第38話 チンチラ・イワシ学校へいく
赤煉瓦棟三階のテラスから、一心に剣技の稽古に没頭するレンジを眺めている。チンチラは想いに耽る、最近レンジが気になってしょうがない。
レンジは不思議な子。自分に常識があると思い込んでいるところが鼻につくけど、見た目はまあまあ可愛いし体格もそこそこ良くなってきた。琥珀色の目は悪いこと考えてなさそうだけど大したことも考えてなさそう。ギン博士にいつも怒られて喧嘩しているのに、博士の格好の真似したりして意味がわからない。絵はすごく下手、剣技も馬術も料理もなにもかも下手なのに、なんでもやりたがるところが馬鹿っぽくて面白い、でもどこかやっぱり不思議な子。
チンチラはぽりぽり食べていたナッツをレンジの後頭部に向かって投げた。命中して彼は驚いて周りを見回している。
この間、噴水のところにゾーイとレンジが二人でいるのを見て、なんとなく声をかけられなかった。レンジがボクの耳と尻尾を触りたがって、いつも目で追っているのが面白くて、ことさらに動かしてみたりしてレンジの表情が動くのを見るのが好きだったのに、最近あいつはゾーイのおっぱいとお尻ばかり見ていてけしからんと思う。
ボクの方が先にレンジに会ったのに……。
今度は殻付きの大きめを投げる。「いて」という声が聞こえた。チンチラは笑いをこらえながらレンジの視線から身を隠した。
ギンは困った。いつもは朝食のあと二度寝してから夕飯時までどこかをふらついて姿を見せないチンチラが、珍しく昼間の研究室に顔をだした。
「ボクも学校にいく」
彼女はスミレ色の瞳を煌めかせて素晴らしいアイデアにご満悦だった。
「高等部でしょ、ボクは制服着てもいいよ」
特例で入学させたレンジとゾーイが次々に問題を起こして、その度にアイユーブ学長にお土産持参で詫びを入れている。先日も、ゾーイが校舎の裏に勝手に作った菜園で違法な葉っぱを栽培していることが発覚して、事態を揉み消したばかりだった。
一人特例で中等部の試験を受けさせるから、とペネロペはアイユーブ学長から直接試験官の仕事を頼まれた。こんな時期に、と怪訝に思いながらもアッティラ家ゆかりの生徒の到着を待っている。教室には机一式がぽつんと、少し離れた位置にはペネロペが座る椅子が準備されている。
「やあ、名前なんていうの?」
突然背後から陽気な声をかけられてびっくりした。「うお!」思わずおっさんのような声をあげてしまった。
いつの間にかそこにいたのは、上機嫌で左右に揺れてステップを踏むネコマタの美少女だった。驚く胸を押さえながら「ペネロペよ」と答える。いつ現れたのかしらこの子は。
「チンチラ・イワシさん?」
彼女は筆記用具や辞書のたぐいはなにも持っていない、完全な手ぶらで来ていた。ペネロペはチンチラの胸の膨らみを見ながら怪訝に思う。中等部の子には見えないけれども、しかも透けてるじゃないの。
「よろしく、ペネロペ」
そう言ってチンチラは試験官用の椅子に座って、尻尾の位置を右から左に調整した。
「あ、こっちよイワシさん、すぐに始めていいから」
アッティラ家の子はみんな予測できない行動をすると教員間の噂だった。
チンチラは席を移って問題用紙をパラパラとめくってすぐに、
「わからない、答えは?」と聞いた。
「……?」
「答えを聞いてるんだけど?」
「……? これは、試験だから……」
ペネロペはちょっと鈍くさくて物分かりが悪そうだとチンチラは思った。軽く憐みながら丁寧に説明してあげる。
「一問もわからないよ、どうしてかというと、誰にも教えてもらったことない全然知らないこと聞かれてるからだよ。だから答えを教えてよ、そしたらわかるよ、ペネロペ」
「いや、まだ時間あるから考えて……」
「全然知らないんだから一年考えたってわからないよ。マルの広さなんか誰にもわからないよ、レンジなんか絶対わからないよバカだから、博士だってわからないかも。もしかしてなぞなぞ? これ」
事態の根本的なすれ違いを悟ったペネロペは、いったん時間を止めて、改めて試験というものをていねいに説明した。
「え、なにそれ、聞いてない……みんな試験に合格しないと学校いけないの? ゾーイとレンジも?」
ペネロペは、あの二人は裏口だから、と言いそうになったがそこは「多分……」と濁した。
チンチラは考え込んだ、尻尾を椅子の右に垂らしたり左に垂らしたりしながら、猫耳をせわしなく動かして。
なにを考えているのかしらこの子は。ペネロペは不安になってきた。あまり雲行きのいいことを考えているようには……。
「意地悪するな! ボクがネコマタだからかぁ!?」
急に怒りだした!
「わからないから勉強しにきてるんだぞ! レンジとキャンパスでデートしたいんだ!」
「なにをしたいって?」
ペネロペは狼狽えながらもチンチラをなだめる。あのひげもじゃ、なんでわたしにこんな役目を!
「この試験って誰が作ったの?」
「え?」
正直誰が作ったのかは知らない。
「アイユーブ学長かしら」
「そいつは禿げ?」
どうしていま頭髪の話題がでるのかしら。
「ひげもじゃだけど……うん、つるっ禿げね」
チンチラはだんっと机を叩く。
「やっぱり、そうだと思った」
チンチラ曰く、
「女神マンジャロ様かく語れり『禿げ散らかしている男は意地汚い』」
あからさまなカツラの教師がいてとても愉快で授業どころじゃない、とゾーイがけらけら笑いながら教えてくれた。
「なぞなぞ作る奴は性格が悪い!」
「それも、マンジャロ様が?」
「試験の問題を作る奴は地獄で焼かれろ!」
チンチラは思いを吐き出すと、机に手をついて倒立した。シャツがめくれて乳房があらわになる寸前に、両腕で軽やかにジャンプして机の上に着地する。
「学校でごはん食べたりデートするの楽しみにしてきたのにぃ! ボクにとっての大切なことをどうしてそんな禿げ散らかした意地悪に決められないといけないの!」
ものすごく怒っている、犬歯も見える、こわい。
机の上に仁王立ちのチンチラは、光る目でペネロペを見下ろして言った。
「連れてこい」
「誰を……かしら?」
「その禿げを連れてこいよぉ!」
チンチラは腰を激しく左右に振りながら両腕をぶんぶん振り回して駄々をこねた。
「ちょっと、なにこのネコマタ」
「ボクだってわきまえてる、暴力は振るわない。でもボクはそいつを許さない、怒ってやるぞ! 禿げにボクのなにがわかるんだぁ!」
チンチラがアッティラ家の衛士ということが確認されると、学外の治安機関まで出動する騒ぎになった。学長に呼び出されたギンとゾーイが駆けつけて説得することで、立てこもり事件は終結した。
チンチラはギンに抱っこされながら教室を出てきた。彼の首にしがみついて泣いている。ゾーイが横でしきりに慰めている。そのままアレクサンドリアから派遣された、帯刀した警備兵に囲まれて、野次馬の学生たちの間を連行されていった。
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