第六章 アウンティング

 体育館裏でタクヤとの話があって以降、タクヤは僕へと『説得』を行うようになった。


 教室では、交際時と同じように、親しく接してくるだけだったが(そのため、クラスメイトたちはよりを戻したと思っているようだ)二人っきりになると、『説得』は激しさを増した。異性愛の否定から始まり、異性愛者であることのデメリットや立ちはだかる障害、どこで調べたのだろう、不幸な体験談も伝えてくるようになった。


 LINEなどのメッセージのやりとりも復活したものの、そこでも同じだった。タクヤは『説得』を止めなかった。


 僕はそれに嫌気が差していた。だが、なまじそれがタクヤにとって、好意や善意によるものだったので、僕が避けても、タクヤは容易には止めようとはしなかった。


 僕はそのことについて、ミサキへと相談を持ちかけた。とはいえ、直接呼び出したのではなく、偶然下校しようとした(タクヤを避けるため、わざと早めに学校を出た)時にミサキと会い、そこで話したのだ。




 僕の説明を聞き、ミサキは眉間に皺を刻みながら、うーんと唸る。


 今僕らは、布津高校から少し離れた所にある公園にいた。


 そこは、南太田近郊に存在する公園の中で、一番規模が大きかった。巨大なアスレチックや健康遊具も設置されており、子供からお年寄りまで楽しめる場所である。


 僕とミサキは、その公園の一角にあるベンチに並んで腰掛け、話をしていた。背後には、首都高速道の高架が架かっており、時折、車やトラックの風鳴りのような走行音がここまで聞こえてきていた。


 「驚いたわ。まさか危惧していた通りのことが起きるなんて。私の時と同じね。同性愛者って、考えることが皆同じなんだ」


 ミサキは腕を組み、半ば呆れるような口調で言う。


 「どうすればいいかな?」


 僕は神妙にミサキに尋ねる。本気で打開策を知りたかった。


 「そうね……」


 ミサキは、僕から視線を逸らし、少し考えた。もしかしたら、過去の出来事のことを思い出しているのかもしれない。


 ミサキはこちらに体傾けるようにし、口を開く。


 「こうなっちゃったら、相手もなかなか引き下がらないと思うわ。かといって、無闇に拒否するのも相手を刺激するだけだし」


 僕は唇を噛んだ。


 「つまりどうしようもないってこと?」


 ミサキは首を振る。


 「下手なアプローチは禁物ってこと。こちらから相手に強い拒否を示すと、逆効果になる可能性があるわ」


 おそらく、ミサキは経験談を話しているのだろうと思われた。瞳に微かな悲しみが生じている。


 「それじゃあどうすれば?」


 結局、相手の所業を受け入れるしかないということなのか。


 ミサキは、ストレートロングの髪をかき上げると、僕のほうへ少しだけ身を寄せて言う。


 「向こうが諦めるまで、相手をしないことが無難だと思う。ストーカーへの対処と同じね。それでも相手が止めなかったら、然るべき人間へと相談する」


 「然るべき人間?」


 ミサキは頷いた。


 「そう。親だとか教師にね」


 「もしも相談したら、タクヤはどうなるかな?」


 ミサキは一瞬だけ間を置くと、答える。


 「最悪、退学になるんじゃないかな? 親や教師がどう動くかによるけど」


 退学。僕は黙考した。そこまでいけば、少しやりすぎではないかと思う。タクヤは一応元彼である上に、そこまでひどいことをやっているわけではないのだ。退学までことが及ぶとしたら、気の毒である。


 その心情を察したらしく、ミサキが執り成すように言う。


 「あくまで、それは最終手段だから。これからの相手の行動次第で変わることよ。でも、考慮に入れておくべきね」


 ミサキは話を続けた。


 「それに、両親や教師に相談するとなると、あなたが異性愛者だという事実も判明する可能性もあることを忘れないで。相手は大人だから、そこから広まるとは思えないけど、第三者には知られることは充分にありえるわ」


 僕は頷く。やはり、ミサキの言う通り、親や両親への相談は最終手段にするしかないのだろう。現時点では、僕が一歩引き、タクヤが『説得』を諦めることを待つのがベストな方法といえた。


 ミサキとの会話が途切れ、僕は公園へと目を向けた。近くの遊歩道を、年老いた二人の男性が並んで歩いている。手こそは繋いでいなかったが、深い絆を感じさせた。長年連れ添った『夫夫』の同性カップルなのだろう。


 他にも、女性同士、男性同士、仲良く歩いている者たちが公園に多数見受けられた。そのほとんどが恋人同士に違いない。僕らのように、異性同士二人っきりでいる者は、ほとんどいなかった。

 僕は、ふと、疎外感を覚える。異端者だと、周りから指を指されているような気分になった。


 それから僕は、タクヤに対し、一歩引いた状態で接していた。ミサキのアドバイス通り、強い拒否を示さず、タクヤが諦めるまで耐えようとした。


 だが、タクヤの行動は一向に変化がなかった。むしろ少しずつエスカレートしているような気さえした。


 それでも僕は、特別なアクションを取らなかった。


 少しの間、そんな状態が続いた。


 しかし、ある時、僕は我慢できなくなり、タクヤへもう止めてと強く非難を行った。揉めることは覚悟の上だった。


 ところが、タクヤは、ミサキが警告したように激怒したり、逆恨みの念を抱くなどの、過剰な反応を見せなかった。


 意外にも、タクヤは素直に従う素振りを見せたのだ。だが、その代わりに、もう一度本音で話したいと言ってきた。


 ミサキは、ほとぼりが冷めるまで待つようにと、僕へアドバイスを送っていたが、こうやってこちらの説得に応じるのだったら、そちらのほうが良いのではと思った。早めに解決するに越したことはないからだ。


