第20話 地獄の使者
ザールの奴……甘く見すぎていた!
蔵の中に閉じ込められたゴットフリーは、壁を這い登るように立ち上がると、無理矢理に心臓の鼓動を整えた。苦しくて倒れてしまった方が楽だったが、少しずつの呼吸なら、きつい花の香りにも何とか耐えられそうだった。そうしているうちに、徐々に意識がはっきりとしてきた。
声が……聞こえる。
声というより、それはむしろ
馬? ……これは、馬の声か。
急に悪寒を感じて、ゴットフリーは剣を身構えた。盗賊の剣でも
その瞬間、ゴットフリーは驚愕に身震いした。
二頭の白い馬……!
実際、壁が盛り上がったわけではなく、馬はもともと、この部屋に飼われていたらしい。だが、その体は異様に白く白壁に溶け込むように同化していたのだ。数多の修羅場を通り過ぎてきた……そのゴットフリーでさえ、驚きを隠せなかった理由は ―
”地獄からきた使者”
……その言葉しか、頭には浮かばない。
それほど、二頭の馬の姿は悪意と後悔に満ちていた。
白い胴体とは裏腹に、顔面からこぼれるように飛び出した瞳は、燃えあがる炎の色をしていた。激しい鼻息をあげながら、嘶いた鳴き声は天地を恨むかのようにきしんで聞こえた。そして、口元から、だらだらと垂らした長い唾液からも、あの花の香が漂ってくるのだ。
このおぞましい香りは、こいつらの吐息か……。
ゴットフリーは、片腕で口元を押さえ、もう一方の手で真一文字に剣を構える。一寸の隙をついて、二頭の馬は襲いかかってくるに違いない。緊張感が白い部屋の時間を止めた。
灰色の瞳が、二頭の馬を見据えている。どちらが先に動いてくる? 右か左か……ぎらりと睨みつけ、視線が赤い瞳と交錯した時、
血の涙を流しているのか……
馬たちの赤い涙に、ゴットフリーは一瞬、息を呑んだ。
― 見ないでくれ……あさましいこの姿を
見ないでくれ……惨めに崩れてゆくこの体を ―
頭に入りこんできた二頭の馬の声に、気をそらした瞬間、
二頭の馬は大きく嘶き、彼に襲いかかってきた。
わずかに先に踏み出した右の馬。ゴットフリーはその方向に、渾身の力をこめて剣を振りぬく。
「つッ……!!」
だが、ぽきりと鈍い音と共に、その切先は宙を飛んだ。
ちっ、あの盗賊、安物の剣を使ってやがったな!
役に立たなくなった剣の柄を投げ捨て、踊りかかったきた馬の蹄を頭上ぎりぎりで、身を伏せてかわす。ひやりと冷たい汗をかき、ゴットフリーは馬と逆方向に床を転がりながら距離をとった。
呼吸するごとに、花の香りが心臓を圧迫してくる。ひどい眩暈を感じながら見た馬の体は、ゆらゆらと青白い炎に包まれていた。
恨んでいる……おぞましい奴らの姿を見てしまった、この俺を。
剣を失い、武器になりそうな物は一つも見当たらない。タルクのような巨漢ならば力まかせに戦うこともできただろうが、ゴットフリーが素手で二頭の馬を倒せる確率は無に等しかった。
ザールの奴、俺が殺られたら、頭の皮でもひっぺがす気なんだろう。ふざけるな! こんな所で死んでたまるか。
だが、どうすればいい?
花の香はますます、ゴットフリーを息苦しくさせた。
思考がおぼろげな時とやけに明確な時が交互にやってくる。目前の敵に集中しろ、気を散らすなと、二頭の馬を睨めつける。よく見てみれば、普通の馬より小ぶりでまだ成馬とはいえなかった。似た姿の二頭は決して離れようとはせず、寄り添うようにゴットフリーの出方を伺っている。
こいつら……ゴットフリーは無意識の内に言葉を発していた。
「兄弟か?」
すると、馬の荒々しい吐息が一瞬、止まった。
「兄弟なんだな。しかも仲の良い。なぜ、こんな部屋に閉じ込められた? その姿ゆえに幽閉されたか!」
すると、ゴットフリーの頭の中に、二頭の馬の叫び声が響いてきた。
― だれが、こんな姿にした!
