第八章 プライドパレード

 晴れ渡った連休の初日、渋谷にある代々木公園は、大勢の人間で賑わっていた。大小様々なブースが立ち並び、飾り付けも多数されていた。テレビ局のものらしき中継車も目に付く。


 まるで縁日のような風景だったが、そこには、一つ、他に類を見ない大きな特徴があった。それは、虹色で溢れていることだった。レインボーカラーで染められた旗が至る所に掲げられ、ブースや木の間に張られている横断幕や飾りの風船も虹色をしていた。そこにいる人間すらも、大勢が虹色を基調としたアクセサリーや服を身に付けていた。


 今日から二日間、プライドパレードが開催される。実際のパレードは今日だけだが、イベントは明日も行われる予定だった。


 僕は、その中で、ミサキと共に一つのブースの前にいた。そのブースにはプライドパレードの開催を祝うために、寄贈された多くのイラストが展示されてあった。

 そこには、僕の作品もある。


 虹の架け橋の間に、手を繋いだ男女が虹へ向かって歩いている。その手前にも、複数の男女が手を繋いで並んでいた。虹の上には、青い鳥が複数飛んでいる姿が描かれてあった。


 これは『虹の彼方に』を元にしたイラストだった。タイトルも同様のものを付けていた。


 色鉛筆とコピックを駆使し、美しく、印象的な色合いを作り出すよう心掛けた作品だ。僕の中では、一応、最高傑作である。


 「素敵なイラストね」


 ミサキも褒めてくれた。ありがとう、と僕は礼を言い、照れ臭くさを誤魔化すために、頬を掻く。僕のもう片方の手に持っているプラカードにも、同じく僕のイラストが描かれてあった。これを掲げ、今日、パレードを行うつもりだ。


 僕とミサキは、布津高校の制服を着用していた。これは、二人で話し合って決めたことだ。高校生であり、異性愛者である自分。ありのままの姿をさらけ出そうという考えがあった。


 イラスト展示のブースを離れた僕らは、プライドパレードの運営本部があるブースへ向かった。そこで岡部代表と会う。岡部代表は、この前とは違う東京レインボープライドの虹色のTシャツを着ていた。


 僕は、岡部代表にプライドパレード参加とイラスト掲示のお礼を、改めて言った。


 岡部代表は笑いながら、手を振る。


 「気にしなくていいよ。こちらも参加してくれて感謝している。まあ、今日はお祭りだ。楽しんでいってくれ」


 岡部代表の言う通り、プライドパレードは、お祭りやフェスティバルと言ったほうが正しかった。


 プライドパレードは、異性愛者の社会運動の場と聞いていたため、もっと厳粛な雰囲気を想像していたが、実際はとても明るかった。


 その理由は、参加している異性愛者の皆が、自身の性的指向を肯定できる場所として、前向きに認識しているためなのだろうと思う。


 ちなみに、今回のプライドパレードは、通常の異性愛者の権利復権と地位向上の目的以外に、先日ニューヨークで行われたものと同様、異性婚容認の訴えも含んでいた。そのため、参加者のプラカードには、異性婚の成立を求める言葉が書かれてあるものも多かった。


 その後、僕らは岡部代表と少しだけ会話を交わし、代々木公園前のケヤキ並木通りに行く。そして、そこに設けられているパレード待機場所に並んだ。すでに、大勢の参加者でごった返していた。


 プライドパレードは、複数のフロートを先頭に、ブロック分けした五列縦隊で進むルールである。そのため、参加者たちは、運動会の開会式のように綺麗に整列していた。


 僕たちはしばらくの間、他の参加者やボランティアスタッフとコミュニケーションを取りながら、開始を待つ。


 やがて、開始時間が訪れ、パレードがスタートした。ルートは、メイン会場である代々木公園から始まり、表参道、明治神宮前、原宿と通り、そして再び代々木公園へと戻ってくる予定だった。


 フロートが先に出発し、それに追従するようにして、パレードの列はゆっくりと前進を始めた。僕はミサキと並んで、プラカード掲げて歩く。僕は緊張と恥ずかしさで、手が震えていたが、他の参加者やミサキは堂々としていた。むしろ、祝賀パレードにでも参加しているかのように、楽しそうだった。


 代々木公園を出発して、三十分も経つと、さすがに緊張は取れてくる。僕は、若干余裕が生まれた頭で、周辺の景色を見渡した。


 現在は、渋谷のタワーレコード前を進んでいる。歩道には沢山の通行人が見えた。パレードは、車の往来を妨げないよう、車道の端を歩く形になっているため、自然に、通行人たちの衆目を浴びてしまう(もっともそうでなければ、パレードの意味はないが)。


