第二話
入学式の翌日。
身体のしんどさを誤魔化すために、顔を洗うべく部屋を出ると、一人の女性が扉の前に立っていた。
「おはようございます、木戸くん。
昨日はお嬢様と夜通しくんずほぐれつしていたようで、大変羨ましく思います」
「・・・・・・おはようございます、林道さん」
その背丈の高い微笑を浮かべた女性は、
立場上は上司である彼女に、伊織は寝不足でやや険悪な目付きを更に細めて彼女に向ける。
「朝からお元気ですね。俺はお嬢様のゲームに付き合わされただけです、そんなことしてませんよ」
「なるほど、お嬢様とR18なゲームを朝まで。大変いやらしいですね」
「普通の! ハンティングゲームです!」
思わず叫ぶ伊織だが、気にした様子のない永美は表情を変えないまま納得している。
「沢山の女の子をハンティング・・・・・・なるほど、リアルギャルゲーですか。羨ましい」
「どうしてそうなる・・・・・・」
「冗談はさておき。そろそろ登校時間では?」
「え? いや、まだ余裕がありますけど・・・・・・」
「ほら善は急げと言いますし。さっさと登校なさってください私はお嬢様の寝込みを襲ってくるので」
「オイ待て。待つんだ変態メイド」
「失礼な。罵るなら女声でお願いします」
「出る訳ないだろ・・・・・・」
「今からでも遅くありません。さぁ、ぜひ女声トレーニングを!」
ズイッと近寄ってくる永美は、その背丈もあってまるで壁だ。そんな彼女に、伊織は再度溜め息を吐く。どうしてこんなのがメイド長なのだろうか。ああ、仕事は出来るからか。
伊織が肉体的・精神的な疲労を理由に学校を休むことすら視野に入れ始めた頃、廊下の突き当たりの扉が乱暴に開かれた。
「ちょっと!? 朝からうるさいんだけど」
出てきたのは、当然二人の主である百姫だ。昨日に引き続き寝不足のため、目元には伊織と同じく隈ができている。起きてすぐなのか着ているのは白シャツ一枚で、その薄い布地の下には下着が見えていた。
反射的に目を逸らした伊織は、なるべく彼女の方を見ないようにしながら言う。
「お嬢様、部屋を出るときはもう少しちゃんとした格好を──」
「うるさいわね、朝から騒がしいアナタ達のせいでしょ? 私は寝るって、前もって言っておいたわよね?」
彼の忠言は、睡眠不足もあってストレスフルな百姫に切って捨てられた。
「・・・・・・はい。申し訳ありません」
「反省して。今度何かお詫びをしてもらうから」
「畏まりました」
一体、何をさせられるのか。内心
「それと。なに勝手に制服着てるの? 私、まだ今日アナタの執事姿見てないんだけど?」
「・・・・・・はい?」
その言葉に、思わず頭を上げて百姫の顔を見る。彼女は見るからに不機嫌で、それは表情と態度にわかりやす過ぎるほど現れていた。そして、疑問を抱いた顔の伊織に何が分からないの、と視線を刺してきている。
「失礼ながらお嬢様、日付が変わってからも私は貴方とゲームしていましたよね? 私の執事服は本日
「なにバカなこと言ってるの。起きてからが今日、寝るまでが昨日よ。決まってるでしょ?」
どうやら、嫌がらせでも何でも無く、本気で彼女はそう考えているらしい。そんな理不尽な、と伊織は心の中で嘆いた。
「・・・・・・承知しました。今すぐ着替えます」
「えぇ、そうして。
で、永美。何を突っ立っているの?」
「失礼致しました。百姫お嬢様のお姿があまりにお美しかったので、つい」
「そう、ありがと。でも私、もう着替えるから。手伝って」
「畏まりました」
部屋に戻ろうとする伊織の耳に、そんなやり取りが聞こえてくる。今の彼女にその人が騒がしくなった元凶です、だなんて言えるはずもなく、自室に入った彼は諦めて制服を脱ぎ始めた。
その後、執事服で改めて百姫を見送り、大急ぎで着替えて登校した彼は、教室に着くなり自分の机に突っ伏する。寝不足な上、心身共に疲弊していた。これから一日授業を受けなければならないという事実が、苦行でしかない。
「よーっす伊織。なんか死んでんな?」
「悪い、
元々、ロングスリーパー気味の伊織にとって、睡眠不足はかなりの負担だ。それも徹夜ともなれば、動けなくなるのは当然だった。
「
「あ、し、東雲さん」
右側からの声に顔を少しだけ上げて視線を向けると、心配そうに眉をハの字にした百姫がこちらを見ていた。彼女が会話に入ってくると思っていなかったのか、積樹が言葉に詰まっている。
「・・・・・・いや、大丈夫」
「そうですか? 無理はなさらないでくださいね」
百姫はそう言って、席を立つ。何か野暮用だろうか。
それを見送った積樹は、興奮した様子で伊織の肩を
「優しすぎないか
「・・・・・・そうだな」
寝たいと言ったはずなのに揺さぶられている伊織の内心は、百姫への文句で溢れかえっていた。誰のせいだと思ってるんだ、というか何であっちは二日間ほぼ寝ないで平気なんだ。
違い過ぎる性格に影武者や二重人格を疑い始めた辺りで、ホームルーム開始のチャイムが鳴る。伊織は結局、一睡もしないで授業を受けることになった。
幸い、新学期始まってすぐということもあって、授業は簡単な自己紹介をする、といった内容ばかりだった。クラスメイトの半分以上は中等部から顔を知っているのもあって、伊織は自分の番以外は殆ど寝て過ごせた。教師からは目を付けられるかもしれないが、そんなことを言っている場合じゃない。どうしても睡魔は襲ってきたし、知力の無い現状では太刀打ちできなかった。