 僕は、タクヤから学校が終わったら一緒に帰ろうと催促された。タクヤの家で話し合い、もうそれで最後にすると。


 僕はそれに了承した。それで二人の仲にケリが付くのなら、僕にとっても本望である。


 そして、僕は部活がある日の放課後、タクヤとの待ち合わせを行った。




 僕は理科室から、待ち合わせに指定されている校門へと直行した。


 次々と帰路に着く布津高校生を前に、校門近くでタクヤを待つ。日の入りはさらに早くなり、辺りは非常に薄暗くなっていた。


 待ち始めて数分もしない内に、タクヤはやってきた。


 「待たせたか?」


 「ううん。今きたところ」


 僕たちは二、三言葉を交わし、共に並んで歩き出した。本当に、かつて付き合っていた頃に逆行したみたいだった。


 高校を出て、駅へと一緒に向かう。二人共言葉少なげだった。タクヤの様子を窺うと、タクヤは何やら考え事をしているように見受けられた。話し合いの内容でも考えているのだろうか。


 僕たちは南太田駅から上りの列車に乗り、横浜駅を目指した。そして、そこから列車を乗り継ぎ、反町駅と向かう。僕の通学路線とは正反対の方向なので、定期券は使えず、全てタクヤが払ってくれた。


 地下駅である反町駅に到着し、僕らは地上へと出る。外はすっかり闇に覆われていた。


 駅から西にある住宅街へ向かい、やがてタクヤの家へと到着する。


 タクヤの家は、暗闇に包まれていた。誰もいないのだろうか。


 「両親は? 今日はいないの?」


 僕はタクヤの両親である二人の女性の姿を思い出しながら、質問した。


 タクヤは首肯する。月明かりの中、目だけが輝いて見えた。


 「今日は二人共仕事で遅いんだ。最近はずっとそうだけど」


 タクヤの家へは何度かお邪魔したことがあったが、家族不在での訪問は初めてだった。


 そして、僕たちは家の中へと入る。タクヤは先に僕を二階の自室へと通し、それから飲み物を淹れに居間へと降りていった。


 一人になった僕は、部屋の中央にあるテーブルの前に座り、部屋の中を見渡す。以前来た時から何も変わっていない。部屋の隅には、バスケットボールが転がっていた。


 少し待つと、タクヤがお茶を載せた盆を手にし、部屋へと戻ってきた。僕の前にお茶を置くと、対面へと座る。


 「ありがとう」


 僕は礼を言うと、タクヤは透明感のある笑顔を作った。


 僕たちはそれぞれお茶を飲む。その後で、タクヤが口火を切った。


 「お前を困らせたみたいですまなかったな。良かれと思ってやったことなんだ」


 そう言い、タクヤは頭を下げる。予想を超えるタクヤの素直な態度に、むしろ僕は困惑した。


 あたふたと手を振り、僕はタクヤを押し留める。


 「わかってくれたならそれでいいよ。頭を下げないで」


 タクヤはもう一度すまないと言い、下を向く。本当に殊勝だ。わかってくれてよかったと、僕は心底ほっとする。


 タクヤは下を向いたまま、口を開いた。


 「一つ質問をいいか?」


 「質問? いいけど」


 唐突にどうしたのだろうか。僕は怪訝に思う。


 「お前さ、最近二組の金森美咲と一緒に帰っているだろ?」


 僕はギクリとする。やはり知られていたようだ。とはいえ、別に隠し立てするような真似はしていなかったので、当然といえば当然の成り行きではあるが。


 僕は曖昧に頷く。


 「う、うん。そうだね。時々一緒に帰っているよ」


 「付き合っているのか? 確か金森には彼氏がいたはずだけど」


 「もう別れたみたいだよ。それに、僕は金森さんとは付き合っていないから」


 「なら、これから付き合う可能性はあるわけだよな。お互い、異性愛者なわけだし」


 僕は、ミサキと自分が交際している場面を想像した。何だか実感が湧かない。


 「わからないよ。そんなこと」


 なぜ、タクヤはこんな質問をするのだろうか。不思議に思った。


 タクヤは顔を上げた。どこか決心したような面持ちだった。


 「おかしいと思ってたが、あの女がお前をそそのかしたわけか」


 タクヤの声は、一オクターブほど下がっていた。ぞっとするような静かな声だ。


 態度を変えたタクヤに困惑しながら、僕は首を横に振って答える。


 「金森さんは関係ないよ。全部僕が決断したことなんだから、責めるなら僕だよ」


 実際は、ミサキへと相談したことが契機になったのだが、そこは伏せるしかない。


 しかし、タクヤは一体どうしたのか。


 タクヤは息を一つ吐くと、複雑な表情を作った。その顔を見れば、さっきの僕の言葉を信じていないことが、はっきりとわかった。


 「いいや、あの女のせいだよ。庇ってもわかる」


 「……」


 タクヤは、複雑な表情のまま、手に顎を乗せると、話を続けた。


 「だけど、責任は俺にもある。お前をもっと縛っておくべきだったからな。そうすれば、あんな女と接触なんてせず、こんなにも異性愛に染まることはなかったのに」


 話が妙な方向へ進んできた気がする。僕はタクヤに訊く。


 「さっき、もう僕の性的指向には口出ししないって、謝ってくれたよね?」


 タクヤは目を瞑り、首を振った。


 「そうは言ってない。お前を不快にさせたことには謝ったけど、俺の行動については謝罪はしてないぞ。だって間違ったことはしていないからな」


 僕は思わず眉をひそめる。タクヤの真意がわからなかった。同時に、足元から、微かに恐怖が這い上がってくる。


 タクヤは言う。


 「俺は後悔しているよ。もっと早めに強引な行動を取るべきだったってね。付き合っているうちに、お前に同性愛者としての正しさを教えることができていれば、こんなことにはならなかったんだ」


 タクヤは立ち上がった。そして、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。僕は強い恐怖を覚えた。今すぐに逃げ出したい衝動にとらわれる。


 タクヤのほうが部屋の扉に近い。逃げ出すには……。いやそれ以前に、体がすくんで……。


 タクヤは僕の目の前で、宣言した。


 「今からお前に男の良さを教えてやる。そして、同性愛の道へ戻してやるよ」


 そして、タクヤは勢いよく僕に覆い被さり、押し倒した。僕は抵抗できず、その場に仰向けに倒れ込む。足がテーブルへと当たり、飲みかけの湯飲みが中身をぶちまけながら、床へと転げ落ちた。


