第7話
――無機質な機械音が響く白い部屋。結花の状態についていくら説明を受けたところで、俺にはまったく理解ができなかった。
だって、今朝まで元気だったのだ。一緒に目玉焼きを食べて、珈琲を飲んで、キスだってして、笑って別れたのだ。
「力及ばず、申し訳ありません」
結花は死んだ。いくら呼びかけても目を開けることはない。笑って返事もしてくれない。結花はもう、遠くへ行ってしまったのだ。
「脳死……」
病院独特の匂いが室内を満たしている。
あれ。俺、どうやってここまで来たっけ?
どうして、結花はこんな硬いベッドで寝ているんだっけ。
「残念ですが、現代の医療では、結花さんの状態は死とみなされます」
どうして、結花は人工呼吸器をつけているんだ?
なんで、お義母さんは泣いてるんだ?
「そんな……だって、温かいのに。息だってほら、してるじゃないですか」
「これは、人工呼吸器をつけてるからで……」
医師が控えめに言い直す。
医師に目を向けると、表情こそ悲しげにしていたものの、涙の跡はない。俺はそのまま隣に佇んでいたスーツ姿の女性へ視線を移した。かちりと目が合うと、女性が一歩前に出る。
「お気持ちは察します。それで、少し私の方からもご家族にお話をさせていただきたいんですが……」
「あなたは?」声を震わせて、お義父さんが訊ねた。
「こちらはJOTの
医師が事務的な口調で女性を紹介し始めると、もう俺の耳にはどんな言葉も入ってこなかった。
俺は涙ひとつ流せないまま、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
葬儀も四十九日も、どのように過ぎていったか覚えていない。ただ、結花のいなくなった部屋は驚くほど広くて、なんの匂いもしなかった。
雨が大地を濡らしていく。結花がいなくなっても、地球は変わらず回っている。朝が来て日が暮れて、明日が来る。
「行ってきます」
誰もいない部屋に吐く呼吸は、驚くほど響く。そして、帰ってきても「おかえり」は聞こえてこない。真っ暗な部屋。電気もつけずにベッドに倒れ込む。どんどん部屋の中から結花の匂いが消えていく。
涙が出たのは、結花がいなくなって一年経ってからのことだった。きっかけがなんだったかは覚えていない。ただ、その涙は一度溢れ出したら一向に止まらなくて、俺は吐くように泣いた。
結花がいなくなって、俺は心を失くした。そして俺は、失くしたその心を未だに取り戻せないまま、一年、また一年と時を無駄に過ごして今に至る。
四角い写真立てだけが、勝手に色褪せていく。
――ピーッ!!
「りっちゃん? ヤカン沸いてるよ」
「……」
「りっちゃん? りっちゃんってば!」
すぐ耳元でつばめの声がして、ハッとする。
「あっ……わ、悪い」
気がつけば、ヤカンのお湯も鍋のお湯もマグマのようにぐつぐつと沸いていた。
「やべっ」
慌てて火を止める。
「もー、りっちゃんてば、なにぼんやりしてるのかなぁ……」
「ごめん」
俺は虚ろな瞳のまま、形ばかりの謝罪をしてラーメンを作ったけれど、出来上がったラーメンは、砂のようになんの味もしなかった。
*** *** ***
つばめと仔猫との奇妙な同居生活が始まって三日目の夜。
俺は今の状況をどうにかしようと必死に頭を捻った。
「――ねぇ、明日、カラオケ行かない?」
最近ぼんやりしがちだった俺を、つばめはきっと気遣ってくれたのだと思う。
けれどその控えめな声が逆に耳に触って、俺はただ「後でな」と言うことが精一杯だった。
つばめはなにも言わず、黙って俺を見ていた。
また、ある日。
「……ねぇ、その写真はなに? 昔の彼女?」
これまで、つばめが俺の過去に干渉してくることは一切なかった。
「お前には関係ないだろ。約束忘れたのか」
