第43話 空鯨の魔法

 レッドはデッキの端に座って、膝を立てて片足を外に下ろして酒を飲み続けている。レンジは少し離れて隣に座って皮袋から水を飲んだ。酔ってなければこんな危ないところではとてもくつろげないだろう。太陽が眩しくなってきたから西側の景色を眺めている。


「レッドは学生時代にどんなだったの?」


「読書と酒だ」


「今と変わらないじゃないか」


 酔いを覚ましにきたはずなのに、レッドはまだ酒を飲むのをやめない。それにしても酒の瓢箪が似合う男だとレンジは思った。


「マンボゥの前はあそこはソーマって居酒屋だったんだ。仲間と毎日のように飲んだ。その頃からここはとっておきの場所だったんだ」


 二人の視界を地平の果てと水平の果てが半分ずつ占めている。空と海の青が濃くなるにつれて雲はいよいよ白さを増していく。


「彼らとは一緒に革命を起こすはずだった、世界を変えるつもりだった」


 うわ言のように呟く言葉はレンジに向けられたものなのか判断がつかない。


「みんな、本気じゃなかったのかな……」


 レンジはレッドの横顔から視線をはずした。気の毒そうな目で見れば彼は気を悪くする。それほど寂しそうで、力が抜けているように見えた。


「友達はみんな、打ち砕かれていった……深く傷ついて、心を鈍くして、考えることをやめた」


 なにを言っているのかわからないけど、レッドはいつかの時間に語りかけているようだ。


「彼らの敵は俺の敵だ、あのころも、いまも、これからも……」


 大きな白銀のホルスが舞いあがってきて頭上で円を描いた。空の上でめずらしいものを見た、そんなふうに好奇を感じて寄ってきたのかもしれない。


 二人を伺うように近づいてきて旋回すると、朝日に光る体を垂直に傾けて勢いよく降下していった。


「あの鳥が、俺がまだここにいるって、友達に伝えてくれればいいのに……」


 二人は天と地と、陸と海の境にいる。



 レッドはレンジを見る。彼が自分を見ている。


 酒場で話しかけてきた青年、異世界から転生だか受肉だかして、自分は誰よりもまともだと主張する明らかにいかれた、少年のような青年が、茫洋とした琥珀の目で俺を見ている。なんでも信じてしまいそうな、危なげで泣いているような目。心になにを抱えているんだろうといつも思っていた。


「レンジ、本当に、おまえはどこからきたんだ?」


 覚束ない足取りで立ち上がる。最近は、夜も昼もずっと飲んでいる。さらに酒を呷って、陽光を眩しく受けて目が慣れるのを待った。


 太陽の光球をゆっくりと移動する黒い点は空鯨か。


「おまえのいた世界に連れてってくれよ……やり直したいな……」


 レンジが困惑した表情で見ている。


 青空を仰ぐ。未完の灯台が天を突く空の果てを見やって、両腕を翼のように広げて、冷たく澄んだ風を存分に受ける。


「天空へ架かる橋、いつになったら完成するんだ?」


 どうして空じゃなくて地に落ちる? 俺を地に引っ張るこの下向きの重力はなんだ? 体だけじゃなく心まで引っ張られる。悪い予感と重い気分に押し潰されそうだ。


「この酔いが覚めれば、また空の底で焼かれる」


 天空へ伸びた橋が消失する先を望めば、いよいよ澄み渡る青空へ魂が吸われていく思いがする。そうだ、そのまま、このからだ、空の微塵に散らばれ……



「レッド!」


 レンジは展望の外へ仰向けに倒れるレッドへ飛びついた。辛うじてその片足を捕まえる。


「なにしてんだ!」


 必死でブーツからズボンを手繰って引き上げる。レッドの手を離れた瓢箪が落ちていく。


「飲み過ぎだぞ!」


 叫びながらやっとベルトに手が届く。


 引き上げられながら、レッドは反転した天地をうつろに眺めた。デッキから半ば身を乗りだしたレンジが本気で怒っている。ベルトを強く引っ張られて、間近にその必死な顔が迫る。


 それは酔いどれの白昼夢だったのかもしれない。


 琥珀の目の奥に一瞬、見たこともない異世界を見た。巨大な四角い蜂の巣のような建物が大地を覆い尽くしている。光る鉄の塊がその間を無数に縫っていた。


 我慢できない風景。


 レンジの心象が入り込んでくる。それはレッドの心象と混ざり合って深い共感が生まれた。


 そして腹に走る鋭い痛み。


 呆然として、またデッキに座り込んでいる。レッドはレンジを深く憐れんだ。


 この二十歳にも満たない青年は、


「逃げてきたんだな、ヌースフィアに」


 可哀想だ、


「帰りたくないんだな、元いた世界に」


 青年の痛みが心を刺して堪らなかった。涙があふれてとまらない。レッドはレンジの頭を抱いて、この子を許してあげてほしい、俺が代わりにいくからと、なにかにひたすら祈り続けた。

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