第6話 ゴットフリーの杞憂


「リリア、これは……?」

 島主であり、母であるリリア・フェルトの部屋の扉をあけた時、ゴットフリーは思わず顔をしかめた。


 その部屋は完璧な白さで保たれていた。鷹の地模様が入った白壁に大理石の床。白いテーブル、白い椅子。その椅子にリリアはぽつんと座ってゴットフリーを不安げに見据えていた。

 高齢のため小さく縮んでしまった背をまるめ、皺だらけの顔に落ち込んだ瞳は恐怖の色を帯びている。

 リリアは汚れを嫌った。汚れは邪気を呼び起こす。深くそう思いこんでいた。それゆえ、彼女の部屋は使用人により常に白く磨かれていた。それは責務なのだ……それを怠る者をリリアは容赦なく処分した。


 だが、その完璧に白いはずの大理石の床は……血で赤く染まっていた。羽根がちらばり、その中央には無残に引き裂かれたカナリアの骸が横たわっていた。


「リリア……」


 ゴットフリーは、彼女の傍に歩み寄るとそっとその手を開かせ、握りしめた小刀を取り上げた。その手も血で染まっていた。


うみ鬼灯ほおずきが……部屋にいたんじゃ……怪しい声で鳴きながら、ほら、あそこに赤い、赤い……でも、私が始末してやったから、もう大丈夫……」


 カナリアを海の鬼灯だと、思いこんだのか……カナリアが赤い? ……あの赤はリリアが切裂いた血の色だ……


 ゴットフリーは、寂しげな笑いを浮かべる。それから、母親の肩に手をおくと優しく言った。


「そう……あなたには私がついている。だから、何も心配入りません。あれは、すぐに片付けさせましょう。誰か呼んできますから、あなたはそこにいて……」


 ところが、リリアから目をそらし、部屋から出てゆこうとしたゴットフリーの足を、低くしわがれた声が引き止めた。


「私のカナリアは? カナリアはどこじゃ?」


 ゴットフリーは、感情のない顔でリリアに視線を移す。


「お前がくれた黄色いカナリア! あの歌声は美しい。あれを聞かぬと一日が始まらない……で、カナリアはどこへいった?」 


 もう、彼女には床にちらばった血もカナリアの骸も見えてはいないようだった。


「あの鳥は飛び立ってどこかへいってしまったようだ。でも、大丈夫です。また、私が別のを持ってきてあげますよ」


 ゴットフリーは、薄く笑うと白い部屋から出ていった。


 得体の知れない紅い灯、うみ鬼灯ほおずきが現われるまでは、リリアは少し頑固で厳しいだけの島主だった。学問にも長け、近隣の島主やガルフ島の住民たちの尊敬もそれなりに集めていた。そして、早くに夫を亡くしたリリアは、ゴットフリーを溺愛した。


 数日前、BWとかわした言葉……ゴットフリーの脳裏には、それがフラッシュバックのように浮かびあがってくる。


「もっと、住民に情報を与えるべきなんだ。短期間のうちにガルフ島の侵食と沈下は不自然な程、進んでしまっている」

「不自然というと、やはりあれのせいですか?」

「“うみ鬼灯ほおずき”か。あの得体の知れない紅い灯がガルフ島を侵す……か? 巷ではそのような噂もあるが、まるで根拠のない話だ」

「しかし、リリア様は“海の鬼灯”をひどく恐れている。あの灯に触れたくないが為にガルフ島は今や、鎖国状態ではないですか」


 BWは、棘をたっぷりと含ませた声音で言う。だが、ゴットフリーと目線を合わせた瞬間、強張った表情で口を閉ざした。ゴットフリーの灰色の瞳が冷たくBWを睨めつけている。


「BW、調子にのるのもいい加減しろよ。島主を愚弄する奴はたとえ、お前でも許さない」


 ひやりとした感触にBWは、一瞬、びくりと体をこわばらせた。


 “海の鬼灯”は確かにリリアの精神を侵している。


 ゴットフリーは敢えてそのことには触れずに言った。


「ガルフ全体が動きださねば、この土地を維持するのは難しい。その指導者にスカーは最適な人材だとは思わないか。奴ほど今のガルフ島の状態を把握している者は他にはいない。」


