42nd Mov. 君との発表会

 イチョウ並木の回廊で紬を抱きしめた僕。

 突然のことでも嫌がらず受け入れてくれる紬。


「ごめん。それとありがとう」

「うん。少し元気が出たみたいで良かった」


「元気出たかな? いや、元気出たと思う」

「うんうん。それなら良かったです」


 彼女の温かさを感じて、僕の腕はそれを離さないように力が入る。


「拓人くん、ちょっと苦しい……かも」

「ごめん!」


 彼女の肩を突き放すように押して距離を取る。

 それでも彼女に不快な表情はなく、やわらかく微笑んでいる。

 僕は、思わず再び彼女を抱きしめてしまった。

 やはり彼女は嫌がらない。


「…………拓人くん。私、拓人くんのピアノ聴きたい。拓人くんの『アラベスク』聴きたいな」

「うん。……下手糞だけど。……それでも紬に聴いて欲しい」


 あれだけピアノに拒否感が出ていたのに。

 紬に聴きたいと言われて、素直に返事が出来た。


 僕は聞いて欲しかったんだ。

 たくさんの観客にではなくて、紬に。

 眩しくて遠い存在の彼女に。

 少しでも近づいたよって伝えたくて。


 それなのに、自分の演奏をすることに頭が一杯になって、本番でも上手くやろうとしてグチャグチャになって。それで失敗した自分にガッカリして。


 でも違った。彼女に届けられればそれで良かったんだ。

 だから、これからが僕の本番だ。


 ※


 昭和記念公園から駅に戻る。

 紬は『うさぎピアノ教室 立川校』のブースを押さえてくれていたらしい。

 そこで僕たちの演奏会をする。


 小さなホール。

 ピアノも小さい。

 それでもここが僕のホール。


 ミニ発表会でやりたかった演奏。風景を思い浮かべてピアノに向かう。

 一人だけの観客は椅子に座って僕を見ている。


 弾き始め。

 左手の和音は小気味良く、でも軽くなり過ぎないように。

 右手のメロディーは音階を駆けあがる勢いを大事に。

 二番の指も四番の指も音を揃えて、同じ大きさに。


 キレ良く、テンポを守って。

 不思議なくらいに調子が良い。音のイメージに指が追いかけてくるようだ。

 なぜかカナールを歩いた記憶が蘇る。手を繋いでステップをしながら、五線譜に見立てたカナールを歩いた。楽しい思い出。

 彼女の鼻歌に引っ張られそうになりながらも、振り切るように弾ききる。


 二分にも満たない曲。僕の発表会はこれだけ。

 これだけのことが全く出来ずに終わったんだな。あの時は。


 ピアノから彼女へ視線を送ると、涙ぐんだ彼女が手を叩く。


「拓人くんの『アラベスク』良かったよ。ちゃんと拓人くんの演奏になってた。発表会でもこうしたかったんだね」

「どうだろう。発表会に向けて練習していた時より上手に弾けた気がするんだよね」


「そっか。私はなぜかカナールの光景を思い出しちゃった。さっき行ったばかりだったからかな」

「たぶん、間違ってないかも。弾きながら、僕もあそこを思い出していたから」


「ふふっ。一緒だね! ちゃんと伝わってたよ」

「だけど紬の鼻歌に引っ張られそうで大変だったよ」


「もう! あれは聞かなかったことにして!」

「無理だよ。あの光景と一緒にインプットされちゃったみたいだから。これからあそこを通るたびに、あの鼻歌も思い出しちゃうだろうな」


「いじわる! じゃあ、またこの後カナール行こう! 記憶を上書きしなきゃ」


 よっぽど鼻歌を記憶されるのが嫌なようで、力技で上書きしようと提案してくる紬。でも彼女の鼻歌は、出かける度に結構聞いていて今更感もある。

 きっと彼女は鼻歌を歌っている意識が無いことが多いんじゃないかなと思う。


 今回は初めて話題にしたことで、僕に聴かれてしまったと思い込んでいるようだ。


「それも良いけど、お腹すいちゃったかな。お昼食べてからなら良いよ」

「えっ! もうそんな時間! いけない! 午後からレッスンがあるの」


「そっか。じゃあ記憶の上書きはまた今度だね。もう少し一緒にいたかったけど残念だ」

「私だってもっと一緒にいたかったし、記憶を上書きしたかったもん。でも今から行ってたら、生徒さんが来ちゃう」


「しょうがないね。お仕事前に時間を取ってくれてありがとう」


 優しく彼女を抱きしめた。


「良いの。拓人くん元気が無くて心配だったから」

「心配かけちゃったね。まだ失敗した記憶を思い出しちゃうこともあるけど。たぶん、もう大丈夫」


 ミニ発表で失敗した苦い記憶。

 苦くて苦くて思い出したくないのに、ふとした拍子に口に広がる。

 目が覚めてすぐでも、ご飯を食べていても、場所を選ばない。


 それなのに。

 彼女が側にいてくれると、その苦みは噛み締められる程度のほろ苦いビターな味に変わる。


 苦いには変わらないけど。それでも。

 たぶん、大丈夫。


 ※


 抱きしめたまま話しているから、自然と近い距離で見つめ合う。

 広くないレッスンブース。ここには僕と紬だけ。


 紬の顎が軽く上がる。

 僕はそれを迎えるように顔を近づけた。

 ゆっくりと縮まる距離。


 彼女は目を閉じて――――


「えっ! お母さん!!!」


 バッと離れた紬がブースのドアの方を見て驚いている。

 何が何だか分からない僕もそちらをみると、防音ドアの細いガラスからのぞき込む顔。先ほどまで抱きしめていた彼女に似た顔が、こちらを覗いていた。


 その除きまは悪びれることも無くドアを開けて入ってきた。


「残念。見つかっちゃった。あとちょっとだったのにね、紬。私のことは気にせず、そのまま行っちゃえば良かったのに」

「出来る訳ないでしょ! それより何で覗いてるの!」


「野田君の演奏が聞こえたと思ったら、急に静かになったのよ? これは何かあると思うじゃない」

「だからって覗かないでしょ! もう!」

「えーと、僕、帰りますね。紬はレッスンの準備があるみたいだし」


「はーい。じゃあね、野田君。次のレッスンで待ってるわ」

「はい。また一から出直します。よろしくお願いします」


 まだお怒り気味の紬にも目線で挨拶をしてブースを出る。

 教室の出口まで行くと、紬が追いかけてきて、耳元で囁く。


「また今度ね」


 肩につかまり、背伸びした彼女は僕の耳の側で言った言葉。

 小さな囁き声だったのに、やけにはっきりと聞こえた言葉。

 また今度ってただのお別れの言葉? それとも……。

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