 タクヤはそれを意に介すことなく、僕に覆い被さったまま、僕の制服を脱がそうとしてきた。


 「やめて!」


 僕は小さく悲鳴を上げる。だが、タクヤは止まらなかった。


 僕の中で、恐怖がマグマのように噴き出した。タクヤは、僕をレイプしようとしているのだ。どうにかしなければ。


 次第に恐慌状態へと陥っていく中、僕は大声を出そうとした。だが、それを察知したタクヤが、バスケで敵チームのパスをブロックするように、俊敏な動きで僕の口を塞いだ。


 僕はくぐもった声を上げる。叫び声は封じられてしまったものの、それでもタクヤの手から何とか逃れようと大きくもがいた。だが、タクヤと僕の体格差は歴然だった。いくら抵抗しても無意味で、タクヤを押し返すことができなかった。


 すでに、上半身の制服のボタンは全て外されてしまった。器用なものだと驚きを隠せない。これもバスケ部で習ったのだろうかと場違いな感想を覚える。


 やがて、タクヤの手がズボンへと伸びた。ベルトを外そうとまさぐる感触がする。僕の恐慌は頂点に達した。


 僕は激しく暴れた。タクヤは体全体を使い、のしかかるようにして、強く僕を床へ押し付ける。身動きがならなかった。諦観という言葉が頭をよぎる。このままレイプを受け入れるしかないのかと思った。


 僕が激しく動いたため、口を塞ぐタクヤの手が、少しだけ外れていた。


 自由になった口を使い、僕はタクヤの手に思いっきり噛み付いた。


 タクヤの短い悲鳴が、部屋に響く。タクヤは仰け反り、噛まれた手をもう片方の手で押さえていた。


 拘束が緩んだ隙を突き、僕はタクヤの手から逃れた。そして、そのまま通学鞄を手に取ると、部屋を脱兎の如く飛び出した。


 背後でタクヤが「待て!」と叫ぶ声が聞こえる。だが、僕は立ち止まらなかった。階段を下り、タクヤの家から逃げ出した。


 僕は振り返りもせず、来た道を戻る形で疾走した。冷たい夜風が頬をなでる。冷たいのは、涙が流れているからだった。


 駅へと走りつつ、後から後から涙が溢れてきた。止められなかった。僕の中で、恐怖と悲しみが嵐のように、吹き荒れていた。




 翌日、僕は学校を休んだ。理由は当然、タクヤに会いたくないからだった。昨日今日の話である。自分をレイプしようとした元彼と同じ教室で授業を受けるなど、考えただけでぞっとした。


 両親には、休む理由を具合が悪いからと嘘をついた。昨夜から様子がおかしい息子を見ていたので、両親は納得したようだ。


 僕は朝からずっと寝て過ごした。病人という体なので、当然ではあるが、他に何かやる気力もなかった。


 一度は机に座り、イラストを描こうと鉛筆を手に取った。だが、少しも作業を進めることができず、鉛筆を放り投げる始末だった。


 昼頃、茂がお粥を作ってくれた。しかし食欲がなく、喉をほとんど通らなかった。それを見て、茂は心配し、僕を病院へ連れて行こうとした。


 だが、僕はそれを強く突っぱねた。仮病である上に、本当に具合が悪いのは、心なのだ。病院に行くのは無駄に終わるだろう。


 昨夜を境に、タクヤからの連絡は完全に途絶えたままであった。当たり前だ。むしろ、謝罪の連絡を寄越しても、僕は恐怖で応対できなかったに違いない。


 夜には、幾分か持ち直したものの、それでも明日、学校へは行きたくない気持ちが強かった。だが、このままずるずると休み続けても、解決にはならないのだとわかっていた。


 それだけではなく、授業にも遅れは出るし、そろそろ中間テストもある。休みを増やすことのデメリットは甚大といえた。


 僕は明日、学校は休まず登校しようと思った。ネックなのはタクヤの件のみなのだ。タクヤだって、あんな真似をしでかしたら、もう僕へと関わろうとはしてこないはずである。


 それに、次またレイプをされそうになったら、その時こそ助けを呼べばいい。学校には人も大勢いる。恐れることはないはずだ。


 僕は、自分へとそう言い聞かせ、無理にでも楽観視しようとした。ゆくゆくは、恐怖は薄れ、普段と同じ気持ちで過ごせるだろうと。


 だが、それが非常に甘い考えだったのだと、後に思い知らされることになった。




 いつも通りの朝が訪れた。僕はカナを起こし、居間へと下りる。食卓で朝ごはんを並べていた茂が、僕の体調を尋ねてくる。僕は平気だと伝え、椅子に座った。今朝は孝雄も食卓におり、家族揃っての朝食となった。


 朝食が済み、登校の準備を終え、僕は玄関を出る。


 ポーチから空を見上げると、どんよりと曇っていた。空気も湿気を孕んでいるような気がした。今日は雨が降るかもしれない。僕は家の中へ引き返し、傘を持ち出した。


 それから三十分後、高校へと到着する。朝の風景は、いつもと変わらなかった。違うとすれば、傘を持った生徒が多いくらいだ。昨日休んだだけなので、そう変わりようがあるはずもないが。


 下駄箱で上履きに履き替え、教室へ向かう。教室に近付くにつれ、体が震え始めていた。タクヤに会うことの恐怖がやはりあった。しかし、昨日、自分に言い聞かせたように、安全圏にいるのだと思い直すと、震えは幾分か緩和された。


