第32話 重そうに机にのせられた白い巨乳

 レンジはオーパーツと称するガラクタの分類整理がいちだんらくしてから、最近は空いた時間を図書館通いに費やしていた。講義への出禁が解除されたかどうかは確認してもいない。


 顔見知りになった司書の女性に、今日は勇気をもって名前を聞いてみることができた。


「ガブリエル・モモ。ガブリエルでもガブちゃんでもいいよ、好きにして」


 彼女はいつものように受付に座って、図書館には場違いな気怠い官能を漂わせていた。優しげな垂れ目が潤んで濡れている、ほんの少し開いている厚めの唇、金色の髪が鎖骨にかかって、胸元へ視線を誘導する。


 レンジは今日も重そうに机にのせられた白い巨乳から目が離せなかった。半分放り出された胸はゾーイのボリュームをしのいでいるようだ。呼吸に合わせて大きくなったり、さらに大きくなったりしている。


「はい、レンジくん」


 胸に似合わぬ幼顔の幼声で、図書カードにスタンプを押してもらう。レンジが受け取ろうとするとガブリエルは指で持ったまま離さない。引っ張ってカードを胸元に寄せる。レンジも引っ張るが離さない。


「ガブリエルさん……ガブちゃん」


「んん、むぅ」


 唸りながらしばらくレンジを困らせてからパッと指を離して、悪戯っぽく上目遣いで微笑んだ。またからかわれたみたいだ。


 

 アレクサンドリアの街はミスライム連合王国の領域内にあって、伝統的に高度な自治が認められている国際的な学術都市として長く君臨している。元々ミスライム地方は南のカンナビ地方と一体の歴史を歩んできたが、海の民や北方や東方の文明圏との交流や侵入が多く、いつしかミスライムと呼ばれるようになり、カンナビとはまた別の文化圏と認識されるようになってきて現代にいたる。


 西は広大な砂漠地帯を経て大地溝帯が南北に走っている。巨大な大地の裂け目は底まで調査が至っておらず、裂け目の向こうの大地は霊峰オボツカグラが見えるのみで、詳細はほとんど分かっていない地理の切れ目となる。砂漠にはいくつもの古代遺跡があることが知られているが、詳しい探索はほとんどされていない。


 地図上の大半が人跡未踏の広大な未確認地域になっており、伝説と神話に彩られている。世界の構造が平面か球体か、その果てがあるのかどうかすらわかっていない。


 レンジはため息をついた。積み上がった書物に囲まれながら、心躍る神秘に囲まれている。どうやら異世界に転移だか転生している、生きているのか死んでいるのかはわからないにしても。言葉も同じということは、現世とヌースフィアはなんらかの関係があるに決まっているのに、それがわからない。人の考えの及ばないところで辻褄が合っている、そういえばショコラがそんなことを言っていたけど、考えの及ばないところをこそ知りたくなる。


 手始めに神学関連の書物に転生と世界の秘密を訊ねると、長いし意味がわからなかった。文学哲学に目を移すと、どれもこれもこけおどしの言葉で愚にもつかない凡庸な思いつきをぐるぐるさせているだけに思えた。書いている奴の性格の悪さだけはよく伝わってくる。こんなもん俺以外の誰が読んでるんだと、苛立ちが募るばかりだった。


 空鯨について知りたい、とガブリエルに聞いたところ、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』という本を勧められた。


 この本によると空鯨というのは人の無意識に住んでいる鯨のことらしい。魂の最深部を遊弋する習性があると。人の無意識を泳ぎ回っている鯨、なんでそんなところに生息しているのだろうか。みんなが見てるってことは無意識を横断する能力があるのか? そもそも同じものが見えているのか? なんで鯨なんだ? 現世にはいなかった、いや、いたのかな。いくら考えてもわからない。


 レンジは受付で借りた燭台に火を灯した。隠しもってきた瓢箪を取り出して、街のガラクタ市で安く買ったお気に入りの器にエールを注ぐ。続いてゾーイお勧めの、サバンナ生活の実用書『冒険図鑑』を手にとった。

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