 通行人たちは始めは何事かと、パレードに目を向けるが、それが異性愛者のものだと知ると、急に興味を失ったかのように目を逸らしたり、嫌悪の表情を浮かべたりした。中には、同性の恋人と一緒に、笑いながら、指を差すカップルもいた。こちらには異性同士、手を繋いでいるパレード参加者も大勢おり、それがとても奇異に映るらしい。


 手こそ繋いでいないが、僕にも視線が注がれていることがわかる。多少は慣れたとはいえ、さすがに恥ずかしい。掲げているプラカードも目に入っていることだろう。下手なイラストだと思われていないかな? 不安になる。


 僕らに注目しているものは、通行人だけではなかった。テレビカメラもだった。誰もが知っているテレビ局のロゴが入ったジャケットを着たクルーが、こちらを撮影していた。


 それは一社だけではなかった。複数のテレビ局が、このプライドパレードをカメラへと収めていたのだ。確実に、制服姿の僕とミサキは、撮られていることだろう。


 やがて、僕らは明治通りを抜け、新宮前交差点へ差し掛かる。およそルートの半分以上を歩いた計算だ。


 パレードの列は長蛇のため、先頭と最後尾ではかなりの時間差がある。僕とミサキは中央付近なので、パレードの先頭は、そろそろ代々木公園に到着した頃かもしれない。


 僕は隣を歩くミサキの様子を窺った。ミサキは笑顔を振り撒きながら、手にしているレインボーフラッグを振っている。時折、沿道にいる見物人に対し、「ハッピープライド!」と挨拶を行っていた。見物人から冷ややかな目で見られようと、お構いなしだ。


 ミサキは僕の視線に気がついた。僕に笑いかける。


 「楽しいね」


 僕は頷く。嘘ではなかった。同じ性的指向を持つ人々と一緒になって、思いを伝える。この一体感と開放感は、何事にも代えがたかった。僕は孤独ではない。それを実感できるのだ。


 その気持ちは、ほとんどの参加者が感じていることだろう。普段は孤独を覚えやすい性的マイノリティ側の人間だからこそ、わかることなのだと思う。


 僕たちのパレードのブロックは、やがて原宿駅前を通過し、代々木公園の近くまでやってきた。もう少しで、ゴールへ到着する。


 その時、歩道のほうから、罵声が聞こえた。僕はそちらへ顔を向ける。


 歩道でパレード見物していた女子高生二人組み(おそらくカップルだろう)が、こちらに対し、非難の声を飛ばしていた。


 「きもーい」


 「男女で手を繋ぐなよー」


 彼女たちに触発されたのか、近くにいた見物人も、口々に罵りの言葉を投げ掛けてくる。


 僕は戸惑った。見知らぬ人々からの完全な悪意と差別。学校でクラスメイトたちから受けるものとは、また違った不快感を覚えた。


 「ハッピープライド!」


 ミサキの凛としたが響く。ミサキは、少しも怯まず、明るく対応していた。


 「ハッピープライド!」


 僕もミサキを真似して、声を出す。不思議に、勇気が湧いてきた。


 こちらのそのような様子を見た見物人たちは、罵りの言葉を止め、目を逸らす。最初に罵声を浴びせてきた女子高生たちは、不愉快な表情を浮かべると、手を繋いで、その場を去っていった。


 僕とミサキはおかしくなって、笑い合う。


 やがて、僕たちは、代々木公園へ到着し、パレードを終えた。




 休み明けの登校初日。僕とミサキは学校から呼び出しを受けた。理由は、もちろん制服を着用してのプライドパレード参加の件だった。テレビで僕らが学校の制服を着て映っている姿を観て、急遽、呼び出しを決めたらしい。


 校長室にあるマホガニー柄の両袖デスクを挟んで、僕とミサキは校長と対峙した。


 ミサキは、堂々と、制服を着てプライドパレードへ参加した件を認めた。それから、参加へ至った経緯の一部始終も話す。自分たちに正当性があることも主張した。


 ミサキから説明を受けた校長は、禿頭の下にある眉間に皺を寄せた。神経質そうな面持ちだ。胃が痛いのか、しきりには腹部に手をやっている。


 校長は口を開いた。


 「しかしねえ、それをわざわざウチの制服を着てやらなくてもいいじゃないか」


 「どうしてですか?」


 ミサキは質問をする。


 校長は呆れた顔をした。なんでわからないんだ、とでも言うように。


 「どうしてって、学校に迷惑がかかるだろう」


 ミサキは毅然と反論した。


 「先ほども申し上げた通り、プライドパレードに参加することは悪いことではありません。それは制服を着て参加を行っても、同じことです。非難される謂れはないはずです」


 ミサキの凛々しい言葉が、校長室へ響く。校長は、さらに眉間に皺を寄せた。随分とストレスを感じているようだ。側頭部に少しだけ残っている頭髪が、抜け落ちてしまわないか心配になる。


