 出会ったすべての物を、破滅に導こうとする暗い思い。白蛇は巨大な尾の尖端を前方に見える獲物に狙いすませた。

 だが、ココの周りには、白蛇から醸し出されるどす黒い感情とはまた別の空気が、急速に広がり出していたのだ。


 苦しくてたまらない少女の胸の内に、すうっと入り込んできた清涼な風の流れ。

 

 何だろう……こんな時なのに……この澄んだ感じ……。


 違和感たっぷりの気分で辺りを見渡してみる。けれども、何も見当たらない。その時、抱えたラピスの体がかすかに動いたような気がして、ココは真っ赤に泣き腫らした目を手元に向けた。


 緑の光……?


 ラピスの体から、薄ぼんやりとした緑色の光がほとばしっている。


 ジャン? ううん、ジャンの光は蒼いはず……なら、これは?


 すると、


「まったく、ひどくやられたもんだ」


「……え?」


 ココは思わず自分の耳を疑ってしまった。呼んでも呼んでも答えなかったラピスの口から、そんな声が漏れ出してきたではないか。

 驚くココを気にもとめず、緑の光は瞬く間に、ラピスの体を染め上げていた血の色を消し去り、深くつけられた傷を癒してゆく。


「き、傷が……消えた……?」


 ジャンじゃない。これ、ジャンの力じゃないよね。


 次の瞬間、ラピスの顔に目をやったココは、唖然とそれに見入ってしまった。


「ラ、ラピス、ラピスの目、目が……!?」


 固く閉じられた両のまぶたが、ゆっくりと、ゆっくりと開いてゆく。


 花緑青の瞳。

 水晶よりもさらに深く澄んだその色の。


 驚きすぎて腰を抜かしそうな少女に瞳を向けて、優雅に微笑みながらラピスは言った。


「ああ、タルクが言ったことって本当だ。ココって、やっぱり、かわいい顔してる」


 それから、自分を支えていたココの腕をそっとはずすと、深い傷などなかったかなように、ラピスはすっと立ち上がった。


「あ、あんた、誰っ! ラ、ラピスじゃないでしょっ!」


「ココったら、今の今まで一緒にいたのに、何、寝ぼけたことを言ってんだ。ラピスだよ、正真正銘の」


 冗談じゃないわよ。姿や声は同じでも、こいつは違う。ラピスじゃない!


 少女の心の中で、先ほどまでの悲しい気持ちが一気に吹き飛んでいった。


「ラピス? ううん、違うもん!」

「何でだよ? おかしな奴だな。もしかして、白蛇に追いかけられすぎて頭が混乱しちまってるのか」


 からかうような彼の笑みを指差し、ココは叫んだ。


「だって、だって、ラピスは……ラピスは……」

「俺が何?」


「そんな風に上品に笑ったりしない!!」


 すると、青年は、半ばおもしろそうで半ば困ったような緑の瞳をココに向けた。


「あんたはラピスじゃない。だって、私は知ってるんだから!」


“エターナル城に、もう一つのレインボーヘブンの欠片が眠っている。それも、水晶の棺に納められて”


 城の迷宮で、ゴットフリーと一緒に迷い込んだ西の尖塔の最上階。あの時に見た花緑色の瞳。その情景が、脳裏に湧き上がってきた時、


 あそこにいたのは偽者だったって、ジャンが言ってた。本物は……よりによって、こんな所にいたなんて!


 ココは、思いの丈をぶちまけるように目の前に立った青年を指差し、その名を叫んだ。


「レインボーヘブンの欠片、“樹林じゅりん”!!」

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