第13話 夜叉王の名

 食事にはほとんど口をつけず、すするように飲んでみた食前酒は、やけに甘くてすぐに嫌になってしまった。何気なく遠くに目をやると、今、見たくもない虹の道標がぼんやりと目前に浮かび上がってくる。


 苛つく奴……あの古物商、夜に訪ねてこいなどと……何を企んでやがる……あの場所で殺してしまえばよかったか。


 けれども、心の奥底の“行きたい”気持ちを押さえられない。ゴットフリーは、そんな自分自身に苛立っていた。すると、不意にタルクの声がした。


「隊長、ちょっといいですか」

「……何だ? あっちの騒動はもう収まったのか」

「ああ、まあ、なんとか。それより、この子をまだ紹介していなかったんで……あの、伐折羅ばさらです。天喜の双子の弟の」


 ゴットフリーは、タルクの横に隠れるように立っている少年に目を向けた。漆黒の髪と瞳。だが、顔立ちは天喜とそっくりだ。

 伐折羅は、無言でゴットフリーを見つめている。


 タルクは、臆病な伐折羅が泣き出すのではないかと気が気でなかった。今日は普段より数倍も機嫌が悪い。そんな隊長の灰色の瞳に伐折羅が耐えれるはずがない。


「伐折羅……面白い名前をもっているな。それは、七億の夜叉をひきつれた、”夜叉王”の名だ」


「え……そうなんですか?」


 不意をつかれたように伐折羅はきょとんとしている。伐折羅の漆黒の瞳は、夜の湖底のように静寂としていた。だが、悲しいほどに澄み渡る瞳は、ゴットフリーから目線を離そうとしない。ゴットフリーは、幾分か声を和らげて言った。


「何だ? 俺の顔に何かついているか」

「あなたの瞳が……」

「俺の瞳?」


 タルクは、この時、伐折羅は100% 泣き出すものだと信じきっていた。隊長がどんな反応を見せようと、早めに伐折羅を奪取して天喜の元に連れて行こう。

 だが……


「あなたの瞳がとても綺麗だと思って」


 タルクのみか、伐折羅のこの答えはゴットフリーにとっても意外だった。千差万別、色々な表現をされてきたが、綺麗な瞳と言われたのは生まれてこの方、一度もなかった。


「俺の瞳が綺麗? くくっ、虫唾むしずの走ることを言う」

「でも、でも……本当にそう思うから」

「伐折羅、変わった奴だな……ここに座るか」


 ゴットフリーに隣の席を勧められて、伐折羅はうれしそうに微笑む。


「はい、喜んで」


*  *


 あいつ、えらくすんなりと、ゴットフリーの隣に座ったな。


 じきに泣きべそかいて戻ってくるかと思っていたが、伐折羅は予想外にうまくやっている。ジャンは少し拍子が抜けた気分になった。ジャンの隣にはむっつりと黙りこくってしまった天喜と、さきほどの喧嘩など、なかったかのようにスープをすするリュカがいた。


「なあ、天喜、いいかげんに機嫌を直せ。僕も少し言い過ぎたよ」

「……」

「ここで出会えたのも何かの縁だ。仲直りしよう」

「別にいいけど……」

「けど、何だ?」

「ジャン、あんたって、えらく年よりじみたことを言うのね」


 そう言った瞬間、天喜はころころと高い笑い声をあげた。そうしていると、普通に可愛い女の子なのだ。なぜ、無理をして大人びる必要があるのだろう。人間に関してはかなり、学んだつもりだったが、天喜の気持ちはジャンには到底理解できそうになかった。


「ジャン、仲直りついでに、伐折羅をこっちに連れてきてよ。あの男の隣にいるより、こっちの方がいいに決まってるでしょ」


 ゴットフリーたちのテーブルに目をやって、そうかな?とジャンはふと思う。なんだか伐折羅は楽しげだ。そういえば、自分はガルフ島を出てから、ゴットフリーとゆっくり話なんかしたことがなかった。


 ゴットフリー、伐折羅と何を話してる?


