第五話
新学期が始まって、初めての休日。朝の六時に目を覚ました
そして、屋敷の掃除を始める。毎日メイドたちが掃除しているが、それでもこの場所に住ませてもらっているから、と伊織は積極的に家事を手伝っていた。
あらかた掃除を終えたところで、百姫の起床時間になる。彼女を起こすべく、伊織は百姫の部屋へと向かった。
「お嬢様、失礼します」
ノックをして、扉を開ける。意外なことに、百姫は既に起きていた。そして、着替えの真っ最中だった。具体的には、寝間着を脱ぎ捨て、下着を身に着け終わったところだった。
伊織は一瞬固まったが、すぐさま部屋を出ようとする。
「──失礼しました、出直します」
「別にいいわよ、着替えくらい。伝え忘れてたこともあるし」
「・・・・・・左様ですか」
羞恥心というものが無いのか、気にした様子のない百姫。伊織は出来る限り直視しないようにしつつ、部屋の入り口付近に立つ。
「それで、伝え忘れたこととは? お出かけのご予定ですか?」
「今日、
「・・・・・・・・・・・・は?」
思わず伊織は百姫へ振り向き、口をあんぐり開ける。それほどまでに、驚いていた。
唖然としている彼を百姫は可笑しそうに笑いながら、白いシャツを羽織り、ボタンを
「お嬢様、そういった事柄は事前に、せめて前日にはお伝えください」
「忘れてたのよ。誰にだって物忘れくらいあるでしょ。
それより、いいのかしら。そろそろ到着する頃よ?」
「・・・・・・すみません、失礼します」
伊織は苦い顔をなんとか隠し、頭を下げて退室する。来客、それも相手が雛希ともなれば、彼にも準備の時間が必要だった。
東雲家の屋敷の前に、一台の車が
鮮やかな金髪の少女だ。染色したような違和感のない、自然のブロンド。それをツーサイドアップにまとめ、フリルのあしらわれた白いシャツに首元のリボン、黒いレースのスカートと、全体的に清楚な出で立ちだ。彼女こそ、百姫の友人であり彼女と同じく名家の令嬢、
彼女は車を降りるなり、玄関先の人物に気付いた。雛希をお辞儀と共に出迎えたのは、黒髪のメイドだ。長い髪をツインテールに結び、肩口やスカートにフリルの付いた、柔らかい印象を与える姿だった。
「あ、その・・・・・・こんにちは」
雛希が声をかけると、メイドは頭を上げてニコリと微笑み、手で玄関を示した。そのまま彼女を案内するように歩き出す。雛希のメイドもまた、深く礼をして見送った。
「そ、その、えっと・・・・・・あぅ」
廊下を歩きながら、雛希は先導するメイドにチラチラと視線を向け、何かを言おうとしては失敗する。それを気にかける様子もなく、メイドは黙って進んでいった。
暫くして、メイドは足を止める。そして、目の前の扉を開けて、先を雛希へと譲った。
「いらっしゃい。一ヶ月ぶりね、雛希」
「百姫ちゃん! 久しぶり」
その部屋──居間で紅茶に口を付け、くつろいでいた百姫は、雛希の姿を認めるなり微笑む。後ろには、メイド長である
雛希を案内していたメイドは、椅子を引いて彼女を促す。ちょうど、百姫と対面する形になる席だ。
「ぁ、ありがとう、ございます」
お礼を言いながら、雛希は席へ腰掛ける。メイドは一礼して下がると、続けてティーカップを用意し、百姫のものと同じ紅茶を入れた。
「その様子だと、まだ人見知りは治ってなさそうね。大丈夫なの? 来年には大学生でしょ?」
「うん、ちょっと不安、かな。今の友達とも別れることになっちゃうだろうし・・・・・・」
「あら、その『今の友達』には、私も含まれていたりする? 残念ね、アナタとは友人で居たかったのだけど」
「ち、違うよ!? 高校の友達って意味で、だから・・・・・・」
顔を赤くしつつ弁明する雛希に、百姫はふふ、と笑った。
「冗談よ。からかっただけ」
「もう・・・・・・! 百姫ちゃんは本当に・・・・・・!」
二人のやり取りは、見ていて微笑ましいものだった。実際、永美は満面の笑みを浮かべ、やや息づかいが荒くなっている。その隣に立ったメイドは、表情こそ変わっていないが気疲れが見えた。
