第6話


 ――あの日、この世は色を失った。


「結花が、死んだ……?」


 結花の母親からの電話で、俺は幸せの絶頂から絶望のどん底へと突き落とされた。

 五年前の八月、結花は突然この世を去った。仕事中の事故だった。デパートの地下で料理人として働いていた結花は、ガス漏れ事故の犠牲者のひとりだった。搬送時、辛うじて意識はあったものの、結花は結局、運ばれた先の病院で一酸化炭素中毒で死んだ。


 その日、なにごともなければ、俺は彼女に予約したレストランでプロポーズをする予定だった。用意していたのは、結花にぴったりのピンクダイヤモンドが埋め込まれた指輪。結局それは結花に渡せないまま、今も部屋の箪笥の奥に眠っている。


 この町は、地獄だ。そこかしこに結花との思い出が詰まっていて、歩けば歩くほどもうこの町に彼女がいないことを突きつけてくる。


 部屋に籠っていればそれはそれで、次外に出たときにほんの少しでも変わってしまった町並みを見て、息が詰まり、涙が出そうになる。

 何度も死のうと思った。でも、できないまま数年が経っていた。


 あの日だったそうだ。

 結花の命日に死のうとしていた俺を引き留めたのは、突如白雷のように現れた葉月だった。


 彼女は一体、何者なんだろう……。



 ある日、仕事から帰るとユイカが玄関の前で待ち構えていた。

「みゃう」

 すかさず俺の足に擦り寄ってくる。どうやらご飯をご所望らしい。

「ユイカー。猫缶!」

 台所から声が聞こえる。

「あっ! りっちゃん、おかえり!」

「あぁ、ただいま、つばめ」

「ただいまのちゅーするー?」

「……なに言ってんの」

 一瞬、迷ってしまった。

「風呂、入ってくる」

「おー」


 つばめにバッグを預け、風呂場に向かう。


「…………」

 立ち止まり、名前を呼ぶ。

「つばめ」

 パタパタと軽快な足音が近づく。

「りっちゃん? なにー?」

 駆け寄ってきたつばめの腕を掴み、引き寄せる。そのままさらりと盗むようなキスをして、風呂場に逃げた。


 俺は、なにをやっているのだろう。

 風呂場で頭を抱えた。



 風呂から上がり、顔を洗ってつばめが用意してくれていた部屋着に着替える。

「……ん?」

 着慣れたはずの服から、嗅いだことのない花の香りがする。洗剤が置いてある棚を見れば、今までと違う洗剤と柔軟剤が置かれていた。


 リビングに出て、つばめに訊ねる。

「なぁ、これ洗剤変えた?」

「うん。切らしてたから、新しいの買っておいたよ」

「わざわざ別のやつを?」

「なんかこっちの方がいい匂いだったから」

 洗面所から訊ねると、呑気な声が返ってくる。


 これまで俺は、結花が使っていた洗剤を使っていた。

 変えなかったのは、結花の気配がどんどんなくなっていく無常に抗うため。


「そっか……」


 あんなにこだわっていたはずなのに。それなのに、衣服から香る名前も知らない花の香りに、少しだけ、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。

 

「……今日、夕飯は?」

 なんでもない顔をしてリビングに戻ると、葉月はまだユイカとじゃれていた。

「りっちゃんの味噌ラーメンが食べたい!」

「またかよ。体に悪いぞ」

「だってりっちゃんが作ると美味しいんだもん」

 言いながら、つばめは猫のように絡みついてくる。

「インスタントなんだから、誰が作ったって一緒だろ」

「そんなことないよ!」


 にっこりと笑うつばめに、俺はどうしようもなく胸を掻き乱される。

 こんな気持ちになるのは、かなり久しぶりだ。それでも悪くないと思っている自分がいる。

「……仕方ないな……」

 なにをやっているんだ、俺は。

 コンロの火をつけながら、俺は途方に暮れた。

「みゃーみゃー。飽きちゃった? ユイカちゃん、ほらほら、あーそびーましょー」

 仔猫とじゃれるつばめを見やる。その横顔はあどけなく、女というより少女と言った方がしっくりくる。

 どうかしている。つばめは高校生だ。結花じゃない。それなのに……。

「つばめ」

 手を引き、彼女の小さな身体を抱き締める。

 この世は無常だ。

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