 教室へ着いた僕は、戸口に立ち、一度深呼吸をする。それから扉を開けて、中へと入った。


 中へ入った途端、僕は眉根を寄せた。妙な雰囲気を肌で感じ取ったからだ。教室へ入ると同時に、クラス皆が一瞬だけ、僕のほうを見た――そんな気がした。


 自分の机に僕は行く。そこで、その感覚が、気のせいではないことを知った。


 僕の机の上には、雑誌のようなものが置いてあった。それは、異性愛者向けに作られているアダルト雑誌だった。


 僕の全身に、電撃のようなショックが走る。とっさにタクヤの席を見る。タクヤは薄い笑みを浮かべ、こちらに顔を向けていた。教室のあちらこちらから、クスクスと押し殺したような笑い声が聞こえてくる。


 僕は全てを悟った。タクヤは僕が異性愛者だということを、周囲へ暴露したのだ。昨日、僕が休みの間に。拒絶された腹いせで。


 タクヤからのレイプの警戒は杞憂に終わった。しかし、ある意味それ以上の悲劇が待ち受けていたのだ。


 僕は、しばらくの間、その場から動けないでいた。





 それから数日が経った。


 僕は放課後、理科室へ赴いた。今日は部活がある日なのだ。


 僕は連日続く、心が鉛になったような気持ちを抱えたまま、部活動へ参加した。


 席に着き、鉛筆を走らせる。そろそろ、次の部誌への掲載のために、イラストを仕上げなければならない。だが、描こうとすればするほど、頭の中に別の思考が形作られる。


 僕は最近、自分が受けたクラスメイトたちからの仕打ちについて、思いを巡らせた。


 「お前、異性愛者だったんだな。キモいよ」


 アキトが僕へ発した言葉が、脳内に再生される。アキトは細い目を軽蔑の形へ歪めて、そう吐き捨てた。


 サヨコの言葉も思い出す。


 「いくら異性愛者だといっても、私を狙わないでよね。私はノーマルなんだから」

 サヨコは、汚いものを見るような目で僕を見た。


 他にも、複数のクラスメイトたちが、異性愛者である僕に対し、辛辣な言葉を投げ掛けてきた。「ヘテロ野郎」「アブノーマル」「キモい異性愛者」それらは、いつまでも僕の耳の奥へこびりついた。


 言葉だけではない。行為もだった。初日のように、異性愛者向けのアダルト雑誌を置かれる悪戯など序の口だった。誰の手によるものなのか、僕らしき男と、女性がセックスしている姿を描いた紙も置かれたこともあった。机に落書きされていることもあった。


 僕のことを見るなり、嫌悪の表情を浮かべ、あからさまに避ける女子も増加した。僕が歩いていると、足をかけてくる男子もいた。彼は、床に倒れ込んだ僕へ「異性愛者は学校にくんなよ」と罵声を浴びせた(その男子はスグルだった)。


 わずか数日間で、クラスにおける僕の地位は、どん底にまで転落していた。僕はからかいといじめの対象になり、常に不愉快な思いをするようになった。


 元凶であるタクヤは、直接僕に何かしてくることはなかった。傍観者のような立場であるが、おそらく、クラスメイトたちを焚き付けたり、けしかけるような真似を背後で行っているのだと思われた。


 それまで仲が良かったクラスメイトたちも僕から離れ、まともに接してくることもなくなった。だが、唯一、ユカリだけは同情の念を僕に向けているようだった。かといって、助けてくるようなこともなかったが。


 僕は次第に、学校へ行くことが苦痛となっていた。朝起きると、強い吐き気に見舞われた。家を出ても、そのままどこかに行きたいと思うようになった。


 親や教師に相談する――それも考えたが、その場合、僕が異性愛者であることも伝えなければならなかった。もしそうなったら、親や教師は、僕に味方してくれるだろうか。その懸念があった。


 声をかけられ、僕ははっと我に返る。現在僕は、理科室で部活動に参加中なのだと思い出した。鉛筆を握ったまま、トリップしていたらしい。


 僕は声をかけてきた人物のほうへ、顔を向けた。頭が寝起きのように、ぼうっとしている。


 声をかけてきたのは、チヒロだった。セルフレームの奥にある目を瞬かせ、僕を見つめている。


 「何?」


 僕は短くそう訊いた。


 「えっとね、訊きたいことあって……」


 チヒロはあたふたとする。いつも通りに見えるが、以前よりも挙動不審ではなかった。ここ最近、ぐっと僕らの(チヒロから一方的な)距離が縮まったお陰だろう。


 「訊きたいこと? 何?」


 チヒロは言いにくそうに目を伏せる。だが、すぐに顔を上げ、口を開いた。


 「あの、友達から話を聞いたんだけど、望月君、異性愛者だって本当なの?」


 アイスピックで刺されたように、心がチクリと痛む。とうとう、下級生にまで知れ渡ったのか。


 僕は動揺を表に出さないよう心掛けながら、チヒロへ言った。


 「どうしてそんなことが気になるの?」


 僕の質問に、チヒロは鼻腔を膨らませた。


 「もし本当なら、漫画の参考に話を聞きたくて……。それに、私なら味方になれるだろうし」


 どいつもこいつも。僕は唇を噛む。およその人間にとって、異性愛者はどうしても特別な存在に映るらしい。疎外され、中傷の的になるか、珍獣のように扱われるか。少なくとも、対等に接しようという思考には至らないようだ。恋愛の対象が異性か同性かの違いだけで、同じ人間なのに。


 僕は、興奮を抑えられない様子のチヒロから目を逸らすと、会話を打ち切った。イラスト作成を再開する。


 チヒロは僕のそんな様子を見てもなお、質問の答えを知りたそうに、もじもじしていたが、僕が相手をしないとわかると、やがて自分のイラスト作業へと戻った。




 部活が終わり、僕は自宅へと直帰する。あまり学校へ長居したくなかった。


 家に着き、玄関を開ける。土間には、カナの高校のローファーと、孝雄の革靴が置いてあった。どうやら僕が最後らしい。


 孝雄は、ちょっと前までは、夜遅くの帰宅が常態化していたが、ここ数日はそれが沈静化しており、定時で帰ってくることが多くなった。我が家の家訓の『できるだけ夕食は家族揃って』が遵守される形になっているため、今日も家族四人での食事になるのだろう。


