第39話 黒馬亭へ


 体が鮮血の色に染まってゆく。強く感じていた痛みが、徐々に薄れ出す。朦朧とした意識の中で、ゴットフリーは、自分の胸元にできてゆく血だまりを、傍観者のように見つめていた。


“俺はここで死ぬわけにはゆかない。けれども、この血の海に少しの不快感も感じない……”


 だが、

 血だまりの表面がぶくびくと泡立ちだしたのだ。ゴットフリーは、口元にかすかな笑いを浮かべた。


 “紅の花……俺の血の中にもその種を植えつけるか”


 ゴットフリーが流した血の上に、紅蓮の花が咲いていた。一つ、また一つと血の中に沸き上がった泡が弾けて消えるごとに、それは紅の花を生み出していった。

 おぞましくも美しい紅蓮の花。光を放ちだし、その光はゴットフリーの頭の先で集結し、形を作り始めた。


“……また、会ったな……あきらめの悪い奴だ……”


 ― 炎馬、闇への使者 ―


 燃え立つたてがみをなびかせた巨大な炎の馬。怒号のごとく響いてきた海鳴りの音をかき消すように、それは大きく空に向かっていなないた。

 

 俺が死ぬのを待っているのか。

 伐折羅ばさらへの恨みとレインボーへブンへたどりつけぬ後悔が、俺の中に溢れた瞬間、その背に俺を乗せるために。


 炎馬は勝ち誇ったように、ゴットフリーの前に立ちはだかっている。


「……おあいにく様だったな……。俺は伐折羅を恨んでないかいない……レインボーへブンが見つからなくても、そう困ったわけでもないんだ」


 皮肉っぽい笑いで見上げられたことに腹をたてたのか、炎馬は突然、ゴットフリーの頭の上に高く前足を振り上げた。


「待て! 俺の命令を聞け!」


 出せる力を全部ふりしぼり、痛みを堪えて体を起こすと、ゴットフリーは炎馬のたてがみに手をかけた。

 伐折羅に刺された傷から流れる血が、足元まで伝わってくる。すると、炎馬は急に鳴りを潜めたかのように大人しくなり、燃え立つ炎の強さを弱めて、ゴットフリーをその背に受け入れた。


「間違えるな、お前が俺を連れて行くのは、黒馬亭だ」


 抵抗するように、炎馬は二・三度嘶いた。


「命令に背くのは許さない。俺はお前たちにとっての王なのだろう。お前たちが支配するんじゃない、。闇の王に……お前たちは逆らえない!」


 ゴットフリーは有無を言わさず、炎馬の腹を思い切り蹴った。

ふわりと体が持ち上がる感触があった。頬を風がかすめていった。遠くから聞こえてくる海鳴りの音が徐々に小さくなってゆく。

 かすかな胸の痛みさえも感じられなくなった時、馬上のゴットフリーの意識は遠のいていった。


 “黒馬亭へ”


 その言葉を残しながら。


*  *


 黒馬亭の掛け時計が正午を打ち鳴らした頃、タルクは重い瞼を開いた。

床でそのまま寝入ってしまったらしい。どの部屋もしんと静まりかえっているところを見ると、目覚めているのはタルクだけのようだった。


 昨日の火事騒ぎでみんな、眠ったのは明け方過ぎだったもんな。もう少し寝かせてやろう。

そう思った瞬間、タルクは、はっと窓辺のソファに目をやった。


ゴットフリーがいない?!


 確かに彼は、ソファで疲れきって眠り込んでいたのだ。いったいどこへ行ったんだ? 不安が心に広がってゆく。この黒馬島はゴットフリーにとって鬼門の島だ。彼を一人にさせちゃいけない。

 その時だった。タルクはぎくりと耳をすませた。

 馬のいななく声がする。そして、小さく扉をたたく音。


 “誰だ…… この嫌な感じは何だ……”


 その思考が終わらないうちに、タルクは扉に駆け寄っていた。扉を引きちぎらんかのように開け放つ。

 紅蓮に燃える炎馬の瞳がすぐ目の前にあった。そして、鮮血に染まった体が崩れ落ちてきた時、タルクは背筋が凍る思いがした。


「ゴットフリー!」


 炎馬……お前、よくも!!


 形振りかまわず、ゴットフリーの体を抱き上げると、鬼のような形相で炎馬を睨めつける。

 だが、炎馬には戦意の欠片もありはしない。ゴットフリーをタルクに渡すと、お役御免と言わんばかりに、空へ飛び立っていった。


*  *


「おいっ、ゴットフリー、しっかりしろっ」


 呼びかけても返事はない。ゴットフリーの右肩の下から胸にかけての深い刺し傷から、おびただしく血が流れ出ている。


 誰にやられた? この傷は炎馬がつけた傷じゃない。


「……!」


 その時、タルクは息を呑むように立ち尽くしている天喜あまきに気がついた。


「天喜、できるだけ沢山、タオルやシーツをもってこいっ。それと救急箱。この出血だけでも、止めないと、まずいことになるっ」


「……ど、どうしたの……何でこんな怪我を……」

「いいから、早くもってこいっ。ゴットフリーを死なせたいのかっ」


 畜生、この島には医者がいないって言ってたな……


 あたふたと、2階へ駆けて行った天喜を尻目に、タルクはゴットフリーを窓辺のソファへ運んでいった。


 幸い急所ははずしている。しかし、ここへ来までどのくらいの血を流した? それになぜ、炎馬が黒馬亭に彼を運んできたんだ。


「タルク、これっ!」


 天喜が手渡したシーツを裂き、傷口近くを強く縛る。戦いの場で応急処置には手馴れているが、傷の深さにタルクの額からは、とめどなく汗が流れ出た。


「リュカとサームは、どうした?」

「サームはいないわ。リュカはいくら呼んでも、目を覚ましてくれないの!」


サームの奴、逃げやがったな……リュカは……予想がつかん。


「ジャンは、まだ、あの岩柱の上か? 天喜、ジャンを呼んできてくれっ。奴なら、この傷でも何とかしてくれる」


 その時だった。


「ゴットフリーはいるかっ」


 思い切り大きく開かれた黒馬亭の扉。


「ジャン、良かった。早くここへ来てくれ。ゴットフリーが大変なんだっ」


 ぐったりと、ソファに横たえたゴットフリーの姿を見て、ジャンは顔色を蒼くした。


「悪い予感がして急いで帰ってきたんだ」


さっき感じた嫌な感じは……これだったのか。


「タルク、どいてっ、傷口をふさぐから」


 ジャンはそう言うと、ゴットフリーの血だらけの胸に手を当てた。だが、手のひらがほのかに蒼く輝き出したとき、


「や……めろ」


 ゴットフリーの左手がジャンの手を止めた。


「何をいうんだ。このまま、血を流し続けたら、お前、死んでしまうぞ」


「お前は……力を使いすぎる。そんな物を使わなくても……人には治癒能力っていうものが備わっているんだ」


「何を悠長なことを言ってる! お前の傷はそんな擦り傷程度の物じゃないって、わかってないのか!」


「……手をだすな……俺の命令にお前は……逆らえないはずだ」


「ゴットフリー!」


「大きな声を出さないでくれ……傷に響くんだ。もう、あっちへ行け」


 ゴットフリーはそう言って、ジャンを制止してから目を閉じた。

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