百姫と雛希は、小学生以来の友人である。百姫の父が、当時友達の居なかった百姫を
年齢や境遇が近いこともあってか、二人はすぐに仲良くなり、今に至るまで交友関係が続いていた。雛希の方がやや年上だが、そうした年齢差などまるで気にしないで、二人は接している。
「百姫ちゃんこそ、高校生活はどうなの? お友達できた?」
「さぁ? 友達かどうかは知らないけど、隣の席の男子をからかって遊んでるわね」
「ぇ、えぇっ!?」
予想していなかった発言に、耳まで赤くなる雛希。それと同時に、黒髪のメイドが
「よ、良くないよそういうの! 男の子は獣なんだよ!? いつ襲ってくるかわかんないんだよ!?」
「大丈夫よ、彼に限ってそれは無いわ」
「か、かかか彼!? もうそんな関係になったの!? まだ新学期始まってすぐだよ!?」
あわわわ、と顔を手で覆って身をよじる雛希に、百姫は喉を鳴らして笑った。
「ただの三人称よ。それと、隣の男子って
「そんな、もう呼び捨てするような仲に──って、木戸くん!? 隣の席が木戸くん!?」
興奮のままに叫ぶ雛希。百姫はそんな反応を楽しんでいるのか、愉快そうな笑みで彼女を見ている。
「でもそっか、百姫ちゃんと木戸くんって同い年だったね、そう言えば・・・・・・」
呼吸を整えつつ、雛希はチラッと横へ目を向ける。視線の先に居るのは、黒髪のメイドだ。
「そ。
「ぁ、あんまり、木戸くんを困らせたらダメだよ?」
「大丈夫よ。アイツそれなりに頑丈だし。
それに、アイツは私の
百姫の言い方にムッとしたのか、雛希は不満を表情に出す。それを見てやりすぎを悟ったのか、百姫は脱力して息を吐く。
「冗談よ。私だって、アイツに壊れられたら困るし。気に入ったモノは大切にするタイプなの、私」
「もう、またそんな言い方して・・・・・・」
事情を知らない人が聞いたら誤解を招きそうな言い回しに雛希が頬を膨らませると、百姫は悪戯っぽく笑った。
「それに、良い傾向じゃないかしら。まさか木戸のことでアナタがそんなに叫ぶなんて思わなかったわ」
「さ、さっきのは・・・・・・お願いだから忘れて・・・・・・」
「良かったわね、木戸。喜んでいいんじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・」
メイド──女装した伊織は、無言のまま目線で抗議するも、百姫には取り合って貰えない。
「それじゃ、後はお二人でどうぞ。
永美、行くわよ・・・・・・なんかアナタ、顔
「少し熱くなってしまいまして。お気になさらず」
そんなやり取りを交わしながら、二人は居間を後にする。そして、伊織と雛希が残った。
「ぁ、えっと、その・・・・・・」
二人きりになった途端に、雛希は顔を赤くし挙動不審になる。というのも、彼女は人見知りが激しく、特に男性がかなり苦手なのだ。百姫に聞いたところによると、小学校から女子校に通っていた雛希は男子との接し方がわからなくなってしまい、家族以外の男子とは同じ空間に居るだけでパニックに近い状態になってしまうのだとか。
それを改善したい彼女の気持ちを汲んだ百姫は、伊織に女装させて、徐々に彼女を慣れさせようとしているのだ。こうして声を出さずにいるのも、声で男だと感じてしまうと雛希がパニックになる可能性があるためだったりする。
「あ、し、喋って貰って、大丈夫、だよ?」
「・・・・・・では。失礼します」
「っ!!」
伊織が努めて普通のトーンで話すと、雛希の肩がビクッと震える。
「大丈夫ですか?」
「あぅ・・・・・・はぃ・・・・・・」
彼を男として改めて認識してしまったのか、雛希は視線を右往左往させ、落ち着かない様子だ。やはり、外見を女性に寄せても、声が男だと駄目らしい。前に永美に言われたように、女声の練習をするべきかとすら考えてしまう。
「そ、その・・・・・・手、握って貰っても、いい?」
「畏まりました」
伊織が頷くと、雛希が手を差し出してくる。そのまま握ってもいいが、それだと威圧感を与えるだろうと考えた伊織は、その場に
「ひゃっ・・・・・・!」
