第七章 レインボープライド

 僕とミサキは、上大岡駅にあるスターバックス店内のテーブルで、向かい合わせに座っていた。店内は時間帯のせいもあり、混雑している。すぐに席を取れたのは、奇跡だろう。


 僕はそこで沈痛な思いを抱えたまま、俯いていた。ミサキの不安げな視線が、頭部に突き刺さっていることが、感じ取れる。


 賑やかな周囲と比べて、僕らがいる所だけ、光が当たらない穴蔵のように、暗い雰囲気を纏っていた。


 僕は俯いたまま、さきほど、ミサキから聞いた話を思い出す。


 ミサキがこの駅にいた理由は、京急百貨店が目的だったらしい。ミサキが利用する屏風浦駅までには、目ぼしい百貨店が一つもないため、わざわざ途中にあるこの上大岡駅で降りて、利用したとのことだ。


 そして、買い物を終え、京急百貨店から出たミサキが、ホームへ向かっている最中、たまたま私服で歩く僕を目撃したらしい。


 ミサキ曰く、その時の僕の様子は『相当おかしかった』ようだ。心配になって、後を追った結果、線路へ飛び込みそうな素振りを僕が見せたため、声をかけたという流れだ。


 ミサキの遠慮したような声が聞こえる。


 「言いにくいかもしれないけど、教えて。一体、何があったの?」


 僕は下を向いたまま、口をぎゅっと結ぶ。ミサキに話すべきなのか……。


 無言で返す僕へ、ミサキが言う。


 「自殺しようとするなんて相当なことだと思うわ。望月君が理由を教えてくれるまで、一人にするわけにはいかない。それから、ご両親へ事情を話して、迎えにきてもらうわ」


 親のことが口に出され、僕はピクリと硬直する。その反応で察したのだろう、ミサキは落ち着かせるような口調で訊く。


 「……ご両親と何かあったのね?」


 僕は顔を上げて、ミサキを見る。ミサキはひたすら心配そうな顔をしていた。


 僕は微かに頷く。


 「話して」


 僕は、逡巡した後、ミサキへ全て話すことにした。これまで何度か相談に乗ってくれた相手だ。信頼はしていた。それに、誰かに話せば、少しは気が楽になると思った。


 タクヤからのレイプ未遂に始まり、タクヤからクラスメイトたちに異性愛者であると暴露されたこと、いじめが始まったこと。家族にも知られ、治療を受けさせられること。さきほどのカナの会話。


 僕の話を聞き、ミサキは悲しそうな顔になった。


 「そんなことが……。気付いてやれなくてごめんなさい」


 僕は首を振った。


 「金森さんのせいじゃないよ。相談しなかった僕が悪いんだから」


 ミサキは、僕がいじめに遭っていることも知らなかった。カナが友人伝で聞くほど噂は流れていたようだが、ミサキは元々、異性愛者だと噂されている存在で、友人も少ないらしく、そのせいで耳に入らなかったのだろうと思われた。


