第35話 悪夢の後

 巨大な鳥の上から下へ下へと落ちてゆく。


 伐折羅ばさらは、ただ、悲しかった。どうあがいても届かない思いに、心を砕かれていた。


 手を伸ばせば、触れられる場所にいたのに……どんなに近づいたとしても、ゴットフリーを自分の元に留めて多くことはできなかった。


 このまま、どんどん落ちていってしまえと、伐折羅は目を閉じた。

 地面にたたきつけられて、死んでしまってもかまわない。黒馬島の黒い大地に深くめりこんで、そのまま眠ってしまいたい。

 だが、朝日が昇りきる前に、伐折羅を支えた者がいたのだ。ふわりとした感触に包みこまれた時、伐折羅の体は宙に浮かんでいた。


「誰だ? どうして僕を助ける!」


“動かないで。夜が明けきってしまったら、私はあなたを支えることができなくなる”


「誰だか知らないけど、助けてもらう筋合いなんてない。放っておいてくれ!」


“……私もあなたと同じ。あなたの思いが、私には解る”


「闇の住民……?」


“私は、”夜の風”……レインボーヘブンの欠片の一つ。どんなに焦れても叶わぬ思い……それは闇の住民の宿命。でも、ゴットフリーはあなたが死んだら、きっと嘆き悲しむでしょう。いつか彼には、あなたの力が必要になる。ジャンが光の中からゴットフリーをささえるいしずえならば、伐折羅、あなたは闇の側から彼を助ける夜叉王なのよ。だから、お願い。強い心を持って。自分のことを決してあきらめないで”


