第63話 俺が殺した。俺の言葉で


 海だ。紺碧の海……


 海といっても、水もない、波もない。音も聞こえてはこない。

 それが、幻影であることは、一目で知ることができた。


 黒馬の背から、床におりると

 ゴットフリーは、放心したかのように辺りを見渡した。礼拝堂の中には、目に染み入るような透き通った海が広がっている。


 俺はこの海を知っている。

 レインボーヘブン

 これは……レインボーヘブンの紺碧の海。


 だが、


「……BWブルーウォーター!」


 ゴットフリーがその名を呼んだ瞬間、礼拝堂の中を覆っていた蒼が一斉に消えうせてしまった。


 薄暗い蜘蛛の巣だらけの礼拝堂。

 埃にまみれたグランドピアノの上には、迷宮を探しに侵入した時、騒ぐココの声を王女から誤魔化すために弾いた、バイオリンがそのまま残されていた。


 胸を詰まらせるような寂しげな風景の中で、ステンドグラスの窓から差し込む朝日だけが、唯一、清涼と思える光を礼拝堂の中に送り込んでいる。

 その朝日に照らされたステンドグラスの窓に目をやり、光を浴びたゴットフリーの黒い髪が、紅の色に変わった時、


「馬鹿な! こんなことがあってたまるか!」


 BW! 何でお前は!


 聞かずとも、その答えは胸の中からこみ上げてくる。口元を強く押さえると、ゴットフリーは礼拝堂の床の上にがくんと膝から倒れ込んだ。


“BWをおとしめたのは自分だ。こんな寂しい廃墟の中に置き去りにしてしまったのは、この俺だ”



 明日の朝、首を吊ろう

 あのステンドグラスの窓に綱をかけて


 それでも、私は信じています。

 ゴットフリー、あなたがいつか私たちを、至福の島へ導いてくれることを……


*  *


 礼拝堂の扉の前で、中の様子に聞き耳をたてていた近衛兵たちは、突然聞こえてきた大音響に、飛び上がって驚いた。


「な、何だ? 礼拝堂の中で何があったんだ……」


 相当恐れをなしてはいたのだが、音を聞きつけた他の衛兵たちが駆けつけてくる。これ以上、見てみぬふりもできないと、二人の近衛兵はおそるおそる礼拝堂の扉に手をかけ、それを開いてみた。

 固く閉ざされていた扉は、嘘のように軽く開いた。


「……おい、礼拝堂の中で改修工事でもやってたのか」

 大破したステンドグラス側の壁に唖然を目をやる。


 かすかに耳に響いてくる遠ざかってゆく蹄の音。


「あ、あいつら、礼拝堂の壁を壊して外へ出て行ったのか。と、とりあえず、ここからいなくなったのは、有難いじゃないか……」


 目に焼きついて離れない巨大な黒馬の姿と、凍りついた灰色の瞳に、ぞくりと身を震わす。


 壊れてしまった礼拝堂の言い訳を……考えないとな。それも一苦労するだろうが、あんな寒々しい思いをするよりはずっといいと、二人の近衛兵はお互いの目を見交わし、ほっと安堵の息をもらした。


*  *


 海の香りにひきつけられるがままに、ゴットフリーは黒馬を走らせた。

 BWの体を葬るには、海しか行きつく場所はなかった。


 たどり着いた海岸は、グラン・パープルのどの方向の海かもわからない。けれども、そんな心配は脳裏の片隅にも、沸きあがってはこなかった。

 小さく波打つ海の浅瀬に、いつも自分に影のように寄り添っていた参謀の屍を横たえる。


 BWは、レインボーヘブンの欠片。

 これは、入れ物にすぎない。これは仮の姿だ。これは、BWじゃない。

 そう自分に何度も言い聞かせてみた。


 それでも、海の中へ溶け込むように消えてゆくBWの姿を見届けることができず、ゴットフリーは砂浜に膝をつき、顔をうつぶせた。強く砂を握り締め、ほとばしりそうになる嗚咽を堪えるように固く唇を噛み締めた。


 “俺が殺した。俺の言葉で……”


 引き裂かれそうな苦しい思いが、胸の上に湧き上がってくる。


 ガルフ島、黒馬島、そして、ここでも……俺は大切な物を失ってしまった。

 これも守護神アイアリスの意思なのか。

 いいや、あれはもう、女神とは呼べない。


 それならば、俺はなぜ

 至福の島、レインボーヘブン。そんな錆ついた伝説を見つけるために、こんな苦い思いを繰返しているんだ!


 激しく咳き込み、寄せてきた波に体をとらわれそうになった時、ゴットフリーの脳裏にふと、浮かんできた言葉。



 “……何もかも壊してしまえ”



  引いてゆく波の中で、無表情に宙を見つめる。



 “さすれば、この世から苦しみはなくなる”



 一瞬、心を梳くような思いが胸をよぎった。


「……何もかも壊してしまえば……」


 暗く陰鬱な光を帯びた灰色の瞳が、かすかに微笑もうとした時、



 ― ゴットフリー、そんな風に考えては駄目! ―



 強く耳元に吹き付けてきた風に思考を中断させられ、虚をつかれたように、ゴットフリーは空を見た。


霧花きりかか? お前、どこにいる?」



 ― 朝の光の中では私の姿は見えない ―



 弱々しいその声に、皮肉に唇をゆがめて言う。


「そうか、お前は“闇の住民”だからな。今、ちょうど、そちらの世界のことを考えていたところなんだ。伐折羅ばさら……あいつのように殺戮や崩壊を喜ぶことができるならば、それは作りあげるより、よほど楽しいことなんじゃないのか……と」


 どんなに精魂こめて作り上げたとしても、いつかそれは崩れてゆく。ならば、壊してしまえ。無くしてしまえば、失う苦さを味わうこともないのだから。



― 馬鹿なことを言わないで。お願いだから、闇に心を向けるのはやめて! ―



 そう言ってから、霧花はふと、言葉を止めた。ゴットフリーは、手を伸ばせば届く位置にいるのだ。だが、彼に触れることができないもどかしさが、胸をつまらせた。


 闇に心を向けるのはやめて……? でも、それは私の本心なのだろうか。

 ……本当の私は……彼と片時も離れずいるジャンやBWが羨ましくてたまらない。

 今まで、“闇の住民”である自分と一緒にいることで、ゴットフリーの心が闇に向かわないよう、なるべく距離を置いてきた。けれども、今、彼を闇につれていってしまえば、

  

 そうすれば……私は、ずっとゴットフリーのそばにいれる。



 心が闇を向いている今なら……

 容易く、彼はこちらに来る。


 

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