 「そんな事情があるなら、ご両親を呼ぶわけにはいかないわね。でも……」


 それからミサキは、少しの間、深く考え込んだ。整った眉宇に、皺が刻まれる。本気で僕のことを案じているようだった。


 しかし、どんな意見を聞かされようとも、解決に向かう気がしなかった。それこそ、僕が同性愛者にでも変貌しない限り。ある意味呪いのようなものだからだ。


 やがて、ミサキは顔をこちらへ向けた。優しく微笑んでいる。


 「次の休みの日、ちょっと私に付き合って。連れて行きたい場所があるの。もしかしたら、解決の糸口が掴めるかも」


 そして、ミサキは真剣な顔になり、僕へ言う。


 「だから、その時まで、自殺は絶対やらないと約束して」




 休日が訪れ、僕は新宿駅へと降り立った。東南口から外へ出て、目の前の階段を下る。その先にあるのは、ミサキが待ち合わせに指定した東南口広場だった。


 休日のため、イベント会場のように広場は混雑している。僕はその中で、ミサキを探す。


 ミサキはすぐに見つかった。ミサキは、広場の中央に設えている水道管のようなサークルベンチへ腰を預けていた。


 僕は、ミサキへ声をかける。


 「お待たせ」


 僕を確認したミサキは、どこかホッとしたような表情をした。


 「私もさっききたところ。望月君、きてくれてありがとう」


 ミサキは感謝の言葉を述べた。僕がくるかかどうか――正確には、また自殺を行い、これないのではと、不安に思っていたらしい。表情が物語っている。


 「ううん。僕のほうこそありがとう。気遣ってくれて」


 僕の礼に、ミサキは笑顔で頷くと、立ち上がった。


 ミサキの服装は黒い花柄のハイウエストスカートに、白のブラウス。全体的に落ち着いたガーリーな雰囲気を纏っていた。


 思えば、私服姿のミサキを見るのは初めてのような気がする。いつも制服姿しか目にしていないからだ。新鮮だと思うと同時に、純粋に素敵だと思った。


 「それで、連れて行きたい場所って?」


 僕は、ミサキへ尋ねる。数日前、自殺をミサキに止められた時、ミサキが話したことだ。あれからミサキはその場所の名前を教えてくれなかった。その代わり、しつこいくらい、自殺を決行しないことを僕へ念押ししてきた。


 幸いと言うべきか、あの時に比べたら、希死念慮は薄れている。そのためか、こうして生きてミサキと会うことができた。


 だが、僕を取り巻く環境は少しも改善していなかった。またいつ何時、自殺へ踏み切るか自分でもわからない。いまだなお、絶望に似た暗い感情が、心の奥で燻っているのだから。


 「歩きながら話すわ。場所はすぐ近くだから」


 ミサキはそう言って歩き出す。僕は仕方なく、それに付き従った。


 僕たちは、新宿駅から伸びる甲州街道へ入り、しばらく歩く。それから、新宿四丁目交差点近くにある大きなビルの横を通過し、明治通りのほうへ抜けた。


 相変わらず人が多い上、この辺りは道幅も狭く、他の通行人と肩を擦れ合わせるようにして歩かなければならなかった。


 しばらくすると、伊勢丹のある大きな十字路へ差し掛かる。ミサキはそこから右折した。僕はその時点で、はっとする。


 「ミサキさん、目的の場所って、もしかして」


 ミサキは僕の推察の内容を悟り、首肯した。


 「そう。私があなたを連れて行きたい場所は新宿二丁目」


 彼女が口に出した地域名は、異性愛者が集う街として有名な場所だった。異性愛者でなくても、知っている者も多いだろう。


 しかし、同性愛者たちからその名を上げられる場合は、大抵、揶揄の意味が込められていることが多い。


 僕は訊く。


 「そこで何をするの?」


 以前、ミサキは、僕を悩ませる問題を解決する糸口になるかもしれないと言っていたが、新宿二丁目に、そんなものがあるのだろうかと思う。


 ミサキは答えた。


 「前に話したプライドパレード、その運営事務所が二丁目にあるの」


 僕は再度、はっとした。ミサキの意図が読めたからだ。


 僕は訴える。


 「前も言ったけど、僕はプライドパレードに参加するつもりはないよ」


 ミサキは歩きながら、僕を見つめた。切れ長の綺麗な目が、僕を捉える。


 「何も参加しろとは言ってないわ。ただ、話を聞くだけでも、何か変わるかもしれないと思ったの。あそこには、あなたと同じような経験をした人が大勢いるから」


 「……」

僕はそれ以上、何も言わず、そのまま従うことにした。僕自身、何か変わって欲しい、という願望があったからだ。

 やがて、僕たちは新宿二丁目へと入った。


 東京レインボープライドの事務所は、ごく普通のマンションの一室に設立されていた。


 教えられて初めて知ったのだが、プライドパレードを運営する東京レインボープライドは、東京都に正式に認定されているNPO法人だった。活動目的は、もちろん、性的マイノリティの権利擁護と、地位向上を主軸としている。


 僕とミサキは、東京レインボープライドの事務所内部へと通された。ミサキが予め話をしていたらしく、虹色のデザインが施されたTシャツを着用したスタッフたちから、快く歓迎を受けた。


 事務所内部は、木を基調としたシックなモダン風の内装をしており、マンションの一室とは思えないほどお洒落だった。IT企業のオフィスのようにも見える。


 僕たちはその中で、東京レインボープライドの代表者である岡部清正と相対していた。奥の執務室で、テーブルを挟み、向かい合わせに座る。僕の隣にはミサキがいた。


 ミサキと岡部代表は、既知の仲らしく、親しげに挨拶を交わしていた。ミサキは岡部代表のみならず、他のスタッフとも仲良しだった。


 岡部代表は、中肉中背の均衡の取れた体付きをしており、顔は舞台俳優のように整っていた。


 岡部代表は、貫禄を感じさせる落ち着いた口調で、話し始める。


 「ミサキ君から話は聞いているよ。詳細までは知らないが、色々と大変な目に遭っているらしいね」


 僕は目線を落とす。岡部代表も、虹色のTシャツを着用していた。


 「よかったら、話してくれないか? 力になれるかもしれない」


 僕は押し黙る。今初めて会った人間に話していいものか悩む。だが、岡部代表の口調と雰囲気は、カウンセラーのように、こちらに信頼感を抱かせる効果があった。おそらく、悩みを抱えた異性愛者たちと、何度も相談を行ってきたのだろう。