そうして授業を寝ながら過ごして、今はようやくの昼休み。一向に解消されない眠気を消費するべく、伊織は保健室で本格的に寝ようとしていた。
「伊織ー、昼どうする? 動くのキツいなら購買で何か買ってこようか?」
「いや、保健室で寝てくる。メシは後で食べるよ」
「そうか、お大事にな~」
ヒラヒラと手を振って数人の男子と共に教室を後にする積樹。彼の人の良さに伊織は頬を
教室のある二階から、一つ下がった一番端の部屋が、保健室だ。保健委員でもないのに、入学二日目からここに来ることになるとは、まるで考えていなかった。
コンコンと、屋敷の扉と同じようにノックして、引き戸を開ける。
「失礼します」
「あら、いらっしゃい」
入ってまず目に入るのは、全体的に白い壁だった。次に、同じく白い棚やラックと、白衣を着た養護教諭が視界に映る。
「すみません、寝不足なのでベッドを貸して頂けませんか? 昼休みの間」
「貴方、一年生よね? ダメじゃない、授業初日からそんなじゃ」
苦笑しつつ、保健室の先生はベッドへ案内してくれる。彼女に感謝して、伊織は白く小さいベッドへと横になった。その固さに、自室のベッドはそれなりの値段だったことを思い出す。知らない間に、かなりあの家の暮らしに慣れていたらしい。
「それじゃ、何かあったら言ってね」
養護教諭はそれだけ言うと、ベッドを囲うようにカーテンを閉めて自分の仕事に戻っていく。
そう言えば、自分は枕が変わると眠れない体質なんだった、と伊織が気付いたのは、ベッドに入って五分ほど経過した頃だった。どうにも寝付けず、何度も寝返りを打って、はたと思い出したのだ。
思考力が完全に落ちていた。これなら教室の机の方がまだ眠れるだろう。失敗を悟った彼は額に手を当てる。ついでに、顔にかかっている長い髪を払った。
そうしていると、カラカラと保健室の扉が開く音がした。彼の入ってきた時には先生の他に誰も居なかったが、やはり昼休みは怪我する生徒は出るのだろう。
「失礼します。木戸くんの様子を見に来ました」
しかし、予想に反して入り口からは聞き慣れた声がした。学校でも家でも、嫌と言うほど耳にする──百姫の声だ。
「あら、こんにちは。木戸くんっていうのは、さっきの生徒かしらね。
それは差し入れ?」
「はい、そんなところです」
「そう。私、ちょっと他の先生に呼ばれたから行ってくるけど・・・・・・二人きりだからって、ヘンなことしちゃダメよ?」
「ふふふ、ご心配なく」
眠気はあるものの意識はハッキリしている伊織は、二人の会話が全て聞こえていた。そして『差し入れ』という言葉に疑問符を浮かべる。そんなもの頼んだ覚えは無い、特に百姫には。
新品の上履きの足音が響き、カーテンが開けられる。そうして彼女は、手に持っていた紙袋を伊織へと突き出した。
「やっぱり、眠れていませんでしたね。
どうぞ。永美に連絡して、貴方の部屋から枕を持ってきてもらいました」
「・・・・・・はい?」
百姫の言葉に、伊織の困惑は増すばかりだ。まず眠れていないことが何故わかったのか。どうして保健室に居ると知っているのか。
そういった疑問を口にしようとして、先に言うべきことに思い至る。
「えっと、ありがとう」
身体を起こして紙袋を受け取る。中身は枕だ。確かに、伊織が普段から使っているもの。
クラスメイトとして接するべきなのか、執事として
彼女はそんな彼の様子を見ながら、ベッドサイドのパイプ椅子に腰掛けた。
「私、これでも今回のことは反省してるの」
「・・・・・・へ?」
百姫らしからぬ発言に、意図せず重い
「アナタが寝不足に弱いってことを知らないで、徹夜させてゲームに付き合わせて。一日中キツそうなアナタを隣で見て、流石に申し訳なくなったわ」
「・・・・・・お嬢様」
あの百姫が、反省している。冗談でもなく、自分の身を案じている。その事実に、伊織は心から驚き、感動していた。高校生になって、ようやく思いやりの心を──
「いきなり徹夜は良くなかったわよね。徐々に睡眠時間を削って慣れさせていかないと」
「・・・・・・・・・・・・」
違う、そういうことじゃない。そう声にすることすらできず、伊織は絶句した。
「そうね、最初は睡眠時間を四時間にするところから始めましょうか。できるでしょ?」
「お嬢様、人には体質、個人差というものがありまして・・・・・・」
「わかってるわ。だから、少しずつやるって言ってるんじゃない」
何もわかってない。まず四時間の時点でかなりキツいのだ、伊織としては一日に七時間は寝ていたい。それをいきなり半分にして慣れろとは、無茶だ。
「ま、眠くなったら寝てもいいわ。アナタに私のベッドで寝る勇気があるのなら、だけど」
「・・・・・・途中で部屋に戻って寝る、というのは?」
「ダメに決まってるじゃない。寝落ちなら許してあげるから、ギリギリまで私に付き合いなさい。
それと、アナタが寝てても私は自分のベッドで眠るから」
そう言う彼女の口角は、愉快そうに
「あの、せめて林道さんに運んで頂くとか、できないでしょうか?
流石に同衾というのは・・・・・・」
「面倒。あと、私の
「・・・・・・左様ですか」
どうやら、伊織の身体を徹夜に慣れさせる計画の実行は、彼女の中で既に確定しているらしい。彼は慣れた枕の感触と睡魔に身を任せ、諦めて眠ることにした。
既に目を閉じていた彼には、愉悦とは別の感情も浮かべていた百姫の顔は、見えなかった。
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