 ジャンはそれが気になって仕方なかった。


「わかった。行ってくる」


 ジャンが席を立ちあがった、その時、


「待って、あの黒い塊は何?!」


 天喜が叫びながら指差した、西の空の一角から黒い塊が近づいてくる。


蝙蝠こうもり……」


 リュカがぽつりと言った。遠目がきくジャンにもそれらは、はっきりと見えた。


「しかし、並みの数じゃないぞ。リュカ、天喜、早く逃げろ! 凄まじい数の蝙蝠がこちらへ向かって飛んでくる!」


 やがて、バサバサと繰返される羽音とともに近づいて来る黒い集団を目にして、辺りは騒然となった。


「蝙蝠!? 何でこんな場所に」

「西の山を見てみろ!こちらに向かってやってくる黒い塊は……全部蝙蝠だ!」


 逃げろ、逃げろとあちこちから悲鳴があがった。やがて、繁華街の上までやってきた蝙蝠たちは爪と牙を立てながら、黒いひょうが降り注ぐように急降下してきた。


「リュカ、天喜、テーブルの下に入ってろ!」


 ジャンは、二人を隠すとゴットフリーたちのいるテーブルに目をやった。だが、おびただしい数の蝙蝠が邪魔をしてさっぱり様子がわからない。


*  *


 一つ大きくため息をつくと、タルクは背中の長剣を手に取った。


「おいおい、珍獣ワンダーランドの次の出し物は蝙蝠かよ」

「珍獣ワンダーランド? この島のことか。だが、残念だったな。あれはだたの蝙蝠だ」


 ゴットフリーは、にやりと笑って立ち上がると、腰の剣を引き抜く。


「ただ、数が破壊的に多いだけだ!」


 その瞬間、黒い塊が一気に押し寄せて来た。

 その中の一匹はまっすぐに伐折羅めがけて飛んできた。


 恐さで体が硬直して動かない! 目を閉じたくても閉じれない。目前で蝙蝠の鋭い爪がにぶく光った時、


 “目をつぶされる!”


 伐折羅は、本能的にそう思った。だが、


「伐折羅っ、何を突っ立ってる!?」


 飛び散る鮮血が見えた。だが、それは伐折羅のものではない。この甘美な感覚……一瞬、心が宙を舞う。


「伐折羅っ!」


 頬を叩かれて、伐折羅ははっと我に返った。ゴットフリーが目の前にいた。彼の腕の裂傷から血がしたたっている。


「あ、僕をかばって蝙蝠に傷つけられたんだね」

「そんなことより、早くテーブルの下に入れっ!」


 伐折羅を下に押し込むと、ゴットフリーはテーブルの上に飛び乗った。邪魔だとばかりに食べ残しの料理を蹴散らす。

 伐折羅はテーブルの下から少しだけ顔を覗かせ、その様子に身震いした。恐怖のせいではなく激しい憧憬の思いで。


「ゴットフリー……、まるで鬼神だ……あの人は」


 ゴットフリーの剣が、光の帯となって空中を切り裂く。その一振りで、何匹もの蝙蝠が真っ二つになって落ちていく。

 剣が見えぬほどに、さばきが早い。その切れ味は鋭く、速さは目にも留まらない。ゴットフリーの剣に触れたことすら気づかないまま、蝙蝠たちは命を失っているのではないだろうか。

 一方、タルクもまた、背中から長剣を抜き出して戦闘態勢に入った。彼の剣は、ゴットフリーのものとは違って、爆発的な力を秘めていた。

 それはまるで、火山の噴火のように破壊的だった。悲鳴をあげる蝙蝠たちとは対照的に、タルクは、無表情で次々と剣を振るう。


 だが、タルクが巻き起こす爆風も、殺傷力にかけてはゴットフリーの剣には到底、敵わない。

 伐折羅は深いため息をついた。その時だった。


「あ、蝙蝠の目玉……」


 伐折羅の手元に、ゴットフリーに切られた蝙蝠の頭が転がってきたのだ。血に汚れるのもかまわず、伐折羅は手を伸ばして、それを握り締めた。


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