 僕は自然に、自分が現在置かれている現状を岡部代表へ話していた。


 話を聞き終えた岡部代表は、静かに頷いて言う。


 「とても辛い目に遭ってきたんだね。よく耐えたと思うよ。君は立派だ」


 岡部代表の優しげな眼差しを受け、僕はつい、涙ぐみそうになる。


 岡部代表は明瞭とした言葉で、説明を始めた。


 「結論を言えば、君の問題はいくらでも解決できる。例えば、学校でのいじめの件。これは、法的措置をとればいい」


 「法的措置?」


 「そう。いじめだって、立派な犯罪だ。裁判所へ訴えれば、確実に相手を処罰できる。幸いと言うべきか、うちにはそういった事例に詳しい弁護士がいる。後で紹介するよ」


 「でも、そういうのお金がかかるんじゃ?」


 岡部代表は首を振った。


 「彼は、君のように、異性愛者がゆえにいじめに遭う未成年の味方になってきた人物だ。その辺りは考慮してくれているよ。一種のボランティアみたいなもので、必要最低限しか取らない。それも、相手の賠償金で相殺できる額だ。お金のことは心配しなくていいと思う」


 僕は岡部代表の言葉を訊き、心からホッとする。まだ依頼する決心は付いていないが、解決への光明が少しでも見えたと思うと、こうも安心するものらしい。


 岡部代表は、続ける。


 「あと、君の両親のことについてだ。これも同じように、法律で対処できる」


 「具体的にどうするんですか?」


 「転向療法は、アルコール依存症や薬物依存症のように、強制入院、つまり、医療保護入院の措置が取られることもあるようだ。おそらく、君の両親は、その制度を利用するつもりだと思う。だけど、厳密に言うと、異性愛者であるという理由での医療保護入院は、違法だとも言えるんだ」


 岡部代表の説明が完全には理解できず、僕はきょとんとする。すると、岡部代表は、肩をすくめ、微笑を浮かべた。


 「異性愛者は病気として扱われている。だけど、アルコール依存症のように、緊急性を持っているわけではないんだ。だから、法律上、人権侵害として、拒否ができるんだよ。例え、相手が親でも」


 僕は驚く。そんな方法があったなんて。


 岡部代表は僕の反応を見て、頷く。


 「親との兼ね合いがあるから、拒否したとしても、万事、スムーズに解決するとは限らない。けれど、必ず何らかの対処は可能なんだ。希望を捨ててはいけない。だから……」


 岡部代表は、言葉を区切る。表情が、どこか物悲しそうに変化していた。


 「だから、自ら命を絶つような真似は、絶対やってはいけない。これだけは肝に銘じていてくれ」


 岡部代表の力強い訴えに、僕は思わず首肯した。


 すると、それまで黙っていたミサキが横から口添えする。


 「少し前、スタッフの男の人が、同じような理由で自殺したの。同じ大学の同級生からアウンティングを受けて。十八歳だったわ」


 僕ははっと口を噤む。


 岡部代表は、深いため息をついて言った。


 「つくづく後悔しているよ。もっと早く話を聞くべきだったって。まだここに参加したばかりの子で、何かしら事情があるとは感じ取っていたが、まさか自殺するまで追い詰められていたとは……」


 岡部代表は、無念そうに肩を落とす。それから、再び、正面から僕を見据えた。精悍な顔には、力が宿っている。


 「君を彼の二の舞にはしたくない。だから、できるだけ協力するよ。それから、君が、異性愛者であること自体に悩んでいるとしても、ここのスタッフたちの話を聞けば、その悩みも和らぐかもしれない」


 岡部代表はそう言い終わると、優しく笑い、手を広げた。彼が着ている虹色のTシャツが強調される。


 「とりあえず、今日はゆっくりしていってくれ。我々は、君を歓迎するよ」




 それから、僕は、東京プライドパレードのスタッフたちと交流を深めた。


 異性愛者を始めとする性的マイノリティを支援する団体とはいえ、その全てが性的マイノリティの人とは限らない。しかし、男女共に異性愛者やトランスジェンダーの方も多く、僕はその人たちから色々な話を聞いた。相談にも乗ってもらった。


