第60話 海の歌


「お前はもう寝ろ! 俺にまとわりついてくるな」


 サライ村の宿営地でやたらに絡んでくるココ。さすがにこれ以上は相手はしていられないと、ゴットフリーが声を荒げようとした時、


「……」


 急に口を閉ざし、海の方向をはっと目を向けた彼に、ココは首を傾げた。


「ゴットフリー、どうしたの?」 

「歌が聞こえる……」

「えっ、歌?」


 ガルフ島の海岸でも、何度も聞いた……この歌……

 

「なぁんにも聞こえないよ。ねえ、ラピス、タルク、歌なんて聞こえないよね」


 腑に落ちない表情のココの手を振り解いて、ゴットフリーは暗い海に向かって歩いていった。


 歌が聞こえる。俺を呼ぶ声が小波の中から流れてくる。


 頭の中で美しい調べが、水の波紋のように何度も繰返してくる。突然、猛烈な眠気におそわれてゴットフリーは、それを振り払うように首を振り、また元の場所へ戻って来た。


「ひどく疲れた。もう、休ませてくれ」


 なぜ、眠らせようとする……? それなのに、なぜ、俺を呼ぶ……。


 頭を手で押さえ、少しふらつきながら、タルクとラピスの横を通り過ぎ、ゴットフリーは元いた小屋へと歩いていった。


「ゴットフリー!」


 思わず手を出し、彼の後を追おうとしたラピスをタルクが止める。


「そっとしておいた方がいい。急に飲んだ酒が眠気をさそったなら、それはそれでいいじゃないか。あのまま、ぐっくり眠れば、ゴットフリーの気分もいい方に変わってゆくさ」

 

 遠くから聞こえる小波の音に耳を澄ませて、ラピスは不安げに遠ざかってゆくゴットフリーの気配を追った。


本当に? 本当にそれでいいんだろうか?


 歌が聞こえる。そうだ、俺にも聞こえてくる。波にまぎれて、幾重にも響く柔らかな旋律。


これは、BWブルーウォーターの……海の歌。


*  *


 グラン・パープルの西の空。

 闇の中を滑空する漆黒の鳥。


 吹きつけてくる疾風に飛ばされまいと、ジャンは伐折羅ばさらの黒い鳥の首にしがみつきながら、前方を飛んでゆく紅の灯に目を向けた。


「しめた。やつらもさすがに疲れたのか、速度を落としてきているぞ」


 偽 “樹林じゅりん”が変化した紅の灯。彼らに追いついて、しばらくの間でも、“空間凍結”してしまえば、時間かせぎにはなる。その間に、僕らは戦闘態勢を整えればいいんだ。大丈夫。みんなの力を合わせれば、あんな邪気に負けやしないさ。


「とはいえ、僕もかなり疲れてきた。お前も……」

 と、伐折羅の黒い鳥に話しかけようとして、ジャンは、遠くの海から響いてくる音にはっと耳をそばだてた。


 歌? ……だが、これは……


 その時、ジャンが追っていた紅の灯がかき消すように消えてしまったのだ。そして、

「おいっ、駄目だ。眠っては!」


 伐折羅の黒い鳥までが、うつらうつらと揺れながら失速しだしたではないか。


 歌っているのはBWか! やつはこの歌で、黒馬島でも暴走するうみ鬼灯ほおずきを眠らせていてくれた。でも、この鳥までまきこむなんて……


 BW、なぜ、こんなにも心を乱しているんだ?


ついには羽ばたくこともできなくなった黒い鳥とともにジャンは、暗い海の中へ落ちていった。


*  *


 漆黒の海の中を土の香だけをたよりに泳いで、とりあえず、たどり着いた小島の海岸に這い上がる。

 土のある場所とは勝手が違う。海の中では、持ち前の力も役にはたたず、ジャンはへとへとに疲れ果ててしまった。

 おまけに怖いほどの静寂が、不安をかきたてて仕方ない。


  何も聞こえない。小波の音さえもBWの歌に深く眠らされてしまったのだろうか。

 そのBWの歌でさえも、今は聞こえては来ない。


 嫌な感じ……すごく嫌な……


 ジャンは、小さく息を吐くと、両手に包み込むように持っていた小さな黒い鳥に目をやった。


「大丈夫か? やっぱり少しは休まないとな」


 海岸の少し先に、家の灯かりがぽつんと一つ見えていた。


「あの家に行ってみるか。せめて、濡れた服と羽くらいは乾かせるだろ」


*  *


「まあ、こんな時間に、こんな子供がずぶ濡れで、どうしたっていうの! 乗ってた船が沈みでもしたの」


 時計は午前4時を少しまわっていた。どう考えてみても、15~16歳の少年にしか見えないジャンが訪ねてくる時間ではない。

 玄関の扉を開いた初老の婦人はたいそう驚いて、すぐにジャンと黒い鳥を家の中に入れてくれた。


 こじんまりした家の中は、極々質素な内装で、暮らし向きはそれほど、良いようには思えなかった。けれども、部屋の中にはカモミールの花の香が、ほんのりと心地良く香っていたし、奥の部屋から出てきた主人らしい男性は、婦人と同じくらい優しい目をしていた。


「息子の服を貸してあげるから、まずは、着替えなさい。その後は熱いお茶? それとも、お腹が空いてる? そうだ、あなた、その鳥の羽をドライヤーで乾かしてあげて! ただし、温度は低めでそうっと。その子が焼け焦げてしまわないように」


 婦人から手渡されたタオルで体をふいてから、ジャンはほっとした気分で着替えの服に袖を通した。少し大きめのそれに、ふと気づいたように婦人に尋ねる。


「息子の服って、これ、勝手に借りていいの?」


 すると、ティーカップに熱いお湯を注ぎながら婦人が笑った。


「それはあの子たちが残していった服だから、遠慮しないで着ていいのよ」

「残していったって?」

「私たちには息子が2人いるんだけど、今はそれぞれ別の島で暮らしてて、こちらにはなかなか帰れないの。特に上の子はね、とても偉いのよ。目が見えないのに、グラン・パープル島で医者になる勉強をしているの」


 誇らしげに言う婦人の言葉に、ジャンは、思わず“えっ”と声をあげてしまった。


「ど、どうしたの?」

「も、もしかして、その息子って……、弓が上手い?」

「そう、その通りだけど……」


 目と目を見交わす婦人とジャン。


「ラピス・ラズリ! ここって、もしかして、ラピスの生家か?」

 

……てことは、この人たちは、ラピスの両親?

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