 「だからって、異性愛者のパレードってねえ……。あまり褒められたことではないんじゃない?」


 校長の言葉には、明らかな侮蔑が込められていた。それにより、ミサキに火が点いたようだ。一気に責めたてる。


 「発言には気を付けてください。今の言葉、差別ですよ。異性愛者のパレードをあなたが否定する権利はありません。取り消してください。そうしなければ、あなたの発言をパレード側に伝え、問題として取り上げてもらいます」


 ミサキの剣幕に、校長は尻込みした。困った表情で、ミサキを見つめる。


 ミサキは真っ直ぐ、校長を見据えた。校長はたじろぎながら謝罪する。


 「いや、別に異性愛を否定するわけではないんだ。すまなかった。取り消すよ」


 ミサキは満足したように頷く。そして、困惑している校長に言い放つ。


 「とにかく私たちは、何も悪いことをしていません。そのため、こうやって呼び出される必要もないのです。だから、私たちはこれで失礼します」


 ミサキは会釈した。それから、僕へ「行こう」と呟き、校長室の戸口へ向かう。


 僕は慌てて、校長に頭を下げると、ミサキの後を追った。


 僕らは一緒に校長室を出る。


 西棟を目指しながら、僕はミサキに話しかけた。


 「驚いたよ。金森さん、校長相手に、あんな毅然とした態度を取れるなんて」


 「そんなことはないわ。私はただ、当然のことを主張したまでよ」


 ミサキは平然と言う。本心のようだ。やはり、異性愛者であることに、確固たる誇りがあるのだろう。


 僕らは、教室前の廊下で別れた。そして、僕は自分の教室へ入る。


 入ると同時に、休み時間であるにも関わらず、教室中の視線が僕へ集まった。


 僕は臆することなく、自分の席へ近づいた。机の上には、新聞が乗っていた。中が開かれている。


 そこに、プライドパレードの記事が書かれてあった。写真が掲載されており、プライドパレードの風景を写したものであった。


 よく見ると、掲載されてある写真の内、一枚に、ほんの少しだが、僕とミサキの姿が写っていた。よく見つけたものだと思う。


 いくつか笑い声が聞こえた。スグルとタクヤが、こちらへ顔を向けて笑っていた。


 僕は新聞を手にし、スグルに近づいた。おそらく、机に仕掛けたのはスグルだろう。


 僕はスグルを問い質す。


 「新聞を机に乗せたのは、お前か?」


 僕の乱暴な物言いに、スグルは一瞬、たじろいだようだ。しかし、すぐに気を取り直し、薄ら笑いを浮かべた。


 「そうだよ。だから?」


 僕は新聞をスグルへ投げ付けた。スグルの顔にまともに当たる。


 「なにすん……」


 スグルが言い終わらないうちに、僕はスグルへ飛び掛っていた。スグルは椅子に座ったまま、後ろへ倒れる。僕のほうが体は小さいが、不意打ちと目くらましで、奇襲は上手く行ったようだ。


 僕はスグルに馬乗りになり、殴りつける。僕の拳はスグルの頬にクリーンヒットした。人差し指の基節骨が痛む。それでも殴ろうとすると、周りが止めに入った。僕の体に誰かの手が掛かる。


 両手を上げ、僕は戦意がなくなったことをアピールしながら、立ち上がった。スグルは殴られた頬を押さえながら、憎しみのこもった目を僕へ向けた。


 僕はそれを無視し、次はタクヤの所へ向かう。タクヤは自分も襲われるのではないかと身構えていたが、僕にはそのつもりはなかった。


 僕はタクヤに言う。


 「僕に振られたからって、復讐のために性的指向を言い触らすなんて、女々しいな。タクヤ」


 「は?」


 タクヤは目を丸くした。


 「は? じゃない。ダサいって言ってんだよ。馬鹿かお前」


 タクヤの顔が見る見る赤くなる。まるでロブスターだ。


 僕は続けた。


 「それに、お前、僕をレイプしようとしたよな? 最低だよ。振られた挙句、付き合っていた恋人をレイプしようとするなんて。お前みたいなゲス野郎が異性愛者を笑う資格なんてないよ」