 そこでわかったことがあった。性的マイノリティの人間は、そのほとんどが、大なり小なり、似たような境遇に晒されたことがあるということだ。僕よりも遥かに悲惨ないじめや差別を体験した人も少なくなかった。それでも皆、前を向いて懸命に生きていた。中には、最愛のパートナーを見付け、幸せに暮らしている人もいた。


 正午になると、僕はお昼をご馳走になった。スタッフと共に、テーブルを囲み、お喋りしながら手作り料理を食べた。


 食事の最中、外は日が差しているにも関わらず、にわか雨が降っていることに気づく。一緒にいたミサキが「虹がかかるかもね」と呟いていた。


 午後は、僕はミサキと共に、スタッフたちの手伝いを行った。作業内容は、二週間後に控えているプライドパレードの準備だった。物販商品の整理や、広報誌作成などが主である。


 その際、午前中に岡部代表が言っていた弁護士の紹介を受けた。名を鶴田信郎といい、僕は名刺を貰った。


 名刺に目を通すと、千代田区に事務所を構えている弁護士だとわかる。長身の気の良さそうな男性で、虹色のTシャツを着ているせいもあってか、そうは見えないが、岡部代表曰く、百戦錬磨の凄腕弁護士らしい。


 鶴田弁護士は、気さくにいつでも頼ってと僕へウィンクを行った。僕は丁寧にお辞儀をし、その時は、とお願いをする。心強い味方ができたことで、僕の中には随分と余裕が生まれていた。


 夕方近くになると、僕は再度、岡部代表から執務室へ呼び出しを受けた。僕はそこに一人で向かう。


 椅子へ座った僕へ、岡部代表は、今日の感想を聞いてきた。


 僕は正直に答える。スタッフの皆が優しい人ばかりで、とても楽しく過ごせたこと。様々な話を聞けて見聞が広がったこと。頼もしい味方ができて、心が随分と楽になったこと。そして、今日、ここにきて、本当に良かったと思っていること。


 それらを伝えると、岡部代表は、安心したように微笑んだ。


 「よかったよ。そう言ってもらえて」


 岡部代表は、僕に無駄足を踏ませたのではと心配していたようだ。特に、僕の自殺を懸念(後でミサキから謝られたのだが、ミサキは僕の自殺未遂を岡部代表に話していたらしい)している以上、少しでも僕の心の負担が解消できたことに、本気で安堵していた。


 それから岡部代表は、僕の今後の行動について質問を行った。いじめや転向療法に対し、法的措置を取るのかどうか。そして、東京レインボープライドと繋がりを持つか。だが、僕が異性愛者としてどう生きていくかは訊かなかった。


 僕はこれまで、岡部代表を始め、スタッフの皆や鶴田弁護士の話を聞いて、芽生えた考えを述べた。僕自身の、取るべき正しい道だと思って。


 「今はまだ、法的措置を取るつもりはありません」


 「そうか。それはなぜ?」


 岡部代表は、真剣な表情で訊く。


 僕は答えた。


 「少しの間、自分で戦ってみようと思うんです」


 僕は話を継いだ。


 「今日、岡部さんやスタッフの皆さんと話をして思ったんです。皆、自分が異性愛者であることを受け入れて、戦っているんだって。だから、僕も何かしなくちゃという思いを抱いたんです」


 「弁護士を交えて、相手を訴えるのも、充分戦いだと思うが」


 岡部代表の言葉に、僕は頷く。


 「それは正しいと思います。だけど、その前に、自分ができることをやって、それから他の人に頼りたいと考えているんです」


 「自分ができることとは、なんだい?」


 僕は小さく息を吸い込んで、言った。


 「今度開催されるプライドパレードに、僕を参加させて欲しいんです」


 岡部代表は、少し驚いた顔をした。ミサキから、僕がプライドパレードに参加しない意思を持っていることを聞いていたのだろう。


 岡部代表は片方の眉を上げて、質問する。


 「それはもちろん構わない。だけど、それだけでいいのかい?」


 僕はしばし黙る。これは、今日、皆と話をして頭に思い浮かんだ考えだ。僕ができることとはなんだろう。


 僕は言った。


 「僕はイラストを描いているんです。だから、それを使って、何か伝えられないかって思って」


 それから僕は、岡部代表へ心にある想いを伝えた。異性愛者としての自分。差別といじめに遭い、家族からも受け入れられなかった自分。その胸の内を絵にして、人々に訴えたかった。


