第7話 チンチラ・イワシ

 レンジは取り止めもない思考が流れるがままに、船縁ふなべりからボーッと海を眺めている。ギンの指示で小さい方の船に乗っている。こんな状況なのにとても落ちついている自分を見つけた。現世で常に感じていた苛立ちやわけのわからない焦燥は感じない、なにより体が軽い。そういえば天幕ひとつない野外で昨夜はぐっすりと眠ることができた。いつもはよく眠れると称する薬を飲んでも、眠っている実感もないままに悪夢と共に最悪な気分で目覚めていたのに。こんな普通の眠りと目覚めがあることも忘れかけていた。


 午後の豊富な陽光で海はエメラルドに光っている。船から身を乗り出して海面を覗くと、白い砂に緑の藻が点在する海底まで透き通って見える。青い空と白い雲としか言いようがない天気。ため息が出るほど綺麗だ。


 こんなに穏やかな気分になったのはいつ以来だろう。船の揺れを心地よく感じながら、レンジは自分の来し方を思い返して探してみる。穏やかな気分は小学校の頃までさかのぼらないと見つかりそうになかった。現世の記憶は残っている。



 突然両肩に手が置かれる。驚いて振り向くといない。手は肩に置かれたままだ。反対から振り向くとまたいない。レンジはゆっくりと左から振り向くと見せかけて右! いない。


 せっかく激しい動きをしたのに後ろで悪戯いたずらをしている人の顔は見えなかった。レンジはあっさり諦めて肩に置かれた手を握ってみる。掴んだ手の感触に違和感。手の甲に柔らかく長い産毛うぶげがたくさん。驚いて思わず手を離すと、きゅっと肩の手に力が入り、悪戯者はレンジの肩を使って倒立前転しながら体を捻って、船のへりに身軽に降り立った。


 正面から向かい合ったその人間は猫だ。猫人間!


 大きなアーモンド型の目、肩までふわりと広がる銀色の髪と、同じ色合いの飾り毛に覆われた三角の猫耳。膝の下ほどまである長いフサフサの尻尾が揺れている。手の甲から二の腕にかけてと、ボタンを外した白いシャツから覗く胸元にかけても柔らかそうな白に近い産毛が生えている。いかにも子供じみた悪戯をしそうな、茶目っ気のある顔つき。笑みを浮かべながらレンジを覗き込んでいる目はスミレ色の虹彩こうさい


 突然現れたその幻想生物は船のへりを危なげもなく軽やかにステップを踏みながら右へ左へ移動する。


「レンジっていうんでしょ」


 喋った。


「君は?」


「ボクはチンチラ。君、あんまり見ない顔してるけど、どっから来たの?」


 デニムのように見える素材の短パンからすらりと伸びた長い足には銀毛は生えていない。簡素な薄着なのに、豪奢な尻尾と上半身の薄い銀毛が相まってとても華やかに見える。


「それが、よくわからないんだ」


 実際君も含めてなにがなんだかわからない、とレンジは思う。


 そうなんだ、と言いながらチンチラは船縁から飛び降りる。甲板に吸い付くように着地して、まったく足音をたてない。踊るような独特の歩幅で、レンジの周囲を回り始める。鼻を寄せて匂いを嗅いだり、珍しそうにレンジのシャツをつまんだり。脇腹をくすぐってレンジが体を捩ると嬉しそうにしたり。


 そのうち気が済んだのか甲板に元から積んであった木箱からじゃらじゃらと何本も武器を取り出して床に並べ始めた。しばらくしてチンチラは、錆びないように手入れをするから手伝って、とレンジを呼んだ。

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