第5話

俺の頭の中は逆転サヨナラの場面だったので集中していた。

ピッチャーが球をリリースした直後、電車はトンネルに入った。

その瞬間に逆転サヨナラ勝ちという劇的なシナリオで幕を閉じるのではなく、空振り三振をして甲子園で優勝出来なかったという敗北のシナリオもそれはそれで見所はあるのではないかと吊り革を掴む手を見ながら思った。

窓ガラスに反射した俺の顔は他人から見れば無表情に見えるだろうが俺には笑みがこぼれているのが分かる。


俺はワンストライク、ツーボールというカウントからフルスイングしたものの2度、空振りして三振した。

俺はその場で立ち尽くし涙を流した。

チャンスをものに出来ず、台無しにしてしまった俺の気持ちを全て察してくれた優しいチームメイトに抱えられながら俺達は整列する。

相手高校の校歌が始まる。

俺から三振を奪ったピッチャーの顔は見ないつもりでいたがそんな気持ちとは裏腹に俺の目は彼を見ていた。

彼は疲れがあるものの誇らしげな顔で校歌を歌っている。おそらく人生の中で1番、輝いている瞬間だろう。

彼の顔に陽が射して汗がキラキラ光る。甲子園に降り注ぐ真夏の光が勝利者をよりいっそう輝かせていた。

雲一つない青空が妙に清々しくて隠れていたかった。


時間を巻き戻すことも止めることもできない。

俺はチャンスに三振した。

もう全てが終わってしまったんだ。

残酷な時間。

こちらの感情などお構いなしに勝者を中心にスピーディーに事が運ばれて行く。


自分がいかに無力かを思い知らされる。

甲子園の土を持ち帰ろうとするチームメイトの寂しげな背番号を見つめながら俺は呆然と立ち尽くしていた。


ーーーーーガタンゴトン。


聴き慣れた騒音の中で、こんなシナリオもありだなと思うとクスッと笑ってしまった。

今回は誰の目から見ても笑っていると分かるだろう。


ドアが開き多くの乗客が降りて行くのを見てようやく俺は最寄り駅に着いた事に気づいた。

俺以外の乗客が降りたのでホームの先頭で待っていた七三分けのサラリーマンが車内に乗り込もうとしていた。

いきなり現れた俺に七三分けのサラリーマンが少し驚いた顔をしたので「すみません、降ります。」と謝りながら慌てて下車した。


ホームに設置してある時計を見上げると当然、いつもより遅れてはいるが急ぐ必要はなかった。

先程の夢敗れた高校球児の妄想はどうでもよくなって頭から消滅していたが、妄想のおかげで満員電車の中、高橋という最低な人間を一時的に忘れることができて苦痛が和らいだ。


改札口付近に近づくと「ひっくしょん」と甲高いクシャミを連発するお爺さんから距離を置きたくて早歩きで追い越し外に出る。


駅から通勤路周辺に桜はないが春のうららかな風は団扇で優しく煽いでもらったような心地よさだ。

木々は春の訪れを葉を揺らして喜んでいるように思えた。

朝より気温が上がりお天気お姉さんが伝えた通り春本番を肌で感じる。


駅周辺にはお洒落なカフェがある。

道路沿いのカフェには散歩の合間に寄った人やパソコンを使って作業をしている人がいる。

オープンテラスもありダックスフンドを連れた中年女性が春の日差しを浴びコーヒーを楽しんでいる。

俺もカフェに向かいテラス席でカフェ・オ・レを注文してのんびりしたい気分だった。

木目のテーブルに座り、道行く人々を眺めながらカフェ・オ・レを口にする。時間に意味はなく気分次第で1日を自由に過ごしていい。

しかし俺はカフェに入店しなかった。自分の本当の気持ちに蓋をした。

歩くたびに徐々にカフェから遠ざかっていく。

俺は大切なようで決して大切だとはいえない場所へ近づいている。

自らを傷付けるために愚かな選択をしている。

素直な子どもならどちらが楽しいか分かるはずだ。きっと正しい選択をするだろう。

俺はまたネガティヴになりつつあった。


この春の暖かく穏やかな天気とは正反対に俺の精神は天候が激しく移ろいやすくなっていた。

今の気分はくもりだ。まだ雨は降っていないが雨雲が来てどんよりしている。


あの精神科医が教えてくれた通り気を紛らわそうとアレコレ楽しい事を考える。

職場が近づいてきて建物が見えてくると、気を紛らわす事がなかなか思い通りにいかず、息が苦しくなり「わぁっ!」と声を出してしまった。

後ろを振り返ると数人ほど歩行者はいたが距離があったので俺の声は聞こえていないだろう。


しかし、すぐ横にホームレスの男性がいた。

まさか人がいるとは思わなかったので驚きのあまり身体を拗らせ、両腕は右斜め上、同じ方向にピンと伸ばしマヌケなポーズをしてしまった。

ホームレスの男性は三台ある自販機付近にキャリーバックを持って俯いたまま立ち尽くしていた。

彼には聞こえていたはずだ。しかし横顔に表情はない。疲れているのだろう。

いや疲れているのだろうが、もはや疲れた表情さえする気力がなく無表情なのかもしれない。

カフェにいる人々もホームレスも、そして俺も同じ街で同じ時の中で今を生きている。


誰が春の陽気を一番、満喫しているのだろうか?


歩道を歩いていると赤信号で停止しているトラックドライバーがしかめっ面をしていた。

俺はトラックを横切り勤務している会社へ向かう。

何にも感じていないわけではなかったが、これといって先ほどと同じように息が苦しくなるような心境ではなかった。


後ろからきたトラックはすぐ俺に追いつき少しの間だけ俺と並んだ。

顎に山羊のような髭を生やしたドライバーは、しかめっ面のまま溜息をついていた。

トラックは俺を追い抜いて行った。


トラックのリヤドアには私は安全運転を心がけています。と書かれておりドライバーのフルネームが記載されていたのもある。

俺は遠ざかって行くトラックをただボーッと見ていた。

歩いている俺との距離は、どんどん開いていき記載されている名前はあっという間に読めなくなった。

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