 僕は、靴を脱ぎ、家へ上がると、「ただいま」と居間のほうへ声を掛ける。いつもならそこで、茂やカナの「おかえり」の声が返ってくるはずだった。


 しかし、今日は反応がなかった。僕は怪訝に思う。テレビの音が微かに聞こえ、人がいる気配はする。時間帯を考えれば、カナもそこにいるはずである。僕の声が、届かなかったのだろうか。


 僕は首を捻りながらも大して気に留めず、自室へと行き、部屋着に着替えた。それから階下へと下りる。


 僕は居間へと入った。夕飯の匂いが鼻腔をつく。燻製のような香ばしい匂いだ。今日は焼き魚がメインらしい。


 だが、居間のテーブルには、何も載っていなかった。代わりに僕を除く家族三人が、揃って席へ着いていた。料理はできているようで、全て台所に置いてあると思われた。


 三人の間には、張り詰めたような空気が流れていた。先ほどまで点いていたであろうテレビは消され、冷たい静寂に包まれている。


 この空気には身に覚えがあった。両親から叱られている時だ。幼い頃から何度か味わっている今すぐ逃げ出したくなるような苦痛の時間。それが今、訪れているのだと思った。


 カナがまた悪さをして、叱られているのだろうか。その考えが、僕の頭をよぎる、だが、すぐに違うのだとわかった。


 「ハヤト、そこに座りなさい」


 孝雄の鋭い指示が、僕へ飛ぶ。どうやら標的は僕らしい。一体、なぜ、と疑問が浮かんだ。叱られるようなことに心当たりはない。


 茂も厳しい目をしていた。カナは、どういうわけかこちらに目を向けようとはせず、俯き加減で椅子に座っていた。


 何だろうか。胸中に、ざわざわとした不安が去来している。


 僕は椅子に腰掛けた。


 「どうしたの?」


 僕は唾を飲み込み、孝雄に尋ねた。孝雄は険しい表情を崩さないまま、答える。


 「お前に訊きたいことがある。正直に答えて欲しい」


 僕は頷く。同時に、背筋がぞくりとした。


 孝雄は言った。


 「ハヤト、お前、異性愛者なのか?」




 孝雄から質問を受け、僕の頭は真っ白になる。孝雄は一体、どこから聞きつけてきたのだろうか。


 僕は返事に窮した。何か言おうと口を開きかけるが、パクパクと池の鯉のように喘ぐばかりだった。


 その様子を見て、孝雄は眉間に皺を寄せた。


 「噂だと聞いたが、まさか本当なのか?」


 噂? どういうことだろう。


 横から茂が口を挟む。茂は眉を八の字に曲げていた。


 「カナちゃんがね、学校の友達から聞いたらしいんだ。あなたが異性愛者だって噂を」


 カナは僕と違う高校に通っている。なぜ、カナがそんな噂を耳にするのだろうか。


 僕の疑問に答えるように、カナがポツポツと語り始める。カナは相変わらず俯いたままだった。


 「美冬がね、お兄ちゃんと同じ高校に通う友達から聞いたみたいなの。お兄ちゃんが異性愛者だっていう噂が流れてるって」


 カナのいうミフユとは、おそらくクラスメイトの友人なのだろう。偶然にもその友人には布津高校の知り合いがおり、人伝に僕が異性愛者だという噂を聞いたようだ。

 なんという不運なのだろうか。本来なら、他校の噂話などそう簡単に伝わるはずがないのに。


 僕は自分の運命を呪う。


 カナは、俯いたまま話を継いだ。


 「私ね、それを聞いて、しっかり否定したよ。お兄ちゃんには、ちゃんと付き合っている彼氏がいるから、異性愛者なんかじゃないって。そうだよね? お兄ちゃん」


 カナは顔を上げた。大きな目が僕を見据える。


 僕は思わず目を逸らす。


 「どうなんだ? ハヤト」


 孝雄が切り込んでくる。僕は狼狽した。何と言えばこの場を切り抜けられるのか。


 脳裏に、ミサキの姿が思い浮かんだ。ミサキならば、この場面でどうするだろう。おそらく、臆することなく異性愛者だとカミングアウトするに違いない。彼女は異性愛者であることに、何の気後れもないからだ。


 僕はどうするべきか。


 僕は、タクヤやクラスメイトたちのことを考えた。異性愛者であるがゆえに、差別やいじめに合う。それは本来、あってはならないことなのだ。


 僕は覚悟を決めた。


 僕は三人の顔をそれぞれ見比べ、口を開く。心臓が早鐘のように、バクバクと鳴っている。


 「わかった。正直に言うね。噂の通り、僕は異性愛者なんだ」


 三人に、動揺が走ったのがわかった。僕は息を小さく吐き、テーブルに目を落とす。


 茂の声が聞こえた。


 「それ、本気で言ってるの? だって、ハヤト、あなたには彼氏がいるじゃないか」


 僕は顔を上げる。茂は信じられないという面持ちであった。正確には、信じたくない、といった風情だ。タクヤへカミングアウトした際、彼が取った態度と同様である。


 人は信じたいものしか信じようとはしない。ましてや、自分の息子のことなのだ。異性愛者という事実など認めるわけにはいかないのだろう。


 僕はその場で、事の顛末を全て話すことにした。


 自身が異性愛者にも関わらず、同性であるタクヤからの告白を了承したこと。悩みながら、交際を続けたこと。そして、その違和感に耐えられず、タクヤを振ったこと。


 ただし、ミサキの存在や、僕が現在いじめと差別に合っていることは伝えなかった。


 僕の事細かな説明を聞き、三人はさすがに真実だと認識したようだ。居間が再び静まり返る。焼き魚の匂いはまだ漂っていた。僕はふと、おかずが冷めないのだろうかと、場違いな危惧を覚えた。


 孝雄が静寂を破り、言葉を発する。孝雄の声は落ち着いていた。


 「どうして今まで黙っていたんだ?」


 答えにくい質問に、僕は口ごもった。


 「その……なかなか言い出せなくて……ごめんなさい」


 僕は頭を下げる。そうしながら、心の中で、どうして謝る必要があるんだ? と自問の声がした。


 再び静寂。居間の温度が、少し下がっているような気がした。


 孝雄は言う。


 「そうだったのか。わかったよ。今まで辛かっただろう」


 孝雄の優しい言葉に、僕は驚く。てっきり否定されるものだと邪推していた。僕は思わず泣きそうになる。良かった。両親はやっぱり僕の味方だ。


 だが、次に孝雄は信じられないことを口にした。


 「だけど、もう安心だ。これから俺たちが治療に協力してやるから」


 「え?」


 僕は硬直する。今、孝雄は何て言った?


