第42話 唸る大地
「あなたの傷は僕が閉じる。黒馬島はもうすぐ消える。だから、早く島を出る準備をして! 」
クロの手が胸の傷に伸びてきた時、ゴットフリーはそれをこばむように、左腕をあげた。
「止めろ! 俺はそんなことは頼んじゃいない」
「その傷じゃ、黒馬亭を出たところで命が尽きるよ。ちょっと、手荒になるけど、我慢して」
右手をゴットフリーに向けて差し上げ、手のひらを大きく広げる。いつもジャンがやる、見慣れた仕草だ。ゴットフリーは、クロの力に抗うように叫んだ。
「止めろっ、この傷を消すのは俺が許さんっ」
「あなたの命令は僕には届かない。僕は、ただの黒馬島。闇の王の配下でもなく、それに、レインボーへブンの欠片だとも、僕は認めていない」
その瞬間、ゴットフリーとクロのいた部屋が鉄色に輝いた。銀よりも重くのしかかるような鈍い光。
光に押されるように、ゴットフリーはソファの上に突っ伏した。体をクロの光が覆っている。痛みと共に徐々に消えてゆく深い傷。だが、ゴットフリーの心は傷が癒えるほどに沈み込んでいった。
「心配しないで、その傷は完全には消えない。その傷は闇の烙印。僕ら、地上の者には手が出せない。それに、伐折羅……夜叉王の強い思いが込められていて、僕の力では癒すこともできない。やっかいな傷をつけられたもんだ。この先、それはあなたを相当、痛い目にあわすかも知れないよ」
胸の傷を確かめながら、ゴットフリーは笑った。
「この傷は契約だ。伐折羅の居場所を作るための。それに、俺はこの傷をやっかいだとは思わない。伐折羅が夜叉王ならば、この傷には意味がある。それは、俺に不利な物であるはずがないんだ」
かすかな笑みを浮かべながら、クロの体が陽炎いだした
「本当にお別れの時が近づいてきた。急いでこの島を出て。 そうしなければ、あなた方を僕は海の果てへ連れていってしまうかもしれない」
クロの言葉にゴットフリーはソファから、飛び出すように身を起こした。ふらりと眩暈が体を襲う。だが、そのままドアに向かって歩を進める。
「お気をつけて。僕の力は流した血までは取り戻せない。この島を出たら、ちゃんと休養をとることです」
「世話になったと言っておこう。また、お前とは会うことになると思うが」
「ええ、いつか必ず」
振り返りもせず、部屋から出て行ったゴットフリーの後姿を見送りながら、クロは寂しげにつぶやいた。
レインボーへブンが消えた時から、僕の流浪は始まった。アイアリスの意思は、僕を一ヵ所に留まることを許してくれない。いつか、僕も帰れるだろうか……元のあの心地よい幸せな場所へ。
レインボーへブンの欠片、“黒馬島”として。
* *
押しても引いても、ゴットフリーのいる部屋の扉は開かない。額の汗をぬぐいもせずに、タルクは扉に体当たりをくらわしてみる。
「無駄だよ。クロちゃんの力で扉はロックされちまってる」
「だって、ジャン、あんな得体の知れない子をゴットフリーに近づけていいの」
悲愴な表情の
「クロちゃんのことを得体の知れない奴よばわりか。何だよ。天喜は黒馬島に住んでるくせに」
「だって、あの子が”黒馬島”だなんて……絶対に、信じられないわ!」
その時だった。タルクが開けるのに四苦八苦していた扉が、突然、開いたのだ。
「ジャン、タルクっ! 船へ戻れ。黒馬島が移動するぞ!」
「ゴットフリー、お前、傷は?」
「そんなことを気にする暇があったら、早く馬とリュカを連れて、ついて来いっ」
タルクは呆気にとられたように、ゴットフリーを見つめていたが、
「天喜、リュカを起こして来てくれ。俺は馬を引いてくる!」
半ば反射的にその言葉に従った。
* *
「ジャン、お前は俺と来い!」
黒馬亭の玄関にゴットフリーが出た瞬間、旋風が吹いた。そして、巨大な影が彼らの目の前に現れた。
激しく揺れ出した地面をもろともせず、それは、大地にどしりと四肢を据えている。
リュカを伴い、急ぎ足で駆けてきた天喜は、
「黒馬っ!? ……黒馬島のご神体の!」