不機嫌を露わに返すと、つばめもムッとしたのか、刺々しい口調で返してきた。
「別れたんでしょ? それなら、さっさと別の人探した方がいいじゃん。いつまでも未練たらしくいるとか、人生無駄にしてるよ。なんなら私が……」
「子供が知ったような口聞くな」
背中を向け、夕食の残骸を片付け始める。
「ちょっと、怒んないでよ」
「怒ってねぇよ」
「怒ってんじゃん!」
「怒ってねぇっつってんだろ!」
思わずシンクを叩いた。ガチャンとガラスの大きな音が部屋を支配する。その瞬間、つばめはビクリと肩を揺らした。大きな瞳に、みるみる涙が盛り上がっていく。
ハッとした。
「……ごめん」
小さく謝ると、つばめは口を引き結んで、さっとうしろを向いてしまった。
「私、先寝るね」
俺はなにも言えないまま、小さくため息を漏らした。
この日が近づくと、俺はどうしても余裕がなくなる。つばめにまで当たり散らして、本当、最低だ。
寝る直前、つばめの部屋の前に立つ。
「つばめ。起きてるか」
返事はない。
「さっきはごめん。明日、仕事から帰ってきたら、カラオケ行こう。な?」
「……うん」
小さく返事が聞こえてきて安堵する。
「じゃ、おやすみ」
つばめは、とにかくいろんな所へ行きたがった。カラオケや、デパート、幽霊が出そうな廃墟にも興味を示したし、今一番人気だという映画を見たいとも言った。
俺は言われるままつばめの好きなところに連れて行ってやったけれど、つばめが行きたいというところは結花の面影が色濃く残っていて、やはり心から楽しむことはできなかった。
「プラネタリウム?」
こまごまと洗濯物を畳みながら、つばめはいつものようにおねだりしてくる。
「うん! 新しくできたって言ってたでしょ? 私、やっぱりあそこ行ってみたい!」
「あー……まぁ、いいけど」
町内のプラネタリウムは、数年前にできた施設だ。その施設は結花が亡くなってからできたものだったので、俺もまだ行ったことはなかった。
「やった! じゃあ、明日行こ!」
「仕事帰りだぞ?」
「うん!」
嬉しそうに歯を見せて笑うつばめは、やはり童顔で。なぜか分からないけれど、その笑顔を見ていたら、無性に胸の辺りが痒くなった。
涙には、いくつか種類がある。
悔し涙、嬉し涙、そして、悲しくて流す涙。細かく分ければもっとあるだろう。感動したときに思わず流れる涙とか、欠伸したらちょこっと出る生理的な涙とか。
約束通り、つばめを連れてプラネタリウムに行ったその日。つばめは、つぎはぎの空に映し出された満天の星を見て、静かに涙を流していた。
リクライニングのシートに寝転ぶ俺とつばめ。
隣ですすり泣くつばめに気付きながらも、俺はかける言葉を見つけられず、ただじっと空の物語を眺めていた。
二人とも言葉少なに、坂道を並んで歩く。
つばめは珍しく「楽しかったね」も、「綺麗だったね」も、なにも言わなかった。
「……綺麗だったな、星」
沈黙に耐え切れず、俺はつばめのセリフを奪って言った。
「……そだね」
明らかにテンションが低い。
「……つまんなかったか?」
「ううん。すごく楽しかったよ。土星のキャンディも買えたし」
「……そっか」
本当は分かっていた。
つばめは、プラネタリウムがつまらなくて黙っているわけではないのだろうと察するけれど、そう思うだけでなにも聞けずにいた。
しかし、同居を始めるときに『お互いのことには深く干渉しない』と約束した以上、彼女にそういった内容の質問をするのはタブーだ。
「……私、やっぱり……」
つばめは背中越しになにかを言いかけたけれど、結局家に着くまでその言葉の続きは分からずじまいだった。
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