第2章 ヌースフィア

第5話 被災地の海辺

 初めに見えたのは、赤く巨大な目玉に映る自分の姿だった。ドラゴンが頭を寄せて間近からレンジを見つめている。真っ赤な眼球の直径が長身のレンジよりも大きい。天地はもう揺れていない。あの光球と轟音も消えている。静謐な空気に変わっていた。


 圧倒的な光景に魂が飛ばされて、呼吸すら忘れていた。一息吐いて、ドラゴンを眺めてみる。恐る恐る少しずつ。ドラゴンの白く長い巨体の所々に綺麗な赤い筋模様が入っている。体表はうろこのようにも羽毛のようにも見える。たてがみのような立派な毛がそよいでいる。


 ドラゴンがレンジに迫っていた頭部をあげて自然な姿勢に戻る。それから伸びをするように胴体と同じぐらい長大な羽をゆっくりと広げて閉じた。その間も、窺い知れない神秘を湛えたドラゴンの目はレンジに視線を合わせたままだった。圧倒されて声もでない。美しさも荘厳さも巨大さも隔絶している。


 潮騒で我に返った。そこに波の音も、潮の香りも、海風もずっとあったはずなのに気がつかなかった。落ちついて改めて周りを見回してみる。


 俺は東京にいたはずなのに……。真っ白い砂浜にドラゴンと向かい合って一人立っている。静かな波が寄せる海辺にいる。ドラゴンはその胴体と脚の先を波に洗われながら、海から陸を望んでいる。


 レンジはドラゴンの視線を感じながら、振り向いてみる。陸側には白茶けたまっさらな景色が見渡す限りに広がっていた。空は気味が悪いほどくっきりとしたオレンジの夕焼け。この土地は最初からこんなに平らだったのか、あるいは勾配こうばいごとなにもかもが根こそぎ吹き飛んだのか。


 遥か彼方に低い山脈のように盛り上がった瓦礫の山が見える。炎が揺らめいて、白と黒の煙がたなびいている。夕焼けのオレンジにまぎれて揺れるその炎は、瓦礫を糧に空を焦がす勢いで高く大きく燃えあがっている。彼方の瓦礫と炎は視界一杯に広がっている。世の終わりのような光景だ。


 大きな質量が動く気配と突風に煽られて振り向くと、ドラゴンが翼を大きく左右に広げて飛び立つところだった。巻き起こる暴風と視界を覆う巨体に気圧されてレンジは砂浜に倒れこんだ。


 ドラゴンはゆっくりと高度をあげる。胴体を捻り、長大な尻尾を海面から引きあげるときに大きな波を立てる。海水が逆巻いて白い砂浜に不規則な大波が寄せた。巨体から飛沫が落ちて大雨の音がする。風に乗っているのか、自ら浮かぶ力があるのかわからない。悠々と、堂々と海の彼方へ飛び去っていく。信じられないほどに美しく荘厳な光景にまた魂を奪われて、一瞬も目を離すことができない。



 ドラゴンが視界の届かない海の彼方に至ったのか、夜の青が先にドラゴンを隠したのかわからない。周囲は速やかに暗くなっていく。海と空の境に近い方からたくさんの星が瞬き始めていた。


 レンジは砂浜に立ち尽くしたまま、茫然と多感な風光の移り変わりを眺め続けた。真っ白い砂浜に寄せる波は穏やかで、波打ち際に、片方のハサミがとても大きい紫色のかにがゆっくりと歩いている。砂に潜っていて災厄を免れたようだ。穴から点々と続く足跡が可愛らしい。



 月の下に船を見つけた。帆を立てて、とても古風に見える船がゆっくりとわずかに揺れながら少しずつ砂浜に近づいてくる。レンジは長いことその船を眺め続けた。


 波打ち際から随分離れたところへ船は止まった。舳先に明かりを手にした人が見える。その人影はしばらくして意を決したように海に飛び降りた。小さく飛沫の音がして、ももの辺りまで海に浸かったのが見えた。遠浅の海だ。人影は手に持った明かりを濡らさないように気を使いながら、急ぐように水を掻き分けて来る。見たことのない服装をしている。着物に似ていなくもない。明かりはランタンか。


 男はレンジに近づくに連れてゆっくりと歩みを緩めて、波打ち際に至りお互いの顔が見える距離まで近づいて立ち止まった。男の足首を波が洗っている。


 しばらく向き合って無言が続いて、レンジが先に口火を切った。


「お迎え?」


 その男は強い印象を受ける迫力のある目をレンジから離さずに眉間に皺を寄せる。レンジの言葉を理解しようとしている表情に見えた。レンジが続ける。


「潮の香りがするけどもここは三途の川で、あなたが俺をあの世に迎えに来た」


 それが一番合理的に思える。俺は地震でぺしゃんこになったか、ドラゴンに喰われたか、腹を切った時に死んでしまったに違いない、とレンジは考えた。


「どこから来た」


 明瞭な、落ちついた声でその男は言った。


「ここはどこで、あなたは誰だ」とレンジは返す。


 男は明かりをあげてレンジの表情を探りながら問いかけを続ける。


「ドラゴン見たか」

「見た」


 男に害意があるようには感じない。


「どうだった?」

「……でかくて、綺麗で……でかい」

「話、聞かせてくれ」と言いながら男はレンジとの距離を詰めてきた。

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