 孝雄は僕の反応などお構いなしに、続けた。


 「お前がそんな障害にかかっていることに気がつかなかったなんて、俺は、父親失格だな。すまなかった」


 孝雄は精悍な顔を歪め、心底、自分に呆れたとでもいうような仕草で、頭を掻いた。


 僕は父親の意図が読めず、戸惑う。


 「ち、治療って?」


 孝雄は説明する。


 「確か、異性愛を治す治療方法があったはず。前に聞いたことがある。転向療法、とかいったかな。コンバージョンなんとかともいうらしい」


 「それを僕が受けるの?」


 孝雄は頷いた。


 「当たり前だろ。異性愛者なんてまともに生きていけるわけないんだ。ちゃんと治して同性愛者にならないと。とりあえず、その治療のことを調べてみるよ」


 もう一人の父である茂も、横から同意を示す。


 「自分の息子が異性愛者なんて話、人様に知られたら表を歩けなくなるよ。だから、ちゃんと治療して普通に戻りなさい」


 『夫夫』二人の考えを知り、全身をハンマーで殴られたようなショックが走った。両親は僕を――異性愛者である僕を受け入れるつもりはないらしい。


 それまで黙っていたカナも口を開く。普段通りの明るい声に戻っていた。


 「そうだよ。異性愛者なんてキモいだけだから。友達に知られたくないし、早めに治したほうがお兄ちゃんのためだよ」


 あっけらかんとした口調で言う。


 僕は愕然とした。家族は皆、異性愛者を認めようとはしていなかった。否定し、間違ったものだと決め付け、あまつさえ治療を受けさせようとする。


 心を抉られたような、深い悲しみに襲われた。


 孝雄の言う治療が一体どんなものかはわからない。だけど、そんなもの受けたくなかった。だって、異性愛は治療するものではないからだ。


 僕はそんな治療受けたくない! 異性愛者である僕を認めてよ! 否定しないで!


 怒涛のように、悲痛を訴える言葉が頭に浮かび上がる。だが、僕はそれを口にすることができなかった。恐怖があったのだ。その言葉すら受け入れられなかったら……。


 三人は、もうすでに会話が終わった風情だった。ぼんやりとしている僕の耳に、茂の声が届く。


 「話もついたし、じゃあ夕飯にしようか。もう冷めちゃっているだろうから、温め直さないと」


 茂はテーブルを立ち、台所へ向かう。カナがリモコンを手に取り、テレビを点けた。


 すぐに居間は、日常の雰囲気に包まれた。孝雄も茂に「ビール」と催促している。


 だが、僕の心はどこかにいってしまったままだった。家族からも受け入れられなかった僕は、これからどうなるのだろう。


 夕飯が始まっても、食欲がまるで湧かなかった。




 それからさらに数日が経った。僕はその間、地獄としかいえない日々を過ごした。

 学校での僕に対するいじめは続いていた。むしろ、少しずつ過激化しているように思われた。


 クラスでの僕への扱いは、人間に対するものではなくなっていた。時には直接的な暴力を振るわれることもあった。その度に彼らは、異性愛に対する暴言を吐いた。


 家では、着実に僕の異性愛を『治療』する準備が行われていた。


 ある時、僕はその治療について、少し調べてみたことがあった。


 名前は孝雄が言ったように、転向療法というらしい。コンバージョン・セラピーとも呼ばれ、その名の通り、異性愛者を同性愛者に矯正、または転換させる治療のようだ。


 治療法はいくつかあり、カウンセラーと行う会話療法を軸に、嫌悪療法や電気ショック療法、投薬療法などが採られるようである。


 その治療自体が、ほとんど薬物依存症やアルコール依存症などの患者と同じ扱いらしく、異性愛が『病気』だと見られている証でもあった。


 僕は、転向療法に対し嫌悪感が湧いた。生まれ持った性的指向を病気扱いなのは、間違っていると思ったからだ。


 さらに調べてみると、悲惨な事実も浮かび上がる。転向療法を受けた異性愛者は、自殺や自傷に及ぶ確率が高くなるという。洗脳のように、自身の生まれ持った性自認を強制的に変更させると、精神に歪が生じることの表れだといえた。


 これらの事実について、両親は知っているのだろうか。まさか知っていて、息子にこんな治療を受けさせようとは考えないはずである。


 しかし、わからなかった。だから、いまだに僕は転向療法を受けたくない意思を、両親に伝えられないでいた。




 その日は一日中雨が降っていた。かなりの大雨で、傘を差していても、足元がすぐにびしょ濡れになるほどだった。


 僕は木枯らしのように、雨に翻弄されながら、学校から家へと辿り着いた。


 鍵を開け、中へ入る。帰宅時間が早いせいか、家は無人だった。


 主夫である茂は、今朝、今日は色々と用事があると言っていたので、支払いなどに追われ、方々を回っているらしかった。もしかすると、帰りは遅くなるのかもしれない。


 僕も今日は、部活がある日なので、もっと遅くに帰宅するはずだった。だが、とても部活動に参加できる気分ではなかったため、サボることにしたのだ。


 僕は、玄関扉を再度施錠し、通学靴を脱いで、家へ上がる。靴下も脱ぎ、ハンカチで足を拭いた。そして、水に浸かったように濡れている通学靴を手に持って、風呂場へ向かう。


 靴がこれほど濡れてしまっては、明日までに乾かない恐れがあった。そのため、風呂場で干そうと考えたのだ。


 靴の水気をできるだけ取り、S字フックで風呂場のキャビネットに掛ける。夜まで待てば、相当乾くと思われた。


 僕は一連の作業が終わると、風呂場の鏡に映った自分の顔を確認してみる。


 薄っすらとだが、右頬が赤くなっていることが見て取れた。そうと思って見なければわからないほどだが、これはクラスメイトに殴られた跡なのだ。今も疼痛のような傷みが走っている。