 伐折羅の体が、黒馬島の上に降り立った時、夜の風の気配は掻き消されたようにいなくなっていた。

 天喜の白い鳥が朝日の中を飛んでゆく。伐折羅は、ほろ苦い思いで、遠ざかってゆく白い鳥を目で追った。

 久々に見る朝日は眩しすぎた。静かな湖底の漆黒の瞳、そこから溢れ出す涙を彼は止めることができなかった。


*  *


 焼け焦げた町にも希望は残った。町の中心は燃え尽きたものの、他の地域への飛び火は免れた。

 町の人々も、昇る朝日に励まされるように町の修復に動き出した。


「俺は、人間というものは強いものだと、つくづく思ったよ」


 ジャンの服の砂をはたきながら、タルクは言った。

 絶大な指導力を発揮して町の人々をまとめあげた後、タルクは町外れに倒れていたジャンを見つけたのだ。


「ガルフ島の時だって、みんなそうだったじゃないか。希望さえ失わなければ、人はどんな状況だって立ち上がれるということだよ」


 派手に倒れていたわりには、今はけろりとした顔で笑っている。特に怪我もしていない様子のジャンを見て、タルクはほっと安堵の表情を浮かべた。


「……で、ゴットフリー隊長……いや、ゴットフリーは無事なのか。あの紅い灯が消えうせたということは、あいつはうみ鬼灯ほおずきに勝ったんだな?」


 ジャンは少し首をかしげてみせる。


「うーん、勝ったというより、導いた……という感じかなあ」

「言ってることがよくわからんぞ。とにかく、無事なんだな。ゴットフリーに、俺はまた会えるんだな」


「会えるよ。ほら、もうそこに来ている」


 ジャンが指差した空の方向に目をやり、タルクは苦笑した。


「ワンダーランドの最後の動物か。あれは……」


 白い天女が地上に降臨するかのようにゆるやかに……巨大な白い鳥が空から舞い降りてくる。

 朝日を後ろから受けた、その背には、ゴットフリーの姿があった。


「ゴットフリーっ!」


 我慢できず駆けよって、彼を大きな体に抱きしめる。タルクの突拍子もない行動にジャンでさえも目を丸くした。


「な、何だ? いきなり……やめろっ、息ができない」


 どう反応してよいか、解らぬ様子でゴットフリーは、されるがままになっている。


「あ……す、すみません。いや、すまない。あんまり嬉しくて、つい我を忘れてしまった」


 大慌てで手を離すと、タルクは気まずそうに笑った。ゴットフリーは、それにはぷいと知らぬふりを決めて、ジャンに言った。


「伐折羅が下に落ちたんだが、どこにも姿がないんだ」

「伐折羅が? ……ああ、だから、霧花きりかがいなくなったのか。大丈夫。多分、霧花が伐折羅を助けてる」

「霧花……あの、夜の風か」

「お前、霧花に会ったんだな。そうか、”夜の風”……あれも、レインボーヘブンの欠片の一つだ」


 そして……お前が探していた水蓮すいれんは、彼女だったんだ……。


 その時だった。


「ジャン、タルクっ……」

天喜あまき!」


 海岸の方向から、駆けてくる少女。


「良かった。無事だったんだな」


 タルクは、先程のこともあってか、多少控えめに天喜を迎えた。天喜は焦った様子でジャンに聞く。


「伐折羅は? それに黒馬亭は……大丈夫なの?」

「黒馬亭は無事だ。伐折羅も大丈夫だよ。黒馬亭で待っていてくれと言っていた」


 天喜を心配させるなと、ジャンからそっと目配せを送られて、タルクは敢えて言葉を挟むことはしなかった。


「なら、早く、黒馬亭に帰らなきゃ!」


 二人を急かせながら、天喜は戸惑い気味にゴットフリーの方へ目を向けた。


「あなたも一緒に。無事で良かった……本当に良かった」



*  *


 黒馬島の朝はやけに静かだった。海から響く小波の音だけが聞こえている。

 悪夢のような夜の喧騒に、人々も疲れきって、眠りにおちてしまったのだろうか。 黒馬亭への道すがら、天喜は昨日、海岸で会った不思議な男の話を語りだした。


「緑の髪の男……それはBWブルーウォーターだ。天喜はBWに会ったんだな」


「ジャンはあの人を知っているの? BWは自分はレインボーヘブンの欠片 ”紺碧の海” だといって消えてしまった。とても不思議な人。でも、あの人なのよ。黒馬島の炎を消してくれたのは」


「うん、それは、僕らにもすぐにわかったよ。タルク、お前、あの時、降った雨が塩辛いって言ってたもんな」


 ジャンに視線を送られても、タルクにはどう答えていいか、わからない。あの青二才がレインボーヘブンの欠片? 紺碧の海? どう考えてみても、それはタルクの理解の範疇はんちゅうを超えてしまっていた。


 ジャンたちから数歩離れて、先頭を歩いていたゴットフリーが小声でつぶやく。


「BW……ガルフ島を飲みこんで、海に消えたかと思っていたが……」


 だが、その声は後ろには聞こえず、天喜とジャンは話を続けていた。


「レインボーヘブンの欠片……あの人、BWは、こんなことも言っていたの。私の母さんは……レインボーヘブンの欠片”空” だと。そして、私と伐折羅はその血を二つに分けて受け継いでいると……」


「何だって? それ本当か。 奴がそんなことを?」


「母さんはいつも、空を見ていた。虹の彼方に至福の島があると言って。とても、信じられないことだけど、でも、もし、母さんがレインボーヘブンの欠片”空” なのだとしたら、それはどこへ行ってしまったの」


「……そうだったのか。天喜のお母さんは、紅の花園で麻薬花の中毒になって死んだとザールは言っていた。だから、死体を花園に埋めた時、ザールは本来の姿に戻った彼女を見たんだ。レインボーヘブンの”青い空”を」


 その言葉を聞いて、天喜は寂しげに笑った。それから、ふと空を見上げて、どこからか舞い降りてきた小さな白い鳥に、手を伸ばした。


 これは、”天喜の白い鳥”……母さんの化身の。


「多分、その鳥がレインボーヘブンの欠片……”空”だ」


 ゴットフリーは立ち止まると、天喜の方を振向いて言った。


「伐折羅の黒い鳥は、朝日をあびて白い鳥に姿を変えた。……”伐折羅の黒い鳥”と”天喜の白い鳥”。二羽の鳥を同時に見た者がいるか? 夜の時間と昼の時間、”レインボーヘブンの空”の血を夜と昼に分けて、お前たちが受け継いでいるのだとすれば、人間の体が滅びた時、お前たちの母親の心はその鳥に成り代わって、伐折羅と天喜を見守っていたんだ」


 天喜の肩に乗り、白い鳥がチチッとさえずった。


「本当にそうなの? あなたがお母さんなの?」


 天喜の問いに、白い鳥は答えない。鳥の言葉を代弁するように、ジャンが言った。


「その鳥に人間でいた頃の記憶は残っていないと思うよ。それでも、その鳥は伐折羅と天喜を守りたいんだ。お母さんの強い気持ちは本能となって、今も鳥の中で生きつづけてる」


 すると、神妙な顔をしたタルクが、しみじみと言った。


「母親っていうのは、いつも子供の幸せを願っているもんなんだな。たとえ、どんな形になったにせよだ。俺なんざ、さよならもろくすっぽに言わないで、家を出てきてしまって、ガルフ島が沈んだ後は、生きているのか死んでいるのか、わかりもしない。こんな話を聞くと、もう少し色々なことを気にかけてやったら良かったと、つくづく思うよ」


 そんなタルクたちの会話から遠ざかるように、ゴットフリーは、再び黒馬亭に向かって歩き出した。


 母親……俺にはそんな記憶はありはしない。だが、リリア……あの人には幸せになって欲しかった。海の鬼灯になってまで、この世に留まりたがったリリアの心。それを絶ち切ったのは、闇馬刀……あの人を一番守らなくてはならない、この俺の剣だったんだ。


 心が痛んだ。炎馬と戦った時に見たガルフ島の人々の顔、特にリリアの顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。


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