第14話 どうして人を殺してはいけないのかな
幻想的で夢のようだった世界は、一瞬で血と火薬にまみれた即物的な世界に変わってしまった。
こんなの、どうしていいかわからない。女性の横にかがみ込んで、負傷者の腹の真っ赤な裂け目を押さえるレンジの指の隙間から、ホースのような内臓がどろりと飛び出した。負傷者が白目を剥いて痙攣が始まる。
「死んじゃうよこの人! どうすればいいか教えてくれ!」
焦ってレンジが叫ぶと、男性の口から勢いよく吐き出された血を浴びながら女性も鋭く叫び返す。
「押さえて!」
どこをどう押さえればいいのかわからず、ブルブルとすごい力で震える負傷者に覆いかぶさる。手のひらに触る内臓が驚くほど熱い。傷が深すぎる。人の体からこんなにたくさんの血が流れ出すなんて。急速にその力が失われていくのが分かる。動かなくなった。レンジはゆっくりと体を起こす。血まみれの自分の指先が震えている。
「重傷者と子供から! 水!」
その女性が指示を出す。レンジは血の海の中で必死になにかをやろうとするが、頭が真っ白になって動けない。
「レンジ! 食堂に水があるはずだよ」
チンチラが声をかけてくれた。水、さっきの食事処には水がある、そこから持ってくる、それなら出来る。
「よし! 水もってくる、チンチラもいくぞ!」
レンジは走り出す。背後で、お酒も! と叫ぶ女性の声が耳に入る。
ターバンをほどいて、束ねていた銀色のブレイズヘアを解放してふった。その人の名前はショコラ。ショコラ・イナムラ。宗教都市のエローラで神学を修めた聖職者だった。
ドラゴンの降臨は彼女がモガディシュの教会に赴任してすぐのことで、昨夜は官庁で、被災者の支援活動を行うためにダルエスサラームへ向かう手段を探していたという。
ショコラは目を閉じて朝日に向けて顔をしばらく晒す。
「何人かは助けられた」と言ってレンジに微笑んだ。
滑らかに光る黒い肌。肩口と胸元の袈裟の緩みから、肌が僅かに薄く色を変えているのが見える。凛とした快活な行動の人という印象を受ける。
明け方、遺族か引き取り先が見つかるまで布をかぶせて並べた遺体から、少し離れたところでレンジとチンチラとショコラは焚き火を囲んでいる。親切な街の人が慰労の言葉を添えて、やかんに入れたお茶と五穀米のおにぎりを差し入れてくれた。
レンジは夜通し走り回って、水汲みから負傷者の汚物の処理までなんでもやった。三人とも全身に浴びた血が乾いて服が緋色になっている。
チンチラはおにぎりを食べてすぐにレンジの膝を枕に眠ってしまった。彼女は三個もらったおにぎりをなんのためらいもなく二個食べた。
レンジは疲れ果てているはずなのに、神経がたかぶって眠気はない。昨夜の凄惨な光景がありありと目に浮かんで膝が震える。立て続けに起こった出来事の衝撃のなかにいた。
アカネマルの暗殺と無差別爆弾テロ。暗殺はチンチラとギンに阻まれた。街を眺めれば、民間人も含めて武装していることは珍しくない。チンチラが武器を集め持っているのを見て、変わった趣味だな、程度に思っていたが不穏な予感はしていた。治安は最悪みたいだ。
レンジは焚き火にかけて暖まったやかんのお茶を木の器に入れてショコラに渡す。自分の分も淹れてゆっくりと素朴な香りを堪能しながら口に含む。疲れた全身に染み入る美味さ。柔らかい朝日とお茶が、昨夜からの強張りを溶かしていく。
ショコラとおにぎりを半分に分けて食べた。彼女は大きい方をレンジにくれた。
「昨夜のあなたたちと一緒にいた人、アカネマル・キントキでしょ、幹事長の」
「そう、あとギン博士」
「ギン? アッティラ博士のこと?」
「なんとなくそんな雰囲気を感じてたけど、有名な人なんだね、あのおっさん。そう、アッティラ博士」
ギンの昨夜の剣技は凄かった、学者じゃないのかあの人は。そういえばこの猫娘の強さも無双だった、何者なんだいったい。
レンジはチンチラの髪の毛を撫でて無防備な寝顔を改めて眺める。よだれを拭いてあげた。
「なんとまあ」ショコラは目を丸くして感嘆した。「カラマーゾフ倶楽部にしたら大捕物だったわけだ」
カラマーゾフ倶楽部。昨夜の会話にもちらっと出てきた。
「カラマーゾフ倶楽部って?」
「カンナビ地方の反政府組織、過激派、テロリスト。混乱に乗じて猛威を振るってる。モガディシュでこの状況ならダルエスサラームはもっとひどいはずよ」