 僕はわざと大声でまくし立てた。周囲がざわめく。タクヤは真っ赤な顔から、一転して、今度は青ざめる。赤くなったり、青くなったり、信号のように忙しい奴だ。


 タクヤはまさかこのタイミングで暴露されるとは思ってもいなかったらしく、反論しようと口を開くが、何も出てこなかった。パクパクと無声映画のように、喘ぐ。


 その反応で、クラスメイトたちは僕の発言が真実だと悟ったようだ。小さな非難の声が、タクヤに浴びせられる。さすがに、レイプ未遂犯と異性愛者では、前者のほうが非難を受けるらしい。


 タクヤが再度反論しようと立ち上がったところで、チャイムが鳴った。惜しい。これで、もう弁明の機会は永遠に訪れないだろう。


 次教科の担任の教師が、教室へ入ってくる。


 僕は自分の席へ戻った。


 その日は、それから僕に対するいじめは行われなかった。




 学校が終わり、僕は南太田駅へと足を踏み入れた。今日は部活がない日だったので、直帰できる。だが、僕は家へは向かわず、上がりの列車に乗った。


 目指す先は中央図書館だ。借りたままであった本を返そうと思っていた。


 比較的空いている列車に揺られた後、僕は図書館へ辿り着く。そして、本をカウンターへ返却した。返却期日を大幅に過ぎていたので、職員から文句を言われないかとドキドキしたが、結局、お咎めなしだった。


 僕はその後、以前のように『人権・環境』コーナーに向かう。そこで、異性愛についての書物をいくつか選び出し、机に座って読んだ。


 時間が経ち、午後六時を過ぎたところで、僕は席を立つ。読みかけだった本を借りて、図書館を出た。


 外はすっかり暗くなっていた。空で月が投光機のように輝いている。今夜は満月らしい。


 僕は今度こそ、下りの列車に乗り込み、家を目指した。


 家に着き、中へと入った僕は、肌で異様な空気を捉えていた。あの時と同じだった。直感で全て悟ることができた。


 家族は皆、居間に揃っているようだ。僕は、ただいまの挨拶をせずに、二階の自室へ上る。


 着替えを済ませ、意を決して、居間の扉を開けた。居間のテーブルには、家族三人が揃って座っていた。夕食は並んでいない。だが、完成はしているようで、カレーの匂いが漂っていた。


 孝雄が口火を切る。


 「ハヤト。ちょっとそこに座りなさい」


 孝雄は険しい顔で、僕の席を指差した。僕は言われるがまま、そこへ腰掛ける。


 孝雄は僕の顔に視線を固定し、話し始める。それは予想通りの内容だった


 「ハヤト、お前、異性愛者のイベントへ制服を着て、参加したんだって?」


 孝雄は眉は上げながら訊く。怒りと嫌悪の感情が入り混じっているようだ。


 「さっき、校長先生から電話があったんだよ」


 茂が横から説明する。


 僕は唇を噛んだ。校長は、わざわざ両親に報告したようだ。よほど僕とミサキの行動が気に食わなかったらしい。あの禿げめ。


 僕は心の中で毒づく。とはいっても、いずれは発覚することなのだろうが。


 茂がさらに追求する。


 「本当なの? ハヤト。答えなさい」


 僕は、間を置かずに頷いた。隠し立てする理由はないからだ。


 僕の肯定がショックだったらしく、茂は唖然とした後、悲痛な声を出す。


 「どうしてそんな真似をするの!?」


 孝雄も顔をしかめている。


 「学校や家族に迷惑が掛かると考えられなかったのか?」


 二人の叱責に、僕は俯く。脳裏に、ミサキの凛とした姿が蘇った。そうなんだ。僕たちには、非難を受ける咎はないはずだ。


 僕は顔を上げ、両親二人を見据えた。そして、伝える。校長室で、ミサキが語ったように、自分たちの正当性を。


 「僕はプライドパレードに参加したことについて、誰にも謝るつもりはないよ。パレードは東京都に認可された、れっきとしたイベントで、誰でも自由に参加できるんだから。異性愛者が悪いことじゃないのと同じで、参加することに対し、誰一人責められるべきことじゃないんだ。それに、制服を着て参加したことについても、非難は不当だよ。制服を着て参加してはいけないなんてルールは存在していないんだから、迷惑なんてかかるわけがない」