それでも慣れないのか、雛希は小さく悲鳴じみた声をあげる。伊織は心配そうに彼女を見た。
「・・・・・・これくらいにしておきますか?」
「いっ、ぃえ・・・・・・!」
額に汗を浮かべながらも、雛希は続行の意思を示した。ならば、従者である伊織は付き合うのみだ。
「こ、今度は・・・・・・私から、触れてみたい、です」
「どうぞ」
一度手を放し、伊織は立ち上がって両腕を前に出す。どう触ってもいい、という意思表示だった。
「じ、じゃあ・・・・・・」
そして、目を
「ひぃやぁっ!?」
甲高い声と共に、雛希が飛び
「か、硬かった・・・・・・分厚かった・・・・・・!」
どうやら、彼のそれなりに鍛えられた胸板は、メイド服
「し、失礼しますっ! ごめんなさいっ!」
耐えられなくなったのか、雛希は部屋を飛び出していく。
これでも、以前よりはかなりマシになってきているのだ。前は二人きりになった途端に顔を真っ赤にして痙攣し、声を出せば悲鳴と共に逃げ出し、うっかりぶつかろうものなら気絶されていた。スキンシップが出来ているだけ、前進している──はず。
お嬢様というのは、必ずどこかに問題がある存在なのだろうか。伊織は考えるのも馬鹿らしくなって、思考を放棄した。
「ご苦労だったわね、木戸。そろそろセクハラで
「私はお嬢様に言われたから、西園寺お嬢様に付き合っているだけです。訴えられる筋合いはありません」
その日の夜。百姫に呼び出された伊織は、彼女の部屋に居た。
「だって、自分の胸を触らせたって聞いたわよ? 人畜無害そうな顔して、意外と変態なのね、アナタ」
「あれは事故です。少なくとも俺──私は意図していません」
伊織としては、腕にでもタッチしてもらうつもりだった。まさか、前を見ずに手を伸ばしてくるなど、想定できるはずもない。
この話題を続けるとずっとからかわれると察した伊織は、先程から気になっていることを
「ところで──何で私はまだメイド服を着せられているのでしょうか、お嬢様」
そう、伊織は未だにメイド姿だった。髪型もツインテールから変えさせてもらえず、着替えも許されていない。
「あら、似合ってるわよ? 明日からそれで仕事して貰おうかしら」
「冗談はほどほどにしてください。この格好では上手く動けません」
ツインテールは邪魔だし、フリルは視界に入る度に気になるし、ニーハイソックスとスカートの間にある僅かな素肌がスースーして落ち着かない。一ヶ月に一回ほどのペースでメイド服を着せられている伊織だったが、用意しているのは永美だった。そして、彼女は毎回
「あながち、冗談でもないのだけれど。ま、いいわ。それも可愛いけど、執事服の方が気に入ってるし。
それじゃ、対戦ゲームするから付き合いなさい」
「・・・・・・このままで、ですか」
「えぇ。そのままで」
伊織の最後の抵抗は、満面の笑みで切り捨てられた。内心で溜め息をつき、彼は諦めて差し出されたコントローラーを握る。
「あ、そうだわ。そんなにその服が嫌なら、私が勝つ度に脱いでいってもらおうかしら。野球拳って言うのよね、確か」
「・・・・・・はい?」
「気になっていたのよね、今のアナタの下着がどっちか。これで確かめられるわ」
伊織の首筋を、冷や汗が流れていく。彼女の目は、本気だった。本気で、こちらを脱がすつもりだ。
「勿論、負けたら私も脱ぐわ。そうじゃないと公平じゃないし。これでフェアよね」
「待ってくださいお嬢様、今からやろうとしてるの、お嬢様が一番得意なゲームですよね? 全然フェアじゃありませんよね?」
「あら、アナタも何回かやったことあるでしょ? 初見のゲームじゃないだけ感謝しなさい」
逃げ道は無いと悟った伊織は、色んなことを諦めてコントローラーを握った。こちらが脱がされる前に、せめて少しでも百姫の服を剥ぎ取ろう。そうすれば、羞恥心に耐えかねてゲーム終了するかもしれないし。
余談だが、彼女が伊織に対して恥ずかしさを感じないことを思い出したのは、下着姿になるまで敗北した後だった。
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