第33話 レッド1 歌と踊りと酒の帝国

 いつもギンのお使いで酒と料理の材料を買いに来る下町の居酒屋マンボゥで、その男は何度か見かけたことがあった。


 簡易な木の長テーブルが何列かとテーブル代わりの樽がいくつか置かれた居酒屋。いつも酔客達の喧騒が絶えない広い店の隅で、本を片手に一人で飲んでいる男だった。


 無造作に散らした赤毛と無精髭、冒険者か浪人にしては身なりが良かったが、着崩していてとりすました感じはなく、下町の酒場の雰囲気によく溶け込んでいる。洒落てるなぁ、というのがレンジの印象だった。


 親しくなった居酒屋店主のメッシが今日も買い物のお礼にカウンターで一杯くれた。メッシが別の客の相手をしているとき、店内をなんとなく見回していたときにその赤毛の男と目があった。


 男はビールと、マンボゥの名物料理で客の大半が注文するヌーの煮込みを箸でつつきながら、片手で持った本越しにレンジを見た。


 本を読み終わっている様子を確認して話しかけてみる。


「にいさん、どんな本なのそれ?」


 男は親しげな笑みを浮かべながら本を閉じて、表紙をレンジに向ける。『変身』フランツ・カフカとある。


「ある日突然それまでの能力を失って役立たずになった男の話。そいつは部屋に籠もるようになる、家族にも疎まれるようになってそのまま死ぬ。そいつが死んで、家族は明るくなる」


「ひどい話だな」


「あぁ、最悪だ」


 二人は笑い合う。読書家にしては気さくそうな男だった。


「ヌーの煮込みがまだ残ってる、よかったら食べていいぜ。『変身』読んでみるか?」


 レンジは自分のビールを持って席を移動する。


「読まないよ。なんでそんなひどい話をわざわざ本にするんだ?」


 レンジの疑問を聞いて男は楽しげに笑う。


「レッドだ、酒の商いをしてる」


「レッド、俺はレンジ。レッドのことはたまに見かけてたよ、いつも本を読んでる。俺も本好きなんだ」



 聞けばレッドも昔アレクサンドリアで学生時代を過ごしたという。レンジは最近図書館で本ばかり読んでいること、教師も嫌いだし、でくの棒のような周りの生徒も嫌いだし、要するに学校が嫌いだという話をした。話が弾んだ二人はビールとヌーの煮込みを追加する。


「なぁレンジ、人間が一番嫌がることってなんだと思う? みんなが一番見たくないもの」


「死ぬことかな?」


「自殺するやつもいるぜ」


 レンジは少し心を乱して勢いよくビールを煽った。確かにそうだ。


「人間が一番嫌がることは、本当の自分に向き合うことだ、本当の現実って言っても意味は同じだ」


 レッドは痩せ型の美男だった。声に魅力があって語り口に引き込まれる。黒目かと思ってよく見ると紫色をしている、大きく愛嬌のある目が人を警戒させない。


「どこにでもいる二束三文の男や女にすぎない現実に向き合うこと、特別な人間は存在しない、おまえも俺もあなたもわたしも誰もがな。延々続く日々のくそのような雑務は未来のどこにもつながらない。そして、生まれたての子供でも白髪混じりのじじいでも変わらない、俺たちはもうすぐ死んでしまう。なにをするにも短すぎる、一瞬のことさ」


 レンジはやばい人に声をかけてしまったかもしれないと思い始めた。


「レンジ、あれが世間だ」


 レッドが指差した先には、カウンター奥の巨大窯。ヌーの煮込みが窯から吹きこぼれながら、不気味な音をたてて煮えたぎっている。


「ああやって一日中いいもわるいも一緒にごちゃごちゃになって……」


 メッシが蓋を開けて大きなお玉で煮込みをすくう。慣れた手つきで手早く二皿盛り付けてまた蓋をのせた。


 レッドはレンジに視線を戻して告げる。


「世は燃えている、煩悩と原罪の炎に焼かれて」


 レッドの表情に不気味な艶が兆して、レンジはなにかの啓示か宣告を受けているような気分になった。


「あの蓋が開くと、俺たちは地獄に向き合うことになる」


 濡れたように光る大きな目、いまははっきりと濃い紫に見える。レッドの視線に射抜かれて動けない。


「まれに、わけのわからない熱情に駆られて釜の蓋を開ける奴があらわれる」


 店の喧騒が遠くなって、レッドの声だけが耳に響く。


「地獄に肉薄した奴は、行ったっきりで帰ってこない、悲惨で暗い顛末を迎える」


 レンジはなんだか怖くなって、夢の中で大声を絞り出すようにして、

「ヌーの肉だけに」と口にした。


「そう、ヌーの肉だけに肉薄」


 くだらないちゃちゃに付き合ってくれるレッドはいい奴かもしれない。レンジは濃厚でとろとろになっている煮込みを箸でつまんでビールを飲んだ。美味い、店の喧騒が戻った気がする。


「この本はそうやって地獄に迫った数少ない特別な本のひとつだ。アレクサンドリアの図書館にだってこういう本は何冊もない」


「本の話だったのか」


「純文学だ」


「それで結局、どうしてそんな地獄というか現実をわざわざ書くのさ?」


「それな、余計なお世話だよな」


「そうだよ、カフカって奴は気分が悪い」


 読まずに言い放つレンジの感想に、レッドはいかにも楽しそうに笑って、勘定をまとめて払ってくれた。


「俺は歌と踊りと酒の帝国をつくる。元気だして酩酊しながら最後までいくんだ、そうすれば地獄を見ないですむ」


 締めの言葉も謎めいている。レンジはこんな人に初めて会った。少し悪そうな印象と端正な印象が同居していてなにやら色気がある、わけのわからない迫力と魅力と説得力がある。やばい人には違いなさそうだけど。

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