 岡部代表は、少しの間、何かしら思案していたが、やがて首肯する。


 「わかった。そのイラストの件、どうにかしよう。もう開催間近だから、広報誌には載せられないが、ブースに飾ることはできるかもしれない」


 「ありがとうございます」


 「しかし、もうほとんど時間がないが、大丈夫なのかい? 完成品の提出は、一週間後くらいにしてもらわないと、厳しいと思う」


 期限は一週間。僕は心を決めて言った。


 「必ず描きあげます」


 僕の顔を見て、岡部代表は、笑みを浮かべた。


 「わかった。そこまで言うなら、期待して待っているよ」


 「はい。ありがとうございます」


 岡部代表の言葉に、僕は深く頭を下げ、礼を言った。


 岡部代表は、慎重な口調で僕に注意をする。


 「だが、無理はするなよ。君の環境がさらに悪化するようなら、遠慮なく僕や、鶴田弁護士に相談するんだ。ミサキ君でもいい。僕たちは、君のような異性愛者を守るために存在している団体なんだから。これは守ってくれ」


 「わかりました」


 僕はそう言うと、岡部代表に再び深く頭を下げた。

 夕方を過ぎ、僕は東京レインボープライドの事務所をミサキと共に後にした。


 新宿二丁目を、駅へと向かって歩く。歩きながら、僕は事の顛末をミサキへと話した。


 ミサキはいじめや転向療法の問題をすぐに解決しないことに、不安を示したが、僕の意思が強いことを知ると、理解してくれた。


 それから僕は、今日のことについて、ミサキに礼を言った。ミサキが誘ってくれなければ、前を向くきっかけを掴めないまま、いまだ絶望の底に沈んでいたはずだ。しかも、ある程度事情を話し、お膳立てすらしてくれていたのだ。至れり尽くせりの対応に、感謝のしようもない。


 僕の言葉に、ミサキは照れた様子を見せた。慌てたように、手を振ると「同じ異性愛者だから、放っておけなくて」と、説明する。


 普段クールなミサキの慌てた様子がおかしくて、僕は小さく笑う。つられてミサキも笑った。


 その後、僕たちはしばらく無言で歩いた。


 休日の夕方のため、周囲の人混みはピークに達していた。大勢の人間が往来している。しかし、ここは他の場所と違い、異性のペアが目に付いた。


 彼らや彼女たちは、仲良さげに歩いているため、おそらく、恋人同士なのだろうと思う。中には、手を繋いだり、腕を組んでいる男女もいた。新鮮な光景だった。


 もしかすると、外からは、僕らも恋人同士に見えているのかもしれないな、と思う。


 「あ、虹がかかっている」


 ミサキが突然、宝物を発見した時のように、驚いた声を発した。


 僕はミサキの視線を追って、新宿二丁目の街並みの空を見上げる。


 そこには、確かに、色鮮やかな虹が架かっていた。ミサキが数時間前、呟いた言葉通り、にわか雨が降ったお陰で、虹が生まれたのだろう。


 僕の頭の中に、イラストのおぼろげなイメージが湧いてくる。


 僕らが目指す新宿駅は、虹の足元にあった。僕とミサキは、虹へと向かって、歩いているのだ。




 それから僕はすぐに、イラスト作成へ着手した。それまで描いていた別のイラストは中断する。何せ、一週間という期限付きなのだ。時間がなかった。


 僕はまずコンセプトを考えた。それには先行しているイメージがあった。東京レインボープライドの皆が着ていたTシャツ。プライドパレードのシンボルであるレインボーフラッグ。そして、あの時目にした虹。


 僕は、虹色を基調としたイラストを目指すことにした。


 コンセプトは決まったとはいえ、肝心のデザイン部分が問題だった。一体、どんな形に仕上げようかと迷う。暗いイラストにはしたくない想いがあった。希望を見出せるような、それこそ虹の中を渡るような、明るいイラストを描きたかった。


 だが、そう決めても、一向に手が進まなかった。異性愛者を元にしたイラストなど、始めてである。指針がない航海のように、迷走しながらの作成だった。


 下書きを描いては、手直しし、さらに一からやり直す。そんな状態が続いた。


 作品はまるで進まないものの、僕を取り巻く環境は、容赦なく僕を攻撃していた。学校でのいじめも続いていた。両親も着々と転向療法を僕に受けさせるべく、準備を整えているようだ。


