第4話 東京震災

 怒り狂ったハブのような殺気をまき散らしながら、脳内に交響するいちゃもんのアリアに憔悴した蓮次は、ようやく東京駅にたどり着いて、駅に隣接したデパートで包丁を買った。すぐに封を切ってベルトとデニムの隙間に差し込んでシャツで隠す。


 駅構内を横切って、丸の内口を出る。駅舎や高層ビルを背景に写真を撮る観光客がちらほら、駅に向かう帰りのスーツ達。似合わないスーツを着るのをやめろ、頼むから。


 蓮次はその人の流れとは逆を行って、丸ビルの前の信号をわたる。行幸ぎょうこう通りの大きな歩道を進んでいくと、夕日がいっぱいに注いで並木の影がくっきりと長い。御堀をわたって右手に和田倉公園の噴水、左手に広大な皇居前広場を望む。


 水と空と緑があるだけで呼吸がましになる。内堀通りを挟んで巨大な石垣とやぐらと門が見える。振り返ると東京駅の赤レンガ。東京で正視に耐える数少ない景色だからここを選んだ。


 蓮次は夕陽に向かって両膝をついてシャツのボタンを下から何個かはずす。包丁の先を腹に当てる、へそから少し左下。ここを突き刺して横に引けばいいんだな。余力があれば内臓を引き摺り出す。さらに余力があれば喉か心臓を突き刺す、それで全て終わる。暗い渦巻銀河に呑み込まれる前に終わらせなければ。



 広々とした風景がほんの少し蓮次を楽にした。最後ぐらい、身の内の不快と怒りが少しでもおさまることを願って、深く息を吸って吐いてみる。


 毎日毎日、取り返しのつかない何かがすごい勢いで失われていくことになす術もない。いくら怒ってもなにも変わらない。怒れば怒るほど怒りが湧いてくるだけ。



 この世界は変えられないか?



 無性に悲しくなって涙がでてきた。この世の最後なのに悲しいことばかり思い出して涙がでてくる。楽しいことだってあったはずなのに。楽しいことから、嬉しいことから、感動から、いつの間にか遠く隔てられてしまった。この目も耳も鼻も皮膚も不快なものだけを感受する。口からは呪いの言葉を吐き散らす。こんな状態でどうやって生きていく。



 俺はもう、治らないのか……?



 誰かに、なにかに、許しを乞いたいという強烈な気持ちが湧きあがる。出自がわからない罪悪感。犯してもいない罪で罰せられているなら、誰でもいいから、なんでもいいから、もう許してほしい。



 俺はもう、駄目みたいだ……。



 不意に地面が沈んで次の瞬間、蓮次の全身は地面から跳ね上げられて浮いた。同時に左右からの衝撃に感覚を失う。激震に視界がぶれて、なにが起きているのかわからない。地面に這いつくばって反射神経だけで体を支える。


 感覚が、少しずつ周りで起きていることの断片をとらえだす。高層ビルの壁面、軋みをあげたコンクリートから塵の煙が吹きあがっている。ガラスか、もしかしたら人、細かい物体がその壁面を落ちていく。あらゆるものが擦れ合いぶつかり合って軋む重低音が鼓膜を震わせる。



 御堀の向こう、石垣の上の松のさらに奥に広がる森から、突然白いうろこのようなものが盛りあがる。



 地震だ。遂に東京にその時が来た。蓮次はさらに激しくなる揺れで立ちあがれないまま周囲に目を向ける。丸ビル二棟がありえない角度に傾いて、東京駅の赤レンガを視界から隠した。



 皇居の石垣に巨大な鉤爪かぎづめがかかって、大量の土砂が堀に落ちて飛沫ひまつをあげる。



 倒壊していくビルから凄まじい勢いでコンクリート混じりの白煙が舞う。広大な皇居前広場全域が粉塵ふんじんに覆われた。稲光のような光が走って、火の手があがる。蓮次は自分でもわけのわからない叫びをあげている。轟音にかき消されて自分の叫びも聞こえない。


 遂に来た、この時が。どこかでこの時を待ち望んでいた。東京が廃墟に戻る、世界の終わり。ずっと望んでいた光景。蓮次は大きく揺られながらも立ちあがって叫び続けた。



 皇居前広場を覆う塵煙を白い翼が扇いで竜巻を起こす。



 震災の東京に出現した獣から放たれた光球が、蓮次を包んで膨らんでいく。目の届く限りのビルが倒壊して、ばらばらに粉砕された瓦礫が空に跳ねあげられていく。雷が延々と鳴り響いているような轟音が全身を揺すり続けている。戦慄が極まった瞬間、天地の感覚がなくなった。

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