第9話 園児の悪夢に出てくる魔獣

 昨夜寝る前に、ギンから紙を何枚かと羽飾りの付いたペンと青緑のインクの壺を渡された。


「明日も朝から調査を続ける、退屈させて悪いがな。これでおまえが見たドラゴンをスケッチしておいてくれ。正確にな、思い込みや先入観で描くなよ。目は何個だった、指は何本だった、歯はどんなだった、特徴的な部位は描き漏らすなよ」


 今日も早朝から調査は続いている。砂浜のギンは目をギラギラと輝かせながら誰よりも長く活発に働いている。彼はほとんど寝てもいないし休んでもいないようだ。


 レンジは相変わらずやることもないから調査の様子を日がな一日眺め続けるしかない。陸側からも調査団が合流した様子だった。隊列を組んで荒野を横切って来たみたいだった。荷を引いている動物、あれは馬か。他にも見慣れない家畜がいるみたいだった。


 レンジは船上で昨日のドラゴンを思い出しながら苦手な絵に苦心している。砂浜に降りてあの馬に触ったり、好きに動き回ってみたい気持ちはあるが、この事実上の軟禁状態は苦にならなかった。


 周囲の音や色が鮮やかに感じられるようになっている。海の色、空の色。緑のものは緑に、青いものは青く見える、それがこんなに気持ちいい。自然な五感が蘇っている。いつも胸を締めつけていたあの暗い銀河の重力は、いまは感じない。どうしてそんな変化が起こったのか、考えてもしょうがない。別の世界に転生することに比べたら、なにが起こっても驚くにはあたらない。


 現世では核爆発と廃墟のイメージ以外なんにも興味がなくなっていたのに、今はこの世界のこと、知りたいと思う。だからしばらくはギンといていいと判断する。他に選択肢もない。



 レンジが甲板でひたすら海を見ていると、後ろからそっと近づいてきたチンチラが、わっと言いながらレンジの背中を押して悪戯する。にこにこ笑いながらレンジの肩に顎を乗せて、魚の影を追いかける。そっちに興味が移るともうレンジの肩に顎を乗せていることも、積荷の分類の仕事も忘れて魚に夢中になってしまうのがチンチラだった。海面に跳ねた魚を獲ろうとしたのか、急に海に向かって手を伸ばして甲板から落ちそうになる。


「わあ、危ないよう」と言いながらも楽しそうに笑っている。


「チンチラ、分類の仕事終わったの?」


「ああ、忘れてた、全然やってないや。また博士に怒られる」


 朝からこんな午後遅くまで膨大な暇時間に彼女は何をしていたんだろう。


 チンチラは積み上げられた木箱の方へ向かう。その姿は均整が取れていて見惚れてしまう。そこそこに揺れる船の上、さらには雑然とものが置かれている歩きづらい甲板なのに、その歩調は滑らかで淀みがない。猫由来のバランス感覚だろうか。海風にシャツがはためくたびに乳房とくびれたおなかが丸見えになるのが困る。


 やっと仕事を始めるのかと思ったら、チンチラは木箱の間から釣竿を引っ張り出して、鼻歌を歌いながら釣りを始めた。



 夕方近くになると、不審な船がうろつき始めた。ギンによる手配の船ではなさそうだった。彼と人足たちはなにか可及のやりとりを始めているように見えた。


 陸側の被災地にも豆粒ほども小さく、ギンの調査団以外の集団がちらほらと目につき始める。


 夕焼けが人足たちの影を長く濃く引き始めた頃に、くたくたに疲れ切ったギンが戻ってきた。小舟からダウ船に乗り込みながら二人に出発を告げる。


「名残惜しいが引き揚げだ。悪いことをしてるわけじゃないんだがな、大人の事情もある」


 レンジもチンチラもギンと目を合わせようとしない。


「なんだ、どうした?」


 チンチラは他にやることはなにもなかったのに、ギンに頼まれていた仕事は何一つ一切やらなかった。


 レンジが「尻尾は長かったけど……」と言いながら渡したドラゴンのスケッチは、まるで幼稚園児の悪夢に出てくる魔獣のような出来栄えだった。ギンは本気で怒って船を移ってしまった。

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