真近に見る黒馬の姿に圧倒されたかのように立ち尽くした。だが、ゴットフリーとジャンは天喜を通り越し、黒馬の背に飛び乗った。
ジャンがゴットフリーの後で、天喜に手を振る。
「また、会える。それまで、元気で」
「待って、もう、少しだけ待って。きちんとお別れを言わせて!」
別れの時を悟った時、天喜の目にはとめどない涙が流れ出した。だが、ゴットフリーはそんな天喜に一瞥を送っただけで、馬を引いてきたタルクに、一言、こう言った。
「タルク、お前の役目だろ」
風のように走り出した黒馬を見送りながら、天喜はなおも泣き続けた。
「天喜……」
最後の最後まで、何で俺が天喜の世話をやかなきゃならんのだ。タルクは、大弱りで天喜の肩に手をおいた。
「もう、時間がないんだ。とにかく、待っていてくれ。俺は……俺たちは必ず、レインボーへブンを見つける。そして、お前と伐折羅を迎えにくるからな!」
振り向いた天喜の目に、人の良さそうなタルクの真剣な顔が飛び込んできた。いつも天喜はその顔にほっと、心が和らぐのだ。
「ありがとう。信じているから……私はあなたを信じてる!」
突然、正面から天喜に抱きつかれて、タルクは目を白黒させた。けれども、揺れはますます、激しくなってくる。タルクは、天喜をそっと体から引き離すと、その頭をくしゃくしゃとなぜて言った。
「心配しなくても、大丈夫だ。それまで、体を壊すなよ」
そして、リュカを抱えるように馬の前に乗せると、タルクも馬に飛び乗った。急がなければ。ゴットフリーの黒馬はとうに先へ進んでいる。
「さようなら。あなたたちも、気をつけて!」
背後に小さくなってゆく天喜の姿に、後ろ髪を引かれる思いがしてならない。黒馬亭から借りた馬は、今度はサラブレッド級に速く走ってくれている。
「有難い。今は、あの“夜風”とかが力を貸していてくれるみたいだ」
すると、ぽつりとタルクの膝先でリュカが言った。
「ねえ、タルク?」
激しい揺れの中を矢のように走る馬を操るのに、四苦八苦のタルクにリュカは涼しげに言う。
「あのまま、天喜をさらって連れてくれば良かったのに」
「……お前な、この非常時に……」
くすくす笑う、リュカを無視して、タルクは馬を飛ばし続けた。
俺だって、そう、したかったよ!
だが、黒馬島が不気味なうなり声をあげ出した時、そのことはタルクの心の奥深くにしまい込まれてしまった。
急げ! 黒馬島が消えてしまう前に、この島を早く出るんだ!
* *
「ジャン、タルクは、まだか! もたもたしてると、本当に海の果てに連れてゆかれてしまうぞ」
「無理だよ。この黒馬に追いつくのは、待って……」
疾風のように駆けてゆく黒馬。ゴットフリーの背中にしがみつきながら、ジャンは後方を指差した。
「あれは……タルクたちだ。早くっ。船はもうすぐだ」
だが、今までになかった大きな揺れが黒馬島を襲ってきた。叫び声のような轟音が黒い大地を震わせる。すると、船の泊めてあった岸壁が二つに裂けたのだ。
「ああっ、船の上の岸壁が崩れるぞっ!」
大音響とともに崩落する岸壁。
万事崩落する岸壁を眺めながら、唇をかみしめた。
「俺たちの船が……」
やっと黒馬に追いついたタルクも呆然とその様を見つめるだけだった。
黒馬島を覆っている靄が一層濃さを増してゆく。
その時だった。固唾を飲むように押し黙っていたジャンが叫んだ。
「船だ! 僕たちの船がこちらへやって来る!」
「何っ」
崩落した岸壁の向こうから、一隻の帆船が近づいてくる。“信じられない”という言葉はもう、タルクの口からは飛び出してはこなかった。
「
急げと言う誰かれなしの言葉と共に、ゴットフリー、ジャン、そしてリュカをかかえたタルクは海岸へ全力で疾走した。
黒い大地が揺れている。叫ぶように軋みながら。
「クロちゃん、もう少し堪えてくれ。僕らが船に乗り込むまで!」
ジャンの声に答えるかのように、黒馬島が唸りをあげた。
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