第52話 一撃離脱

 オロチは農業用水として使われる溜池に半身を浸かって、相変わらず唸り声をあげている。


 街の北東に足場のいい礫砂漠に近い荒野がある。高低差のある丘や岩石などの障害物があればなお良かったが、平坦なサバンナの地形ではそこまで望めない。街の南の門から出撃して先に荒野に陣を敷いた。後はオロチを誘い込むだけだ。


 ランボーが、ギンと改めて戦術の打ち合わせをしたあとに、レンジに命令した。


「レンジ、わたしの左、十歩下がった場所で戦え。わたしが走れば走る、止まれば止まる、よければよける、わたしが死んだらギン博士に従う、ギン博士も死んだら逃げろ、いいな」


「わかった」レンジの心は恐怖と高揚が混ざって騒めいていたが、迷いようのない簡潔な指示を受けて少し落ちついた。


 ゾーイとチンチラが手を振りながらパトラッシュ旗下の陣に駆けていく。


 ギンが刀の柄でレンジの腰を軽くついた。思いの詰まった表情で、「まあ、なんとかなるだろう」とだけ言った。


「まだオーパーツの手配もしてないのに、慌ただしいね」


「覚えていてくれたのか」と言ってギンは微笑んだ。


 アカネマルがマムルークと正規軍から選抜した近衛兵を連れて、オロチを誘い出しに勇ましく駆けていく。レンジたちは馬を降りて待機した。


 アカネマルがオロチに向かって鉞を振り回しながらなにか叫んでいるのが見える。口汚い言葉を放っているに違いない、彼女はそういうのが得意だ。


 オロチの反応はすぐに現れた。水面に長大な槍を叩きつけると水飛沫が高くあがり、蛇の尾が激しくのたうった。


 アカネマルたちは素早く反転すると、全速でこちらに駆け戻ってくる。


 溜池からぞろりと身体をあげたオロチの全容が現れた。兵たちに動揺とも感嘆ともつかないどよめきが広がる。


 獲物を感知したオロチは魂を震わせるような咆哮をあげながら突進してきた。


「追いつかれないか」


 太刀を抜きながらギンがつぶやいた。オロチの突進はそれほどに早い、アカネマルの罵倒が通じたわけでもないだろうに、最初から怒り狂っている。


 ランボーの号令で前列の兵が前進して、オロチとの距離を調整する。


 カンナビの正規軍とマムルークの混成部隊に巨人族が二人配置されている。この部隊がもち堪えているあいだにランボーとパトラッシュ、アカネマルの選抜部隊がオロチを囲む作戦だった。


 サバンナの赤茶けた砂塵が舞いあがっていた。アカネマルたちの騎馬は全速で駆け戻っているが、すぐ後ろに迫られている。


 オロチが横薙ぎに振るった槍に最後尾の兵が引っ掻けられて馬ごと千切れて吹き飛んだ。


 目の前の光景に怯えて足が重くなる兵に、ランボーがさらに前進の指示をだす。


 アカネマルが走り抜けて本隊に合流する。前列の目前で急停止したオロチが鎌首をあげて強烈な威嚇の咆哮をあげた。


 全身が黒光りしていて、上半身は人間、まるで神話の神に似せたかのような完璧な肉体に秀麗な若い顔がのっている。性別はわからない。腹筋から下が文字通り蛇腹になっていて、蛇そのものの下半身は縄文杉のように太く長い。しかも素早く柔軟に動いて動きの予想がつかない。尾の先を立ててなんのつもりかぶるぶると震わせている。


 オロチの眼窩には底なしの暗さを宿した不気味な赤紫の光が揺れている。何億年も前から生きている古代種の生物にこんな印象を受ける奴がいる。明らかに生物としての種が遠い、なにも通じるところがない。見境のないぞっとするような殺意と怒りだけを放っている。