 東京レインボープライドを訪ねてから、三日が過ぎた。イラストはなおも進まず、僕は焦りを感じ始めていた。もしかすると、完成しないのではないか。そんな懸念が、頭をかすめる。


 その日も、僕は学校で与えられた不快感を抑えながら、机に向かっていた。時刻は夜の十時近い。


 鉛筆で下書きを行い、手直しをする。その繰り返し。全く進まない。淡々と時が過ぎることのみが、実感できていた。


 僕は大きくため息をつき、鉛筆を置いた。頭が鉛になったように、重かった。夕食を済ませてから、ぶっ通しで作業を続けていたせいだ。


 僕は、傍らに置いてあるノートパソコンに手を伸ばした。モニターには、複数の画像が表示されている。


 これらは、異性愛を元にしたイラストやアート作品だった。ネットで検索し、収集した画像集である。


 それらを参考に描いても、いまいちピンとこなかった。画像集には、有名なイラストレーターの作品も含まれていたが、大してインスピレーションを得られなかった。


 僕は画像集を閉じ、インターネットで異性愛について検索する。ヒットしたサイト群から、イラストのアイディアになりそうなものを見て回るが、それでも助力にはならなかった。中には、異性愛を差別する内容のサイトもあり、胸が悪くなることもあった。


 しばらくサイト巡回をしてみるが、進展は見受けられなかった。僕は肩を落とし、ブラウザを閉じようとする。その時、気になるサイトが最後に目に付いた。


 そのサイトは、性的マイノリティの象徴であるレインボーフラッグの由来について、解説を行っていた。


 僕はそのサイトに目を通す。


 レインボーフラッグは、七十年代、アメリカにあるサンフランシスコが発祥の地らしい。サンフランシスコ出身のアーティスト、ギルバード・ベイカーが考案したもので、当初から性的マイノリティのために製作したもののようだ。


 レインボーフラッグを構成する六色の旗の色には、それぞれ意味が込められており、色付きで説明が載っていた。


 赤(生命)橙(癒し)黄(太陽)緑(自然)青(平穏)紫(精神)。


 レインボーフラッグは、発足当時、八色だったのだが、数度の変更が加えられ、現在六色になっている。それは今日でも性的マイノリティのシンボルとして機能していた。


 僕はレインボーフラッグについて、さらに調べる。


 ベイカー考案のレインボーフラッグには、モデルがあるという。それは『オズの魔法使い』において、ドロシー扮するジュディ・ガーランドが映画内で歌った『虹の彼方に』という劇中歌が元とされている。


 どうやら、『虹の彼方に』という歌自体も、性的マイノリティのシンボルソングとなっているようだ。


 七十年代当時、ジュディ・ガーランドは性的マイノリティに対し、理解を示している数少ない著名人の一人だった。


 そのため、彼女は性的マイノリティのイコン(偶像)となり、『虹の彼方に』が、シンボルソングとして扱われる理由の一つとなったらしい。


 僕は翻訳された『虹の彼方に』の歌詞を読んだ。


 

 どこか虹を超えたところ

 ずっと空高くに

 夢の国があるって

 いつか子守唄で聞いたわ

 この虹を超えたところ

 空は青く

 そこで信じた夢は

 本当に実現する


 いつか私は星に願いたい

 目覚めると雲は遠くに去って

 そこではいろんな問題もレモンの滴のように溶けてしまうの

 わたしは煙突の上よりずっと高いところにいる

 それでもあなたはわたしを見つけてくれるはず


 どこか虹を超えたところ

 青い鳥たちは飛ぶ

 虹を越えて飛ぶ鳥たちのように

 きっと私は飛べるわよね?


 幸せの小さな青い鳥たちが虹を越えて飛んで行く

 きっと、わたしにもできるわよね?



 美しい歌だった。自分の理想とする世界を夢見る少女。彼女は虹の彼方に、それを求めたのだ。


 気がつくと、僕は泣いていた。目の前には虹が架かっていた。その向こうに、僕が求める世界はあるのだろうか。


 僕も、飛び立たなければならないと思った。虹の彼方を越えて。理想の世界を探しに。


 僕は涙を拭い、鉛筆を手に取った。


 それからは、これまでと違い、筆が進んだ。僕の中に別の意思が入り込んだかのように、イメージを形にすることが可能となっていた。




 そして、岡部代表と約束した期日までに、僕はイラストを完成させることができた。

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