 次に僕は、自身の胸元をはだけてみた。そこには顔よりも、くっきりと、いじめの痕跡が残っていた。黒い油性ペンで『私は異性愛者です』と書かれてある。これもクラスメイトから受けた仕打ちだ。学校で随分と消したつもりだったが、まだまだ残っているようだ。


 僕は、着替えがてら、シャワーを浴びた。そして、胸元の落書きを石鹸で必死に消す。消している最中、じわじわと涙が浮かんでくるが、泣くことは堪えた。


 何とか落書きを消し終え、僕は風呂場を出た。それから部屋着に着替え、自室へ入る。


 電気も点けず、ベッドへ仰向けに寝転がった。外からは微かに雨音が聞こえてくる。さきほどの下校時よりも、随分と雨脚が弱まっているようだ。今は小雨くらいか。


 僕は、小雨の音をBGMに、ぼんやりと天井を眺めた。自然に、いじめのことが頭に思い浮かぶ。


 毎日のように行われる中傷や差別発言。身体的暴力。机や教科書に対する悪戯。今日受けた体への落書き。


 それらを思い出すと、身を悶えさせたくなるほどの屈辱と不快感に襲われた。それから、またそれが明日も続くと思うと、吐き気すら込み上げてくる。


 僕は横向きになった。机が見える。そこには、イラスト道具が載っているはずだが、この精神的状況では、イラスト作業なんて考えられなかった。というより、鬱病患者のように、体が重く、何もやる気が起きないのだ。


 しばらく時間が経ったと思う。玄関の鍵を解錠する音が聞こえ、僕ははっと目が覚めた。どうやら少しだけ、まどろんでいたようだ。


 茂が帰ってきたのだと思った。だが、玄関のほうから聞こえてきた声は、茂のものではなかった。


 カナだった。それにもう一人いる。声からして女の子だとわかる。


 「濡れたねー」


 「タオルあるよ」


 そんなやりとりが聞こえる。


 おそらく、もう一人は、カナと交際している陸上部の先輩であるモモコだろう。声に聞き覚えがあった。


 カナは、毎日部活があると言っていたが、今日は雨のせいで休みらしかった。


 「上がって。誰もいないから」


 カナの声がする。どうやら、二人は僕が先に帰宅していることに気付いていないようだ。まだ外は明るいため、電灯を点けておらず、また、通学靴を風呂場へ退避させていたせいだろう。


 楽しそうにお喋りする声と共に、二人が階段を上がってくる音がした。そして、僕の部屋の前を通過し、隣にあるカナの部屋へ入ったことがわかった。


 少しだけ間があり、やがて壁越しに二人の話し声が聞こえ始めた。周囲が静かなので、予想以上に大きく響いている。盗み聞きするつもりはないのだが、自然と耳へと届いた。


 二人は学校であったことや、テレビドラマなどの他愛もない話をしているようだ。クラスの女子たちの日常会話と変わらない。


 僕はカナとモモコの声を意識しないようにしながら、スマートフォンを弄っていた。


 少し時間が経過した。何の脈絡かわからなかったが、二人の会話内容が僕の意識を捉えた。


 「そういえば、カナのお兄さん、異性愛者なんでしょ?」


 「うん」


 壁越しのくぐもったやりとりが聞こえ、誰も見ていないにも関わらず、僕の顔がかっと熱くなった。


 カナは、両親以外にも、僕が異性愛者であることを暴露していたのだ。一体どれほど広まったのだろうと心配になる。


 その心配に答えるように、カナの声がする。


 「モモコ以外には、親しか話していないから、誰にも言わないでね。お兄ちゃんが可哀相だから」


 気になる物言いだが、どうやらカナは、方々で言いふらしているわけではなさそうだ。僕はとりあえず、ほっとする。


 モモコの声がした。


 「わかってる。絶対言わないよ。カナのお兄さんのことだもん。私だってお兄さんに嫌な目にあって欲しくないから」


 「うん。ありがと」


 カナは切実に礼を言う。カナはカナなりに、僕のことを考えてくれているようだ。少しだけ、胸が温かくなった。


 そして、カナはさらに僕が異性愛者であることについて、言及する。


 「でも、本当にお兄ちゃん可哀相。異性愛者なんかに生まれちゃって」


 「仕方ないよ。お兄さんだって好きで異性愛者になったわけじゃないんだし」


 「そうだね。お兄ちゃんは悪くないよね」


 「それに、治療受けるんでしょ?」


 「うん。孝雄お父さんが、絶対治療してやるんだって、張り切ってる」


 「なら良かったじゃない」


 カナのため息が聞こえた。


 「そうなんだけど、もしかしたらお兄ちゃんが治療を拒否する可能性はあるかもしれないって、孝雄お父さん心配してた」


 「そうなったらどうするつもりなの?」


 「強制的に治療を受けさせるプログラムに参加させるんだって」


 僕は衝撃を受ける。そこまで両親は考えているのか。両親を説得しようとする僕の考えは、とっくの前に崩れ去っていたことになる。


 さらにカナの声がした。迷惑を訴えるような口調だ。


 「それはそれで、もう解決なんだけど、問題はお兄ちゃんが同性愛者に戻るまでの間のことだよ。やっぱりさ、お兄ちゃんはいくら悪くないとは言っても、一つ屋根の下で異性愛者と暮らすのは、気持ち悪くてしょうがないよ」