 僕は、両親へ思いの丈をぶつけた。アズサや岡部代表、レインボープライドの皆のことを想いながら。


 僕の主張を聞いた両親は、それでもなお、納得しない顔のままだった。


 孝雄が気を病んだように、目頭を揉みながら言う。


 「こんなことなら、もっと早く転向療法を受けさせるべきだったよ」


 僕は、首を振って、自分の本当の気持ちを吐露する。これまで口にできなかった言葉。今なら言える。


 「僕、転向療法は受けないよ」


 孝雄と茂は同時に、目を見開いた。カナは、ずっと下を向いたまま、話を聞いているだけだった。


 孝雄が、カッとしたように、怒気を込めて言う。


 「今更、何を言い出すんだ? もう予定は組んでいるんだぞ」


 「そんなこと知らないよ。お父さんたちが勝手にやったことでしょ? とにかく、僕は治療を受けない」


 「何だ! その言い草は!」


 孝雄は拳で、テーブルを叩いた。耳障りな音が居間へ広がる。茂とカナが身を硬直させた。僕も、ぎょっとする。


 孝雄は目を吊り上げていた。


 「ハヤト、お前が異性愛者のままなら、家族にどんな迷惑がかかると思ってんだ?」


 「迷惑? さっきも言ったように、そんなのかからないはずだよ」


 僕は怯まなかった。


 「世間に顔向けできないだろ」


 「顔向けできない? それはおかしいよ。異性愛者ってだけで、世間に顔向けできなくなるなら、その世間のほうが間違っているよ」


 「気持ち悪いんだよ!」


 茂が声を荒げる。僕は、反論した。


 「それはただの感情論じゃないか。『気持ちが悪い』そんな理由で否定が成立するなら、どんなものでも否定できるようになるよ。それこそ、逆に同性愛者が気持ち悪いっていう理由で、父さんたちを否定する人が現れたら、二人はどうするの?」


 「詭弁を言うな! 同性愛は、世界でも社会でも普通のことだろうが」


 僕は、カッとなった。


 「普通ってなんだよ? 誰が決めた基準なの?」


 「同性愛は多数派で、異性愛は少数派だろ」


 僕は夢中で否定した。


 「多数派か少数派かで、普通かどうか決まるわけないじゃないか。じゃあ、逆に同性愛者が少数派で、異性愛者が多数派の世界になったら、父さんたちは、同性愛者を否定するの?」


 孝雄は腕を組んだ。


 「仮定の話はいらん」


 僕は叫ぶように言った。


 「多数派が正しくて、少数派が間違っている。だから、少数派は否定していい。迫害していい。そんな考えこそが、絶対間違っているよ!」


 僕の声が、居間へこだまする。その後、少しだけ、静寂に包まれた。


 孝雄は手を広げると、疲れたように天を仰いだ。


 「お前の言い分はわかった。だが、転向療法は受けてもらう。お前が何を言おうと、異性愛者は世間で受け入れられない存在だからな」


 受け入れようとしていないのは、父さんたちじゃないか。僕は、その言葉を飲み込んだ。無駄だ。今はまだ、理解してもらえない。


 それまで黙っていたカナが口を開く。


 「私もお兄ちゃんに同性愛者に戻って欲しい。だって、このまま一緒に暮らしていたら、私襲われそうだもん。だって、男の異性愛者は、女性が性的対象なんでしょ?」


 僕は目を瞑った。まだまだこれからだ。これから少しずつ説得して、異性愛を理解してもらえばいい。僕は、自分にそう言い聞かせた。


 しかし、転向療法のほうは、早急に解決しなければならない問題だ。


 孝雄が話を締めくくるように、言う。


 「とにかく、すぐにでも治療を受けられるように、手続きを早めるよ」


 僕は、小さく息を吐くと、部屋着のポケットから、鶴田弁護士の名刺を取り出した。両親に見えるように、テーブルの上に置く。


 両親は、名刺に目を落とし、共に怪訝な顔をする。


 僕は岡部代表の言葉を思い出していた。彼はこう言っていた。


 僕は、両親と、カナへ説明を行う。転向療法を無理矢理受けさせるのは、違法であること。子供であろうと、拒否できること。自分の背後には弁護士がいること。


 説明を聞き終えた両親は、明らかに動揺していた。息子がまさか、弁護士と接触していたとは、夢にも思っていなかったのだろう。カナも驚いた顔を僕へ向けている。


 僕は、その三人を見回し、口を開く。


 「だから、僕は転向療法を絶対受けないから」


 僕ははっきりと、そう断言した。

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