「そんな危ないところにいくの?」
「浮世の一番暗くて悲惨な深淵で仕事をするのが勤めだから」
ショコラの横顔は柔らかいようで厳しく迷いがない。なにより深く澄んだ青い目は、ふざけたものや中途半端なものを恥じらわせるような、不思議な力を宿している。
なんて深い目だろう。高貴。高貴なんて言葉は現世では死語だったけども、高貴な印象を受ける。俺は何者を前にしているんだろう。
「海路は無理だって話だったよ、船は全部連邦政府が召し上げたって」
「なんとかするよ」
「俺が決められることじゃないんだけど」と断りを入れたうえで、レンジはギンにショコラの力になるように協力を頼むことを約束した。
レンジとショコラは悲痛な声に顔を向けた。布をかぶせて並べられた遺体のひとつを確認して、泣き崩れている女性がいる。
ついさっき、何人かの見知らぬ人がレンジの腕の中で死んでいった。実際の死に立ち会ったのは生まれて初めてだった。
「ショコラ、素朴な疑問なんだけど……」と言ってレンジは少し沈黙する。
「ん? いいよ」とショコラはレンジの言葉をうながした。
「どうして人を殺してはいけないのかな?」
殺してはいけないわりに寿命以外で毎日人が死ぬ、現世でもこの異世界でも。そしてレンジの頭の中でも、街ごと何度も人を吹き飛ばした。
ショコラは二杯目のお茶を淹れながら淡々と答えた。
「殺人を肯定すると、誰もが死の危険と可能性を回避できなくなる。家族も社会も作れなくなって、結局みんな死んじゃうからね」
「強い人間が生き残るんじゃないの?」
「レンジ」ショコラはお茶を一口飲んで息をついて、丁寧にレンジを諭す。「生まれてから死ぬまでずっと強い人間はいない、ずっと賢い人間も、ずっと一人で生きていける人間もいない、一人も。ましてあなたは男の子、女に勝っているのは筋肉だけ、それ以外すべてに劣る、ちっとも強くない」
レンジは考え込んでいる。道理はわかるけど。
「確かに俺なんかが生きてるのは不思議なんだけど、どこに行っても殺人と戦争が多すぎないか」
ショコラは人差し指で天を指して言った。
「伝説では唯二人だけ、殺人と戦争の輪廻から自由になった人がいる」
「どなた?」
「ゴーダマさんとイエスさん」
お釈迦様とイエス様! こちらにもいらっしゃったのか。確かに、あの二人なら時空を超えるぐらいわけないかもしれない。
「彼らが人間だったのかはわからない」そう言ってショコラは微笑んだ。それから不思議そうにレンジをしばらく見つめる、深く青い目で。
「暗くて深いところ、あんまり覗き込まないようにね」
ショコラが居住まいを正して語り始める。
「人を殺しちゃいけないのは、人間は人間を殺す生き物だからよ」
飲みかけたお茶の器をレンジはゆっくりとおろした。
「人間は誰も煩悩と原罪から逃れられない、それがわたしたちの悪と暗さを喚起する、殺人と戦争はその現れ。あなたもわたしも人を殺すし、殺される」
「どうにも……ならない?」
「あなたの行いの因果はあなたの一生を超えている。あなたの殺人は今生か過去か未来であなたを殺す、確実に。別の世に生を受けても、絶対に逃げられない」
レンジの心臓が跳ねた。恐ろしいことを、この人は本当のことを言っていると直感した、どこか深い深淵から言葉を持ってきている。
「渦巻いている」
「なに?」
「星? 暗い……あなたが一番見たくないもの?」
レンジの呼吸が浅くなる。気配がする、渦を巻く暗い銀河の重力。
「ごめん、レンジそっちにいくよ」ショコラは不用意に心を覗いたことを詫びたつもりだった。
場所を移って、チンチラを起こさないように気を使いながら、ゆっくりとレンジを抱きしめて頬と頬をくっつける。
「君が変なこと聞くから、ついね」
胸の内の暗い渦巻銀河が遠のいていく。ショコラから不思議な力が流れ込んだ。なんだ、この人は。
「若いんだから、暗い方見なくてすむように、集中できること探しなさい」
レンジはうなずいて、しばらくショコラの体温を感じ続けた。
朝日が顔に強く当たりだして、チンチラがむずがりだしたのを機に、レンジはゆっくりと立ちあがって伸びをした。
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