平和な日々を過ごせるはずの、栗毛の兄弟は
紅の花園、あの花の香にまみれて
白妖馬と化したのだ ―
「
ゴットフリーは冷たくせせら笑う。こいつらもあの花園でおかしくなった輩か……心だけでなく、姿をも狂わされたか。
「つけこまれたな。疑うことのない平和など、どこにもありはしない。その妄想が崩れた時、お前たちは嘆いただろう? 恨んだだろう? そこに邪心が生まれたのだ。その妖のような体こそが、お前たちの望んだ姿。ならば、嘆くな! 意にかなわぬ者は始末しろ! お前たちの心は、そうしないことには癒されない」
ゴットフリーの言葉に白妖馬は、狂ったような雄叫びを上げながら高々と蹄を持ち上げた。怒りに身もだえた姿はまさに地獄の使者にふさわしかった。
そして、お前たちをそこまで
紅の花園……そのからくりに気づいた瞬間、ゴットフリーの中で何かが微妙にずれ出した。封印されていた心の別の部分が、滲み出すように彼を支配しはじめた。
世間の小さな恐怖など、取るに足りないではないか。この世は邪心にまみれている、それらを満足させるには、大きな癒しが必要なのだ、この世のすべてを破滅させるだけの殺戮、破壊、そして死……。
そう、この世を救う唯一の術は……破壊することだ。何もかも消してしまえ! そうすれば、万民は苦しみから開放される。
白妖馬に目をやってから、ゴットフリーは、残酷な笑いをもらした。灰色の瞳からは、胸をすくような眼光は消えうせていた。
「お前たちは俺が癒してやるよ。己の血を浴びて”地獄の厩舎”へゆくがいい!」
予感があった。何かが闇を蹴って駆けてくる。それはまぎれもなく、自分自身に属する物だ。
ゴットフリーは右の手を前方に差し出した。すると、手の中がにわかに明るく輝き出した。光の粒は黒鋼色に色を変えながら一本の剣に姿をかえてゆく。
―
黒い刀身は鏡のように輝き、切れ味は疑う余地もない。
求めれば、この剣は俺の所へやってくる。
無意識のうちに悟った理をゴットフリーは、当然のように受け入れた。
闇馬刀の光に触発されたか、二頭の白妖馬は、堰をきったように襲いかかってきた。ゴットフリーは大きく後ろに剣を引いた。
「うおおおおぉっ!!」
絶叫しながら、右の馬の首めがけて、剣を振り下ろす。
血の花が咲いた。ゴットフリーに斬り取られた白い馬の首が、ゆっくりと宙を舞ってゆく。
血の涙を流しながら……己の非業を嘆きながら。
そして、首をなくした白妖馬の胴体からは、おびただしい血の雨が吹き上がっていた。
白妖馬の血をあびながら、ゴットフリーはその場に立ち尽くしていた。ザールに騙されてこの部屋に入った時より、数十倍も強い花の香が血の雨から流れ出てくる。吸ってはならない。だが、否応無しにその臭気は体の中に入り込んでくる。
この花の香は人の心を狂わせる……。
ゴットフリーに意識といえるものは、ほとんど残っていなかった。どくどく、どくどくと響いてくる心臓の鼓動だけが、頭の中で鳴り響いていた。
ここは闇の世界か、何も見えない、考えることもできない……ゴットフリーの心は、闇に閉ざされようとしていた。その時、手に持った闇馬刀が薄い光を放ちだした。
光が見える……
ゴットフリーは闇の中に一筋の光を見た。だが、その光は次第に細くなり遠くの方へ消えてゆこうとしていた。遠くで片割れを失った白妖馬の悲痛な嘶きが響いている。
床に崩れ落ちながら、ゴットフリーは小さくつぶやいた。
「ジャン……お前、どこにいる……?」
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