 BWは、眉をひそめる。


「しかし、スカーはサライ村の人間ですよ。まずはリリア様がお許しにならない。それに、信用という点ではどうですかね。……おまけに、あの派手な服装では人々がついてくるかどうかも疑わしい」


 BWの言葉にゴットフリーは微妙な笑いをもらして言った。


「服装といえば……お前」

「何です?」

「裸同然の姿で、海岸を歩いていると報告を受けているぞ」

「人聞きの悪い……単に泳いでいただけですよ」

「別に悪いとは言わないが、お前、一日に何度、海に行けば気がすむんだ」


 BWはつんとすまして答えた。


「さあ、数えたことはないですからね。まあ、そんなことはどうでもいいじゃないですか」


 少し険のこもった目つきでゴットフリーは、彼の参謀を見やる。


「あまり目立つ真似はするな。スカーといいお前といい、使えそうな奴は皆、得体が知れない所がある」


 特にBW……こいつとて、信用という点では、かなり疑わしい……

 

 その心の内を感じとったかのように、BWは笑う。


「話を元にもどしましょうよ。ガルフ島の指導者ですか? それはスカーというより、ゴットフリー、正にあなたの役目ではないのですか。指導力の面では、あなたに匹敵する者はこのガルフ島にはいない」


 ほんの一瞬、沈黙があった。


「あなたは、この島を出たいのではないですか」

「何を馬鹿なことを……」


 ゴットフリーは上目使いにBWを睨めつける。


 「レインボーヘブンでしょう。……あなたは、ガルフの第二の故郷を彼の地に求めている。あなたは、レインボーヘブンを探したいのだ。だが、そのためにはレインボーヘブンの七つの欠片とその住民、そして、ガルフ島を任せられる人材が必要だ。それがよりによって、あのスカーとはね」


「よくもそこまで口がまわるものだな。俺は一言だってそんなことは言ってはいないぞ。それにレインボーヘブンは伝説の島だ」


「そう、意外でしたね。あなたが伝説の島に興味を示すなんて。だが、あなたは確信をお持ちのようだ。その根拠はどこからきたのでしょう。あの本ですか」


 “アイアリス・レジェンド”……館の書庫に眠っていた“レインボーヘブンの伝説”


「あなたが行くというなら、私は喜んでお供しますよ」


 射るようなゴットフリーの眼差しを、BWは敢えて避けようとはしなかった。


 レインボーヘブン……五百年前に海に沈んだ至福の島。だが、俺はまだ見つけてはいない。レインボーヘブンへの真の道標を。


*  *


 白い回廊を歩きながら、ゴットフリーは深く息を吐く。その姿を見つけ、使用人の男がそそくさと駆け寄ってくる。


「ミカゲ、リリアの部屋を片付けろ。それと馬を用意しろ」

「こんな時間にお出かけですか」


 また、リリア様が何かやったのか。隊長が突然、出かける時は決まってそうだ……


 ミカゲと呼ばれた男は、落ち着かない素振りでゴットフリーを見やった。


「お出かけになるなら、せめてBWをお傍にお付けになった方が……、でも、あのお方は、今、部屋付きの侍女と……」


 うっかり口をすべらせて、あっと気まずい顔をしたミカゲを見やり、ゴットフリーはまたかと眉をひそめる。彼にこっぴどく振られた女たちの引き取り主はいつもあの男だ。ある意味では、有難くもあったのだが。今はそんなことより、一刻も早く、この館から出て行きたかった。


「余計な口を聞くな! お前はさっさとやるべきことをやれ」


 ゴットフリーに怒鳴られて、ミカゲは慌ててリリアの部屋に向かった。通り過ぎざま、ゴットフリーは言う。


「リリアを刺激するなよ……お前から決して声はかけるな。気をつけて行って来い……」


 泣きそうな表情をして、ミカゲはわかりましたと、小さくつぶやく。その後姿をゴットフリーは、無表情に見送る。


 回廊の天上まで届きそうなガラス窓の向こうには、夜の帳が広がっている。


 あの狂気を止める術はもうないのだろうか……


 ゴットフリーの灰色の瞳が夜の色に変わってゆく。その色は彼の心の奥底を映し出すように、暗く深く、ガルフ島の夜の中に落ち込んでゆくのだった。

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