第35話 堕ちた女神
艶やかな長い黒髪、漆黒の瞳。黒衣のドレスの裾は夜に溶け込みその先が見えない。
「初めましてというには、たびたび世話になりすぎているな」
静かな夜のように人の心に落ち着きをあたえる美しさ。だが、瞳の奥には凛とした強い意思が感じてとれる。
ゴットフリーは、彼の横に現れた霧花の姿にわずかに目を細めた。
「どこかで……お前には、どこかで会ったことがあるような気がする……」
だが、霧花は寂しげに微笑んだ。
「きっと、サライ村でしょう。私はあの村のレストランで働いていましたから」
いや……違う。そうじゃない……。
だが、ゴットフリーがその思いを強くする前に、霧花がそれを遮ってしまった。
「アイアリス……リュカが成長する最終形態。それなのに、こんなにも簡単に女神の座を降りてしまうなんて……」
ゴットフリーは霧花の言葉に眉をひそめた。
「お前は、気付いていたのか。リュカがアイアリスの現し身であることに」
「きっと、アイアリスはジャンの力が暴走してしまうのを恐れたのでしょうね。ジャンは目覚めたばかりの頃は、夜叉王 ―
「それなのに、つい先程までここにいたアイアリス、あれは一体何者だ? 女神というより、邪神そのものではなかったか」
一瞬沈黙し、霧花は言った。
「後悔と哀しみ、そして戸惑い……500年前、レインボーヘブンを海に沈め、その地を七つの欠片に分けた時、その住民を海に逃がした時、そして……至福の島を襲撃した黒馬島の盗賊たちを海に沈めた時……女神アイアリスの心に沸き立ったその思いが、あまりにも苦しくて、彼女はそれから目を背けてしまった。そこを
「つけこまれた……それは……」
「そう、海の鬼灯……彼等の好物をあなたも知っているでしょう」
「恨みと後悔……その思いが満ち溢れた時、その者は海の鬼灯となり、すべてのものを破壊に導こうとする……」
馬鹿な! 奴らの恨みの心は女神アイアリスまでも陵駕するというのか!
「あなただって、リュカ……いいえ、アイアリスの誘惑にもう少しでのってしまうところだったじゃない。どんなに屈強にみえても心の隙間というものは、誰でも持ち合わせているものなのよ」
霧花は少し言葉に棘を含めて言ってみた。
「それとも、あれは“意図的”にそうしたのかしら?」
ゴットフリーは、苦い笑いを浮かべるが、そのことに関しては特に何も答えなかった。
霧花は言葉を続けた。
「海の鬼灯の恨みの心は、女神までも堕としめす。けれども、アイアリスの心は他の海の鬼灯たちとは、違う方向に向かっている。レインボーヘブンを破壊するのではなく、自分だけの……いえ、ゴットフリー、あなたと彼女だけの至福の島を築こうとしているのよ」
霧花の言葉にゴットフリーは、ただ俯いて沈黙する。
「何とかして、この流れをくい止めなければ……さもなくば、そう遠くない未来に私たちと、海の鬼灯、そしてアイアリスの三つ巴の戦いが起こってしまうわ」
急に黙り込み、背にした木にもたれたままの姿勢のゴットフリー。
「ゴットフリー……?」
どことなく様子がおかしい。その顔を覗きこむように肩に手をやり、霧花ははっと目を見開いた。
ひどい熱……それに、吐息に混じるこの黒い影は……
闇……闇の戦士が体の中に入り込んでしまっている。
戦士といっても、その姿は霧のように実体がない。だが、闇の戦士は破壊者だ。伐折羅の力が不安定なばかりに、その指揮下から離れてしまった戦士たちは、ただ、無差別に殺戮と破壊を繰り返す。例えそれが、ゴットフリーであろうとも。
どうしよう……どうしたらいいの?
激しく動揺し、霧花はおろおろとあたりを見渡した。
彼らの後ろの木の枝が跳ね上がって、緑の髪の男が飛び出してきたのは、ちょうど、その時だった。
「霧花、一体、何があったんです? 西の海岸からでも、この辺りの空気の歪みが一目でわかりましたよ」
霧花は、心の中でほっと息をついた。普段は、気まぐれな皮肉屋を装っているが、この男はゴットフリーに危険が迫れば、どこからともなく姿を見せる。
「
「闇の戦士……それって黒馬島のあの少年の?」
「そう。でも、伐折羅の制御からはずれてしまった闇の戦士が体に入りこんでしまっているの。このままだと、命が危ない!」
苦しげに呼吸を乱しだしたゴットフリー。気がかりな表情でその顔に目をやると、BWは何かを確信しているかのようにこう言った。
「ラピスだ。ラピスの所へ連れて行こう。私がゴットフリーを彼の所へ運びます!」
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