第8話


 そして、つばめがやって来て一週間が経った。つばめが来たからというもの、俺の部屋はかなり変わっていた。


 家具の配置や柔軟剤の匂い、洗濯物のたたみ方まで、一週間前の部屋とは見違えるほどガラリと変わっている。

 俺の部屋に、結花の面影はほぼなくなっていた。そしてそのことに、なぜか少しだけほっとしている自分がいた。


 しかしその夜、事件は起こった。つばめが俺の琴線に触れたのだ。


「なに……してるんだ?」


 つばめの手には、なぜか婚約指輪があった。無論、彼女のものではない。俺と結花のものだ。結花に送るはずだったもの。

 それを、なんで……。


 喉がカラカラで、上手く言葉が出なかった。

「あ、ねえねえこれってさ、もしかして婚約指輪?」


 つばめは部屋の掃除中、たまたま見つけたのだろう。つばめはまるで宝物を見つけた子供のように言った。


「ねぇこれ、私にちょうだい」


 これまでつばめは、行きたいところを訴えたりはしても、なにかを欲しがったことは一度もなかった。それなのに……よりによってなんでそんなものを欲しがるのか、まったく理解できない。


「ダメに決まってんだろ。ほら、返せ」

 しかし、その日のつばめは頑なにその指輪を握って、引き下がらなかった。表情を固くして、じっと俺を見つめている。


「お願い。これ、欲しい」

 真剣な顔をして、つばめは言う。

「……だから、それはダメなんだって。お前には、別の指輪を買ってやるから」

「やだ。これがいい」


 駄々を捏ねるつばめ。しかし、なにに代えてもこれだけは譲れない。


「つばめ。それは、昔付き合ってた人に送るはずだったものなんだよ。だから、ダメなんだ。お前だって嫌だろ? 別の人のために買ったやつなんか……」


 努めて冷静に、諭すように言う。


「なら、今その人は? 会ってないんだよね? もう別れたならいらないよね? それなのになんでまだ持ってるの? おかしいよ。前にも言ったけどさ、別れた人のことなんて早く忘れなよ。ケチ臭いこと言わないで、私にちょうだいよ」


 つばめの言葉に、ぷちんとなにかが切れる音がした。

「いい加減にしろ! ダメだって言ってるだろ!」


 聞き分けのないつばめに思わず声を荒らげると、つばめは肩をびくりと揺らした。大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。


 その顔を見て、ハッと我に返る。


 額を押さえた。

 どうして俺は、同じことを繰り返しているんだろう……。


「……ごめん」

 頭を掻きながら謝ってみるものの、つばめの表情はどんどん歪んでいく。つばめは逃げるように家を飛び出していった。

「つばめっ!」


 足元にユイカが擦り寄ってくる。

「なんでだよ……」


 どうしたらいいのか分からない。結花以外の女性と付き合ったことのない俺に、家出少女の扱い方など知るわけもない。


 あの指輪はなにがあってもあげられないものだ。ずっと、なにがあってもそれは変わらないと思っていた。


 なのに、なのに……。


 なぜ俺は、こんなことなら指輪のひとつくらい、つばめにあげればよかったなんて思っているんだろう。あんなに大切にしていた、結花との思い出なのに。


 漆黒の帳を下ろした町は、音のない雨に濡らされていた。あの日と同じ薄暗い雲の下、雨が斑に地面を打ち付けている。


 傘を差し、河川敷に向かう。生い茂った背の高い草の中、そこにうずくまるようにして、彼女はいた。


「……風邪引くだろ」

「……引かないよ」

「こんな暗い時間に家を飛び出すなんて、危ないだろ」

「……危なくないよ」

「ったく……」


 こいつはいつも、ああ言えばこう言う。


 それでも、つばめは顔を上げない。俺は仕方なく、つばめの隣に座り込んだ。


「さっきは悪かったよ。怒鳴ったりしてごめんな。でも、あれは大切なものなんだ。誰より大切な人への贈り物だったんだよ」

 ポンポンと頭を撫でてやると、つばめの後頭部は思っていた以上に小さかった。


「……分かってる。全部、分かってる」

 少しだけ声を柔らかくして、つばめが首を振る。

「だって、あの部屋……五年前から時が止まってたもの」


 つばめの言葉に、俺は目を瞠った。


「え……?」


 今、なんと言った?

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