 遺跡に封印されている何千年もの間、闇の底でなにを溜め込んでいたのだろう。


 レンジの本能で感じるところがある。触れてはならない禁断の生き物だ。


「レンジ!」右前で太刀を構えるギンから鋭い声がかかる。


 ランボーがすでに走り出している。レンジは急いで後を追う。



 本隊との激烈な戦闘が始まっている。あの屈強なマムルークたちがボロ切れのように切り裂かれて吹き飛ばされる。カンナビ正規兵はすでに戦列を崩されつつあった。


 ランボーとパトラッシュの隊がそれぞれオロチの背後に回り込む。


「大勢でやっても無駄だ!」ランボーは落ちついている。「少人数で牽制しながら一撃離脱!」指示をだしながらオロチとの間合いをはかる。


 怒号が飛び交う戦場を、レンジは言われた通りに、しっかりと彼についていくことに集中した。


 オロチの速さに手こずりながらも包囲に成功した。二列目三列目からは、効果のほどはわからないにしても、弓矢と巨人族が投げる槍の援護が入った。


 的が絞れない苛立ちからか、オロチはさらに激昂しているように見える。兵に当たる当たらないに関係なく槍を振り回して、尾の先から不気味な威嚇音をあげる。


 巨人族の投げ槍が蛇の胴体部分へ突き刺さった。効いているのか、オロチは身の毛の世立つような咆哮をあげた。


 猛獣が襲いかかるようなスピードで、ランボーがオロチの右後ろにのたうつ長い胴体を斬撃する。どす黒い血が吹きあがったが、浅いように見えた。


 オロチが振り向きながらランボーへ繰り出した槍を、彼は最低限の動きでかわすと、もう一太刀斬りつけて素早く距離をとった。


 ランボーの体さばきは独特で、まるで踊っているように華麗だった。走っているというよりも跳んでいるように見える。あれにどうやってついていくんだ。


「こっちを向いてるぞ! さがれ!」ランボーが後ろのレンジたちに鋭く声をかける。


 パトラッシュの豪腕で投じられた槍がオロチの背中に命中した。槍が突き刺さったままオロチは向きを変える。


 対角線上のパトラッシュの隊が牽制をかけた。オロチは常に複数の方向から攻撃を仕掛けられて、その戦闘力と注意を分散され、削がれている。


 チンチラがオロチの正面を狙って素晴らしいモーションでアカネマルの手裏剣を投げた。


 彼女の長い手足と柔軟な身体を精一杯にしならせて投げられた手裏剣は、空気を切り裂く唸りをあげてオロチの横をかすめた。


 あっさり的をはずした手裏剣は真っ直ぐにレンジの方へ飛んでくる。ものすごい勢いで!


「うわ!」あのランボーが思わず悲鳴をもらしながら垂直に跳ねてよける。


 レンジは剣を放り投げて左に飛んで、ギンは右に受身をとってからくもかわした。


 遠くのチンチラがこっちを見ながら戯けたポーズをとった、それを見てゾーイが笑っている。なんて二人だ。パトラッシュまでつられて笑っている。


 アカネマルが、オロチにも動じない青毛の巨馬を駆って兵たちに指示をだしてまわる。


「距離をとって囲みなさい! 牽制しながら対角線の二組ずつ同時に攻撃を仕掛けて!」


「レンジ!」ギンから声がかかる。「ゾーイがなにかやりそうだ」


 周囲の兵士が激しく早く動くなかでゾーイだけがゆっくりとオロチとの間合いをはかっている。すり足でオロチの槍の射程の外ぎりぎりを動く。


 構えているのは違法な金で買った大剣。目も口も胸も尻も扱う武器も大きいとチンチラに評されていた。


 ゾーイは視線は落としたままゆっくりと呼吸を整える。オロチの二の腕から上は太すぎるし届かない、尻尾というか胴体も太くて切れない、動きも激しい。唯一剣が通りそうな手首を狙う。


 オロチが、一人正面で静止しているゾーイに狙いを定める。薙ぎ払う槍を大きく振り上げた左半身が後ろに流れて、右半身が前に残る。


 見計ったゾーイがオロチ右脇下の死角に飛び込んだ。裂帛の気合いとともに地面すれすれから飛びあがりながら斬り上げた剣がオロチの右手首を切る。


 黒い体液をまき散らしながら手首は吹き飛んだ。兵士たちの歓声があがる。


「牽制するぞ! 突っ込め!」ランボーの指示でレンジもギンも今度は遅れずに、オロチの背後に攻撃を仕掛ける。


 レンジは体重を乗せて太刀を突き入れる。なんて硬い。捻りながら引き抜いて後退する。懐に飛び込んでいたゾーイも素早く離脱に成功した。

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