第4話

目の前の座席に座っている人、両隣で吊り革を掴んでいる人は小さな金魚鉢のような狭い空間で何かしら行っている。


この時間の乗客らは、ただ黙って電車に揺られているわけではなかった。職場や学校に配送されるだけの荷物に成り下がってはいないようだ。


右隣の若い男性は宅地建物取引士と書かれた本を読んでいる。

座席に座っているサラリーマン風の太った男性は丁寧に折り畳まれた経済新聞を読んでいるし中年の女性は花柄のブックカバーをつけた文庫本を読んでいる。


普段、俺が乗車する時間帯では寝ている人ばかりだ。

名前を知らない顔馴染みは皆、座席に腰を下ろし腕を組んで眠っている。


途中から乗車する高校生が時折り揺れる車内でよろめきながら見開いた英語の参考書を赤い下敷きで隠したりする姿は度々見かけていたが時間帯が変われば同じ電車とは思えないほどの違いがそこに広がっていた。


車内で着信音が聴こえてきた。


作業服を着た男が手際よくスマホをポケットから取り上げて通話を始めた。

「あっ、もしもし高橋です。今は電車なんでまた折り返し電話しますんで、はい、すみません。」

この何気ない会話から俺はまたしても高橋を思い出してしまった。

最近は奴を思い出してしまう事が日増しに増えている。

気を紛らわそうと悪臭おばさんを見た。


今度は彼女と目が合うのを若干、期待した。

しかし、おばさんは空いた席に座り静かに居眠りをしていた。

もう先程のような衝撃はなく背景の一部とかしている。


悪臭おばさんでは高橋を頭から消し去る事が出来なかったので、俺は春の選抜高校野球の試合結果をスマホで調べた。


昨年の夏の大会を制した優勝校が順当に勝ち進んでいる。走攻守、全てにおいてハイレベルで選手層も厚く、もはや付け入る隙はない。


その中でも一際、メディアに注目されるエースピッチャーは9点を貰い1安打完封で相手打線をピシャリと抑えた。

三振の山を築きセカンドベースを踏ませない圧巻の投球だった。


エースピッチャーの持ち味は150キロを超える速球と落差のあるフォーク、100キロ前後のスローカーブを武器に緩急をつけた投球で相手打線を苦しめた。


この完封した怪物ピッチャーは俺と同じ苗字の佐山だ。

彼は一年生から背番号1を背負ったエースであり打線の主軸を担う4番打者でもある。2回の裏、佐山は打席でもその実力を余す事なく発揮した。


甘く入った高めのストレートをレフト線に引っ張り滞空時間の長いソロホームランを放っていた。

バッティングも見事で、もはや高校生のレベルではない。

プロ野球の各球団からドラフト1位で指名され沢山の契約金を貰い多くの注目を集めて活躍する選手になるだろう。


そう考えるのは当然のことだ、全て輝かしい結果が証明しているのだから。


俺はスマホを閉じて少し目を細めたーーーーーー


場面は9回裏、二死満塁。俺の高校は序盤にワイルドピッチで先制され、スクイズで2点を奪われてしまった。

逆転しようと必死だが、なかなかサウスポーのピッチャーを攻略出来ずスコアボードにはゼロが無惨にも横に並んでいた。

しかし俺達は諦めなかった。


相手ピッチャーの力投に、ここまで手こずったものの9回裏の土壇場でようやく打線が繋がり満塁になる。


3番打者があっけなく空振り三振した後、4番の俺はウグイス嬢にコールされネクストバッターズサークルからゆっくりと右打席に入る。

軽くバットを一振りしてショート付近を見たあとすぐピッチャーを見た。


相手ピッチャーは2点のリードがあるとはいえ満塁の大ピンチだ。熱投を続けてきたがここまで110球を投げており疲れもみえている。

どんなピッチャーであろうと、厳しい場面であるのは間違いない。

今がチャンスだ。

初球、インコースにスライダーを投じる。膝下に来た球に俺はバットを振らず見逃した。球審の判定はボール。


相手投手は大きく深呼吸をした後投じた2球目、今度はカーブがすっぽ抜けて高めに大きく外れる。

キャッチャーはピッチャーに返球したあと低めに投げるよう大袈裟に合図を送っている。


一球投げるごとに観客席から歓声が聞こえてくる。

こちらの応援のボルテージは上昇していく一方で相手高校は祈るような心境で試合の行方を見守っている。


3球目、セットポジションからアウトコース低めいっぱいにストレートが投じられる。

ストライクゾーンギリギリで微妙ではあったが球審の判定はストライク。

俺はこの球を見送った。

これは振っても詰まってボテボテの内野ゴロだろう。

迂闊に振ってアウトになればせっかくのチャンスが全て台無しになってしまう。

チームメイトがようやく相手投手を攻略して満塁、それもサヨナラ勝ちというビッグチャンスを作ってくれたのに、情けないバッティングは絶対に出来ない。


なんとしてでも、ランナーを生還させたい。


カウントはワンストライク、ツーボール。

バッターが有利なカウントだ。

もしスリーボールになればピッチャーの状況はますます厳しくなる。

その次の球もボールであれば俺はフォワボールで一塁に出塁となり満塁の為、押し出しとなる。

相手高校からすれば1点差、更に後続のバッターに打たれてしまえば同点、逆転サヨナラ負けを喫する可能性もある最悪なシナリオだ。


汗とドロにまみれたピッチャーがサインに2度、首を横に早く振った。

俺は相手ピッチャーが試合を決めにきていると分かっていた。この場面では外しにはこないだろうと。


次の球で勝敗は決まる。数十秒後の世界が狂おしい。気持ちが異常なまでに昂っている。


気温の高さなんてもはや気にもならない。

37度の蒸し暑い甲子園より試合に勝ちたいという強い気持ちが暑さを吹き飛ばしていた。

いや、勝ちたいという思いの他に今までの人生で味わうことのなかった重要な局面に立たされている。

甲子園の観客だけでなくテレビやラジオでも俺の一挙手一投足、全てが注目されている。

しかし、緊張して恐れている場合ではない。

俺は緊張にのまれまいと「来い」と大声で叫んだ。


もう次はない。


一回きりなんだ。


おもいっきり振るだけ。


おもいっきり振る事以外に他にどんな選択肢がある?



相手ピッチャーは口を半開きにしながらアンダーシャツで額の汗を拭った。

サインに頷き、ゆっくりセットポジションに入る。




絶対に打つーーーーーー。

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