第37話 悪い予感


 “放っておけ”


 ゴットフリーの一言で、タルクはジャンを彼が作った岩柱の上に残さざるをえなくなった。


 隊長という役職や敬語などへのこだわりは、もう、あまり感じなくはなっていたが、タルクにとってゴットフリーは、やはりあるじであることにかわりはなかった。

 黒馬亭のまわりには民家はほとんどない。それが幸いしてか、黒馬亭は海の鬼灯からの業火を免れ、元のままのたたずまいを保っていた。


伐折羅ばさらがいないわ」


 何となくそんな気がしていたのよと……天喜はしょんぼりと首をうなだれる。黒い鳥に乗って去っていった伐折羅の後姿が忘れられない。もう二度と伐折羅と会えなくなるかもと……そんな予感があったのだ。


 黒馬亭で天喜たちを出迎えたのは、先にもどっていたサームとリュカだった。

 タルクがリュカに聞く。


「ザールはどうした?」

「焼け残った屋敷の部屋で寝こんでる。紅の花園での出来ことがよっぽど、ショックだったみたい」


 そりゃそうだろうと、タルクは思った。魔王になりかけたゴットフリーも然り、首のない白妖馬はくようばを見た時など、豪胆なタルクでさえも背筋が寒くなった。


 心配ばかりが心を占めていたが、天喜はあえて明るく笑った。


「とにかく、みんな、疲れたでしょう。お茶をいれるわ。伐折羅だって、そのうち帰ってくるでしょうから」


 そうだなと、相槌を打ちかけて、タルクはおやといった顔をする。


「彼の分はいらないみたいだ。泥のように眠り込んでいる」


 窓辺のソファに沈みこむように、寝息をたてていいるゴットフリー。


「色々なことがありすぎたからな。俺もなんだか眠くなってきた。一息ついたら、みんなも寝た方がいいぞ」


「とりあえず毛布だけでもかけておかないと風邪をひくわ」


 あの炎馬を一人で相手にしてきたんだもの、くたくたに疲れているんだわと、天喜はゴットフリーのことが不憫ふびんに思えてきた。毛布をそっと体にかけながら、彼の横顔を見つめる。

 初めて見たゴットフリーの無防備な表情に、どきりと勝手に心臓が高鳴った。それを周りに知られまいと、平静を装うのに天喜はえらく苦労をした。


*  *


 黒馬島の朝は、静まりかえっていた。

 鳥のさえずりさえも聞こえてこない。ただ、小波の音だけが疲れきった島に響きわたり、子守唄となって黒馬島を癒していた。


― ジャン、大丈夫? 少しは落ち着いた? ―


 優しく頬を撫でてくる風にジャンは、目をこすりながら笑みを浮かべた。


「霧花か? うん。泣くだけ泣いたら、ずい分、すっきりしたみたい」


 ゴットフリーの心が流れ込んできて、涙が止まらなくなってしまった。でも、今はずいぶんと落ち着いて、静かな時間の流れを感じる。奴も疲れて眠ってしまったのかもしれない。


「あいつは意地っ張りだからな。でも、僕が泣きたくなったのは、あいつのせいばかりじゃない……」


 ― えっ ―


「もう一つ、とても強い悲しみが僕の心に流れてきて、それがゴットフリーの心と一緒になって、いてもたってもいられなくなってしまったんだ」


 あれは誰の心だったんだろう? 胸を裂かれそうな切ない思い。


 自分が作り出した岩柱から見下ろした黒馬島の一角は、哀れに焼け焦げて惨めな姿をさらけ出していた。だが、朝日に照らされた黒い大地では、緑の牧草や無事に残った家々の屋根が、再び生気を取り戻したかのように明るく輝いていた。


「僕たちは、そろそろこの島を出なくてはいけないな。黒馬島には、まだ知りたいことが山ほどあるが、レインボーへブンを探す旅をいつまでも、中断しておくわけにはゆかない」


“ジャン……あなたが感じたもう一つの心って……”


「さっき言ったこと? ……もういいんだ。だって、焼け落ちた町や、海の鬼灯に化身したガルフ島の人々、本当に沢山の悲しみが、この島を覆っていた。あれは、きっと、そういう人々の気持ちだったと思うから」


 ジャンの体を蒼い光が覆いだした。


「この岩柱をきちんと元にもどしておかないと……黒馬島が怒るんだろうな。けど、天の道は、かけた力が大きすぎて修復不可能なんだけどね」


  気まずそうに肩をすくめる。すると、ジャンが乗っていた岩柱は静かに地面に吸い込まれていった。


― ジャン、あなたが感じたもう一つの悲しみは、きっと、伐折羅の心。誰にも触れられない者ならば、諦めることもできるでしょう。でも、あなたとゴットフリーのその繋がりが、あの子を苦しくさせているのかもしれない。伐折羅……悪い予感がする。私の思い過ごしならばいいのだけれど…… ―


 霧花は、ほのかに感じる悪い予感をぬぐいされないでいた。


*  *


 “俺はあんな風に泣いたりしない……”


 ソファで寝入りながら、ゴットフリーはジャンの姿を夢の中で思いおこしていた。まるで小さな子供のようなジャンの姿が、自分の子供時代と重なった。

 子供の頃から泣けない立場にいた自分。それでも、堪らなく悲しくなってベッドの中ですすり泣いた時がある。孤独だった。とっくに忘れていた苦々しい記憶が蘇ってくる。


 水蓮すいれん……


 今、思ってみれば、彼女だけが子供時代の俺を癒してくれた。だが、レインボーヘブンへの啓示と剣を委ねて、あの女はどこへ消えてしまったのか。

 夢が薄れ出した時、ゴットフリーが寝ていたソファ上で、窓をたたく音がした。彼ははっと目を覚ました。


「ゴットフリー……」

「伐折羅!」


 窓越しに見えた漆黒の瞳。ゴットフリーは、ソファの上に身を乗り出すように窓を開けた。


「無事だったんだな。そんな所にいないで中に入って来い」


 だが、伐折羅は首を横に振る。


「僕はもう黒馬亭には戻らない。でも、ここを出る前に、あなたと話がしたくて……ちょっとでいいから、外に来てくれる? みんなに気付かれないように」


 タルクは窓とは反対側の床で布団に包まって大いびきをたてている。天喜たちも自分の部屋で寝入っているのだろう。わかったと、ゴットフリーは立ちあがった。


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