 「そうね。その感覚は普通の人なら当たり前だと思うよ。私だって、異性愛者は気持ち悪いと思うし。だけど、それを隠してお兄さんと暮らしているカナは偉いよ」


 「うん。色々と大変」


 「もう少しの辛抱だね。頑張って」


 少し間があり、カナの間延びした声が聞こえた。


 「あー早くお兄ちゃん、同性愛者に戻らないかな。そうなれば私が彼氏を紹介してあげられるのに。お兄ちゃんみたいな人が好みの男の人、結構いるんだよ」


 「お兄さん、可愛いもんね」


 二人が楽しそうに笑い合う声がする。そして、そこで僕の話題は終わった。二人は別の話に移る。


 僕はカナの本心を聞き、奈落の底に突き落とされた気分になっていた。カナは僕に強い嫌悪感を抱きながら暮らしていたのだ。しかもそれを実の兄のために気を遣い、ひた隠ししながら。


 それは、あからさまに避けられるよりも、強いショックがあった。こうして、間接的に事実を知ったことも、よりそれに拍車をかける。


 カナの話を聞き、僕は胃が痛くなった。僕は枕に顔をうずめる。ヘドロのような暗い気持ちが全身を覆っていく。吐き気も込み上げてきた。


 そのまま少し時間が経つ。気がつくと、静寂に包まれていた。隣の部屋にいるはずのカナとモモコの声がしなくなっていた。


 一瞬、いつの間にかいなくなったのかと思った。だが、違うのだとすぐにわかる。別の『声』が聞こえてきたからだ。


 小さく喘ぐ声。猫が水を舐めるような湿った音。ベッドが軋む音。


 カナとモモコがセックスを始めたことが、はっきりとわかった。


 僕はとっさに布団を被る。妹の、しかも同性愛者のセックスの音など聞きたくなかった。


 布団を被ると音は聞こえなくなる。だが、それでも隣の部屋で二人が体を重ねていることに、変わりはないのだ。むしろ情報が遮断されたことにより、いっそう、妙なイメージが頭へチラついた。


 僕は布団から出ると、そっとベッドから降りる。そして、外出用の服へ着替えた。このまま家にいたくなかった。隣からは、より大きく喘ぐ声が聞こえてきた。カナの声のようだ。


 僕は着替え終えると、二人に気づかれないよう、静かに部屋を出た。そして、忍者のように音を殺しながら、玄関を開けて外へと出る。


 雨はすでに上がっていた。晴れ間も少し見え、血のように赤い夕日が顔を覗かせている。


 家を後にした僕は、不気味にも思えるその空の下、とぼとぼと上大岡東の住宅街を歩く。


 行く当てなどなかった。家から叩き出された気分のまま、夢遊病者のように、足を無意識に動かしているだけだった。


 時折、下校中の中学生や高校生とすれ違う。中には、同性同士、カップルで帰っている者もいた。


 なんだか、僕は世界から切り離されたような気がした。それは間違っていないと思った。すでに我が家に僕の居場所はないのだ。学校だって同様だ。むしろ、僕にとって学校は地獄そのものである。


 先ほどの、カナとモモコの会話が脳裏へ蘇る。カナは異性愛者である兄を嫌悪していた。両親も、無理矢理にでも転向療法を受けさせ、息子を同性愛者にしようとしていた。異性愛者である僕は、家族からも必要とされていないのだ。


 そのことと、タクヤからレイプをされそうになった恐怖、そして、僕が被害者にも関わらず、学校で受けるようになった屈辱の日々の光景が合わり、ぐるぐると頭の中を回った。


 この世界は、どうしてこれほどまで、僕を苦しめようとするのか。僕は胸をかきむしりたくなるような、強い絶望感を覚えた。


 僕はぼんやりと、自分が異性愛者ではなく、同性愛者として生まれた場合のことを夢想した。


 おそらく、今頃はタクヤと普通の高校生のように、恋愛を楽しんでいたはずなのだ。タクヤのようなイケメン男子から告白され、付き合うことになった喜びを噛み締めながら。それはどんなに贅沢な話なのだろう。


 だが、僕はそれをみすみす棒に振ってしまったのだ。異性愛者であるばかりに。


 僕は暗い夕暮れの中を歩きながら、次第に自身の性的指向を呪い始めた。


 異性愛者に生まれたせいで、僕は学校で差別やいじめに遭うようになった。家族からも必要とされない存在になった。居場所もなくなった。全ては自身の性的指向のせいで……。


 だが、それでも転向療法を受けるつもりはなかった。僕が僕でなくなりそうだからだ。それは、死ぬよりも辛いことのように思えた。


 そう、死ぬよりも。


 僕は、自身が死の淵へ自ら立った感覚を覚えた。今いる場所は、目も眩むような断崖。世界か切り離された場所である。


 世界から孤立した僕には、相応しい末路かもしれない。そう思った。


 僕は、ふと気づく。いつの間にか上大岡駅へと辿り着いていた。


 何かに操られるように、僕は改札口を通り、ホームへ向かう。帰宅ラッシュのため、周囲は混雑していた。


 ホームへと僕は立つ。次、列車がきたら線路へに飛び込もう。僕は漠然と考えた。強い決心ではなく、ただ、漠然とだ。


 雨上がりで、血のように赤かった夕焼け空は、すでに薄暗くなり、夜の闇に侵食され始めていた。秋の冷たい夜風が吹き、体を撫でていく。寂寥感を覚えた。


 自ら命を絶つのに、相応しい雰囲気ではないかと、何となくだが思った。


 アナウンスが流れ、列車がやってくる。特急列車だ。この駅には停まらない。


 僕はホームの先端に近づいた。後少しだ。後少しで、僕は楽になれる。忌まわしい異性愛者ではなくなる。


 列車がホームへと入ってきた。すぐに間近まで迫ってくる。僕は線路へ飛び降りようと一歩を踏み出した。


 「望月君!」


 背後から声がかかった。僕はぎょっとして、振り返る。そこにはミサキがいた。心配そうな表情を浮かべている。


 特急列車が、すぐ目の前を轟音を立てながら通り過ぎた。

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